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播磨の赤松一族と国人衆の足跡コミュの赤松一族と国人衆に縁のある神社・寺院

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赤松一族や赤松氏に味方した国人衆達が祈願をしたりした神社や、建立されたり眠られていたりする寺院を紹介するトピを立ててみましたわーい(嬉しい顔)

まずはここのコミュでは何の説明の必要がないであろうお寺ですねムード
赤松氏挙兵の地に建つ法雲寺と隣町で名前の由来となった「赤松」に建つ宝林寺です。
この二つのお寺は赤松史の起源の地ですので外せませんね。

龍野太子バイパスを下りてすぐ左側に宝林寺という名前のお寺がありますが
そこで産まれた宗峰妙超(浦上一国と円心公の姉or妹の子)が有名な京都紫野の大徳寺を建立した大橙国師なんですが、あの京都の大徳寺の起源が赤松則村(円心)公の寄進により洛北紫野の地に小堂を建立したのが始まりだそうですね。また、花園法皇より深く帰依されましたので後に大徳寺は更に大きくなりましたね。

赤松に建つ「宝林寺」と宗峰妙超が生まれた「宝林寺」・・・何か物語がありそうな雰囲気もする様なしない様な・・・ウッシッシ

カメラ?苔縄 法雲寺?苔縄 法雲寺のビャクシンの木と円心公廟?赤松 宝林寺と宝物館です。 

コメント(48)

Etoile Brillante☆さん

お久しぶりですわーい(嬉しい顔)
太子町の斑鳩寺は良いですね。
あそこは、山名氏との戦いか尼子氏との戦いで全て焼け落ちた後の復興が
龍野赤松氏だったから政秀さんと広秀さんの供養塔の後ろには讃える言葉刻まれてますよね。
もし、創建当時の仏閣が一つでも残っていたら確実に国宝建築だっただろうに
残念ですが再建された斑鳩寺も立派ですねるんるん
船越山 瑠璃寺です。カメラ?(高野山真言宗別格本山)

赤松の根拠地である佐用町にあります。
ここは、開山は有名な僧 行基とされ神亀五年(728年)からある古刹ですが
時勢により衰退していた所を円心公の末弟といわれてる僧 覚祐さんを開山にして時の赤松家惣領の則祐さんが再興させ、兄の貞範さん達も含めて応安2年に造られた鐘(応安の鐘)があり寄進に関わった赤松族の名が刻まれており今でも残っています。
嘉吉の乱の時も、確かここの赤松族が供養に動いてますね。

この写真を撮影した時は雨で最近の長雨により参道入り口付近の急峻な山が崩れていて入り口から駐車場付近の本坊まで道から小川を隔てた側が崩落跡が見られました。
今は、本坊前の橋は架け替え中でして迂回して入るのですがなんか構えが堅固に見えてしまいましたカメラあせあせ(飛び散る汗)
本来の門ではなく迂回路の近くの門前の横には、とても荒い彫りの像が一体立ってあり両手を前で合わせている姿でした。
が・・・どうみても兜に鹿の角の脇立てを付け具足に身を固め刀を差している武者の姿に見えましたあせあせ(飛び散る汗)
こんなの見たの始めてだしたんでビックリでしたあせあせ

参道に立つ幟の紋は、まさに「赤松」exclamation ×2
赤松一族との縁の深さが、にじみとれますね電球
今回は、現地に到着が17時過ぎだったのと雨だったのとで残念ながら本坊までしか行けませんでしたので他は次回行った際に「るり寺パ−ト2」にてカメラUPしまするウッシッシ
医王山 広厳寺 (楠寺)

ここは、後醍醐天皇の勅願によって元徳元年(1329)に焔恵明極を開山に創建されたそうで、往時は七堂伽藍を完備して支房63もあった巨大寺院だったそうです。
1336年5月 湊川合戦の時、楠木正成公は開戦前に焔恵明極と問答をして出陣された様で最期の楠木族の自刃も寺内にあった無偽庵(湊川神社本殿西横)だったそうです。
今は、楠木正成公の菩提寺であり、広く楠寺として知られてるそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・電球
で、終わりません赤松コミュですんでウッシッシ

当然の事ながら、大規模な戦闘が繰り広げられた現神戸市内に於いて往時の広厳寺も戦火に巻き込まれ焼け落ちた事でしょう。
しかし、抜群の戦功により足利尊氏将軍から播磨国=円心公 摂津国=範資さん 美作国=貞範さんを守護職を賜った後(湊川合戦より一年後)この広厳寺を復興させたのが攝津守護の範資さんだった様で息子の光範さんの頃に完成したようで本来は赤松氏縁のお寺でもあるはずなのですウッシッシ

江戸期にはまた、荒廃が進んでた様で復興の為に尽力された千巌和尚さんが時の将軍家 徳川氏が自称 新田一族で「大日本史」を編纂した水戸の光圀の楠公顕彰の志を知り復興協力を頼んだみたいですね。
今の、湊川神社も往時は広厳寺の境内だった様ですね。

ここで、引っ掛かるのが湊川合戦のすぐ翌年すぐにこの寺の復興を始めたのはなぜでしょうか・・・?赤松勢が多く討ち死にしたのか?敵であった楠木正成公と一党の菩提を弔うため?? 少なくとも新田軍の戦闘場所ではないので新田関連では無さそうですねあせあせ
ご無沙汰しております。

うまく言えませんが、
井沢元彦氏が『逆説の日本史』等でよく言われている「日本人の怨霊信仰」の法則というか考え方でいくと、
「敵になっちゃいましたが、ちゃんとお祀りしますんで、楠木さん達よ、怨霊になって災いを起こさないで下さいね」
という赤松氏としての気持ちもあったのかもしれませんね。

そのために、一刻も早く、霊魂を鎮める場所が必要だったと。
しんぼっちさん

確かに「怨霊信仰」説も考えられます。
正成怨霊伝説もありますねあせあせ
「太平記」巻二十三
某モ最期ノ悪念ニ被引テ罪障深カリシカバ、今千頭王鬼ト成テ、七頭ノ牛ニ乗レリ・・・。
1341年に伊予国の大森彦七盛長が夢を見たそうで正成公の後に後醍醐天皇・大塔宮・新田義貞・平忠正・源義経・平教経など多数付き従っていたとか・・ふらふらでも、大般若経の真読により鎮まったとの報告だったそうですね。
これはでも、当時伊予近辺に居た脇屋義助・大館氏明・土井・得能など南朝勢力の衰退を説いたモノだとか大森家が猿楽の者であったとか・・湯のみ
いずれにせよ、「大般若経にて鎮まった」様ですが室町幕府としては多少は怖れていた部分もあったんでしょうねげっそり

でも、もう一つ考えられるのが楠木正遠の娘・・つまり正成の姉or妹を赤松(円心)則村の弟 別所敦光が妻にもらっているので正成とは義兄弟です。
そして、楠木正成が播磨の楠木族に送った書簡も残っていたり楠木正成の名が刻まれた武器「鎧通し」などを赤松族の本郷氏が所持をしていたり楠木氏旗下の河辺氏などが円心公四男の氏範さんに仕えたりと人的交流を伺わせる材料もあるんですよ。

そも、楠木氏の財政基盤と赤松氏の財政基盤は扱う物は多少違えど似ているのと情報網はお互い広く早くから交流があっても不思議ではない。
また、赤松円心公が挙兵するまで三男則祐さんと小寺相模守頼季さんは大塔宮に付き従っていて楠木氏との面識となんらかの接触があっても不思議ではないんですよね。
そして、正成公の花押付き古文書に見る1336年正月廿日付にしたためられた古文書にはかたみとして残しおく物と場所?が書いてあり隼人という若者を差し下す事。あなたの器量・成長を見届けたい思い。いよいよ時が来た思い。そして学問に怠けることなく励んだ後・・・我等の心中を察して欲しいという様な内容でした。宛て先は楠庄太郎さんの様です。
この部分を見た時「梅松論」にある楠公が後醍醐帝に進言した新田を誅して足利と君臣和睦を」の話と繋がる気がします。
まさにその時に新田に攻められている赤松の白旗城の尾根伝いには伝 楠木城(築城は新田の白旗城攻めの後世かは不明)まであったらしくまた、もし楠庄太郎さんが播磨に居た?のは新田の部隊だとしたら正成さんと共闘してる訳で私は文脈がおかしい気がします。
佐用付近には木南姓が多く楠木の子孫とされてる様で上郡町の赤松の隣の楠という地名の話。
佐用こそ、赤松一族の根拠地・・・そこに混在する両家の不思議な親密さを感じてしまいますウッシッシ


想像力が広がりますね・・・歴史って面白いわーい(嬉しい顔)
のんきホーテさんへ

さすがにお詳しいですね。

>播磨の楠木族に送った書簡
これって、どこかで閲覧できるのですか?

>氏範さんに仕えたり
氏範さんて、南朝に居残っていたのでしたっけ?
大塔の若宮の側にいた縁とかも考えられますか?

>早くから交流があっても不思議ではない。
熊野近辺に赤松氏の城があったと聞いたことがあるのですが、
河内の楠木氏も熊野と縁が深かったり、
ひょっとしたら、熊野が出所??とか個人的に思ったりしているのですが、
古い間柄なんでしょうかね。

>大塔宮に付き従って
大塔宮が赤松氏を側においていた理由って何でしょうか。
やはり畿内に近くて味方になりそうな一族だったのでしょうね。

>1336年正月廿日付
これは知らないですね。新しい資料ですか?

>宛て先は楠庄太郎
庄五郎なら、楠木正行の名前でも出てくるのですが、庄太郎さんって誰のことかに興味があります。
しんぼっちさん

ここは楠木コミュじゃないのでこの手の話も気兼ねなく話せますウッシッシ

書簡については、残念な事に個人蔵ですので閲覧はできそうにありません。
「三木家に伝わる古文書」という事でした。
赤松氏史の研究者であられた藤本氏ゆえに赤松氏に絡む資料が集まりその中の一つだったようです。

そして昭和初〜中期の話だと、思うのですがその時はこの文書は備前にあった様です。
この三木家がどの三木家かという事になりますね。
播磨・備前・美作で考えますとまずは伊予の河野氏族で姫路の英賀に居た三木道秋などが見られる三木家。そして、変り種で、司馬遼太郎さんが歴史読本1960・10月号に寄稿された「別所家篭城の狂気」に見られる話でこの天正期播磨騒乱の強烈な舞台の一つとなった三木城篭城戦に参加し降伏開城して落ちた武者達の多くが三木での強い思いを断ち切れずに「三木姓」に改めた。という話ですね。
司馬さんも三木さんだったそうです。
先に話したとおり赤松円心則村公の弟の別所敦光の妻が楠木正成公の姉という話。長い間にこの流れに伝わったモノかも・・・わーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)
とも、思ってしまうわけです。
別所氏も西播磨の利神と東播磨の三木とどちらが本流か分かりませんがあせあせ
天正期は、東播磨の雄は三木の別所家で利神の別所家は西播磨の赤松政範さんの下になってますが私には不明ですあせあせ(飛び散る汗)

氏範さんは、確かにずっと南朝派でした。
ただ、播磨にも度々戻ってきております。
例えば興良親王の急反転の吉野攻撃の際に南朝より罪は問われずとも去り播磨へ戻っております。そこでしばらくしてから播州清水寺で最挙兵です。
戻ってきての赤松からの追討は挙兵までは無かった様です。
また、ご存知の通り南朝にパイプを持てる北朝の人物の一人は則祐さん。
興良親王・陸良親王の動向を見ても分かると思いますし、ずっと北朝側に居て接触できる人ではないと思いますし南朝・北朝の間に動いています。
そんな中、歳の離れた氏範さんは兄 則祐さんの動きに疑問を感じたのか自身の筋を通したのかもです。
再三、播州清水寺に篭り幕府方の輸送隊や追討軍を跳ね返しついに幕府から赤松氏への追討軍参戦要請が出て一度目は抵抗した様ですが二度目の赤松三代目惣領の則祐さんの出陣に、まだ余力が少しはありながら自刃されてますもうやだ〜(悲しい顔)

熊野地方の赤松氏の城址は聞いた事があります。
ひょっとすると逆に赤松氏から楠木氏サイドに出た方の城址なのかもしれませんね。そこらも、また資料的な文献に出会いたいですねるんるん

大塔宮と赤松権律師則祐さんと小寺相模守頼季さんが側近として付いたのは
ある人は、則村公の情報網により動乱の動向を探る為に入れた。と、あったりしますが分かりませんね・・・興味深いところです。
大塔宮からすれば、お寺の荒法師と違う自分に近い何かを感じたのでしょうか???

日付の話は、上記の古文書に記されたものですよ。
流石に、出版物の内容をそのまま載せていいものか迷ったのですがこれくらい良いでしょうって事であせあせ(飛び散る汗)

庄太郎さんとありましたね。
系図は、赤松でも多種多様にあるので分かり難い上に赤松に近い方に入ったのなら載らない場合もあったのかもしれませんね。

いずれにせよ、史実exclamation ×2
なんて100%言い切れないが、書物の中で既出以外の点と点の事象が現れた。
著者の参考文献にあった事象なのでしょう。
虚実の判定は専門家でも困難でしょうし素人だから、ともかくこの様な話もあると出てくるだけでウキウキして楽しめますねわーい(嬉しい顔)

他じゃ、ここまで長文が続くとKYでしょうがここは皆さん呆れられてるかもしれませんがとりあえず我慢してくれてて感謝してまするウッシッシ
しんぼっちさん

先日行ってきました。
兵庫県佐用町(三日月町)

済露山高蔵寺カメラ 真言宗御室派
NO.15に書いた「木南氏」の件が気になり
家族でお隣の南光町のひまわり畑をみるついでに寄らせてもらいました。
よく読み返すとこの播磨に来たとされる楠木氏系はどうやら正成公よりずっと後の人らしいです。室町中期から江戸初期までの間でしょう。
結論から言うと今回はお寺の写真の場所にしか行く時間が無くお寺に居た住職の家族の方は「木南氏のお墓の碑文」の話をご存知ありませんでした。
次回、また行ってきます。

ここは、江戸期に三日月藩森家の菩提寺でも宇治の三室戸寺の塔もここから買い取ったともあり寺域はもっとあるだろうし写真の場所意外に狭い山道を登ればあったのかもですあせあせ
お寺への寄進者の苗字に赤松系の人がやはり多く見られましたねわーい(嬉しい顔)
気がついたのが船曳氏と得平氏が多い。しかし木南氏は無かったですあせあせ(飛び散る汗)
この謎・・・というか碑文を探す楽しみができましたウッシッシ
佐用・・・佐用兵庫介範家の墓探索と共にまた行きますムード

蛮☆ さんは、このお寺の境内の規模をご存知ないでしょうか?
中外日報とかで見たとか無いでしょうかウッシッシ
ある訳ないですよねあせあせ
蛮☆ さん

お忙しい中、コメントどうもですわーい(嬉しい顔)

私は、蛮☆ さんと同じ業界人でも、維摩居士を目指す者でもなく優婆塞とも呼べない私利私欲に塗れた俗人ですよウッシッシ
知り合いの方に先の妙心寺の新しい管長の就任式の模様写真があるよと見せてもらったまでですよ湯のみ

えぇ、御室って岡山に強いんですかexclamation & question
岡山は備前と美作は天台かなと思ってました冷や汗

ん〜、残念。
ご存知ないですか・・・もう一度ちゃんと行って見て捜索してみまするあせあせ
気になりだすと、確認しないと気がすまないので・・・ウッシッシ
のんきホーテさん

その画像の高蔵寺、行ってみたいです。

>室町中期から江戸時代

やはり楠木氏暗黒?の時代に、
名字を変えて各地へ逃れた楠木氏の関係者なんでしょうね。

そこには木南家のお墓があるのでしょうか?
家紋とか、わかるのかな?

興味があります。
しんぼっちさん

ちょっと待って下さいね。
先日行った際は、NO16に書いた様子で時間が無かったので確認できませんでしたあせあせ
更に、現代の寄進者名に「木南」姓が確認できなかった事も「?」と思われるところでしてムダ足になるのはもったいないですからね冷や汗
場所は、佐用郡三日月町高蔵寺とあるので間違いないと思われるのですがあせあせ(飛び散る汗)
記事をそのまま、載せるのはご時世から控えて碑文を見てから書こうと思ったのですが残念無念でした。

大塔宮護良親王の供養塔(おおとうさん)も二度目で見つけたので次回はリベンジしてきまする。
佐用というか千種川沿いは昔から好きな道ですので苦にならずよく行きますので
近いうちに捜索しまするウッシッシ
>しんぼっちさん

ん〜残念ながら、今回もお寺の方がいらしゃらなかったので木南氏の墓は分からず墓碑の文は見る事が出来ませんでした。
まぁ、お盆期間中だし声を掛ける事も申し訳ないのであせあせ

しかし、麓にある役場の小さな図書館の「三日月町史」にもありましたよ。
どうやら、三日月藩の陣屋がある辺りの大庄屋さんだったらしく図書館に居たご親切な方が木南姓は佐用市でも南光町に多いとか・・・。
三日月町にもそこそこいるそうですけどね。
また、江見氏も多いらしくてこれは赤松系の美作国の人ですね。
「この辺は、赤松さん関係は多いよ」ですってウッシッシ
江見氏といえば、神戸市北区の淡河城主で天正期に三木別所氏に味方して亡くなられた淡河弾正定範さんが確かこの江見氏から淡河氏に入ったと思うのですが
美作と播磨は繋がりが深いみたいです。

で、三日月町史には木南氏の墓は土台が亀形でして菊水の紋があるそうです。
碑文は書いて無かったですあせあせ(飛び散る汗)
何時くらいにここらに来たかも分かりませんが楠木正成公の末裔には間違いないみたいですね。
お盆が終わったらまた、史跡巡りついでに寄ってみますウッシッシ
>蛮☆ さん

ようやく、ひと段落されましたかexclamation & question
今年は、ほんと暑いのできつかったでしょうね。

私は、ほんと仕事でその方面に行った際に寄れる時間があればサボって寺社を回るだけですんでほとんど京都は無理ですね。
駐車場が無いあせあせ(飛び散る汗)
だから、奈良派ですねウッシッシ

秘仏ってなってても、写真が存在するのにはそういう人がいて流出してしますんですねあせあせ九度山の慈尊院のご本尊のなんて酷いですね・・・っていいながら見れるのは嬉しいですけどウッシッシ
反対に、東大寺の大仏さんが「どうぞ、どうぞ」って感じが驚きますねあせあせ(飛び散る汗)

佐用の奥金居の長谷寺ですか。
そういう立地だと、見てみたいですねムード
お寺が、城地として利用される例は多いでしょうけどもし、有事の際は、砦の役目を果す様に造られたなら面白そうですねるんるん

木南氏は、とにかく碑文を読んで見たいんですよね。
高蔵寺の秘仏も興味津々ですが、楠木氏のル−ツに触れた部分もあるみたいなので読みたいですね。とにかく写真の場所以外に建物は無くて光背の山にお墓が沢山あり森家の墓は有りましたが見逃してるのでしょうが分かりませんでしたね。
そのうち、再度行きます〜〜。
佐用とか千種川沿いは、やはりリフレッシュにはもってこいの道ばかりですんで
ウッシッシ
加西市にあります當山楽法寺に行ってきました。

ここのお寺も、赤松族と関わりが深かった様でお寺の山門は
元は、お寺より少し西にある小谷城の門を移築したものだという事でした。

元は赤松氏の有力な守護代でしたが後に、独立した行動を取り勢力を広げつつあった在田氏を監視するために上原民部大輔祐政が小谷城を築城したそうです。
嘉吉の乱の時は、小谷城を預かっていた龍門寺(赤松)直操 は、龍門寺で仏門に入っていましたが、法衣を脱ぎ武装して坂本城に駆けつけ但馬からの侵入口を守るべく一方の守将として、播磨国・但馬国国境の真弓峠で戦うが、負けてその後の戦線でも敗戦が続き自刃されましたね。

最初は、現在の場所でなくお寺の名前も赤松山浄正寺だたそうです。
その後、善称寺とまた名前が変わり長引く戦乱などで衰退していったそうです。

江戸初期に、今の場所に移築してその際に小谷城の城門も移築したそうです。
赤松時代の小谷城の城門として使われていたものと伝えられてます。

しかし、残念ながら老朽化による傷みが激しく近いうちに解体され新しい門が建てられるそうです冷や汗
PCDDsさんからのメッセで、この新聞記事にある情報をいただき行ってきました。当日、用事があったついでだったので小谷城址には登れませんでしたが城山は遠望してきましたウッシッシ

龍門寺真操さん・・ある本ではあの姫路市飾磨の龍門寺の前身の様な記載がありました。江戸初期の名僧の 盤珪 永琢禅師はその龍門寺の跡に建てられたのか継がれたのか気になるところですあせあせ(飛び散る汗)
盤珪禅師は江戸初期の生まれですが、織田軍による播磨侵攻に際し播磨の寺院が挨拶に行った様でそこにも「龍門寺」とあるので私的には、今の龍門寺の前身の可能性もやはり捨てきれない・・・ですねあせあせ

カメラ左・中 楽法寺山門(伝 小谷城門) 右 小谷城址(工場後方の山)
加東市は三草山の近くの、古刹 鹿野山 朝光寺です。

山号の「鹿野」とは、ブッダの初転法輪の地であるサ−ルナ−ト(鹿野苑)を示すのかな?なんか、凄く良い山号ですねぴかぴか(新しい)

本堂は「国宝」カメラ右 なんですが
櫓も「重要文化財」でしてこの櫓の修築などを赤松義村さんがとても尽力されておりますカメラ
徳川の世になった時に播磨に入った池田氏も荒廃したこの古刹の復興に尽力された様ですが静かな、良い雰囲気のお寺です。

直ぐ傍の、三草山は平家と赤松円心公や大河内満政さんや則繁さんにも所縁がある地ゆえ感慨もひとしおです走る人

赤松義村さんは、武将の一面以外で播磨国内の名水「播磨十水」の指定などちょっと面白い「あしあと」も残された人ですね。
最期が非業の死だっただけに、とても残念です涙
サーチ(調べる)阿閇神社 (播磨町)

神社の「御由緒略記」によると祭神は大阪市に鎮座する住吉大社と同じ四神で、北の社から順に底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長帯姫命を御祀りされているようです。。「住吉大社神代記」(731年)にも「阿閇社」と書き記された箇所があるのでかなりの古社ですねわーい(嬉しい顔)

本殿は四棟が横一列に並び鎮座されており、それぞれ一間社春日造りだそうです。屋根は檜皮葺きです。
現在の本殿は1702年の最建立とされたものらしく、県指定文化財となっているそうです。

面白いのが本来、住吉大社の本殿の配置は、第一から第三本宮まで縦に、第四本宮は第三本宮の横に並ぶのに対し、阿閇神社は4棟が横一列。
いずれも西向きに鎮座されている事で理由は諸説ある様ですが「西向き」は赤松氏の本拠地、赤松・苔縄・白旗城のある上郡方面を向いている ・・・という説の方を取りたいですねぴかぴか(新しい)

赤松氏が、播磨守護になってから国内に数箇所に祈祷所を設けましたがここはその一つである事は間違いなく
更に赤松一族が祖とする源季房朝臣が、播磨国の、加古郡大内村に移住された時に、この阿閇庄の住吉大明神を深く信仰され、国家安全を祈願されたらしく赤松一族には特に所縁の深い神社だったんでしょうね。

また、ここは本庄城址でもあるという事ですが詳細にはまだ出会えていません。

天正期の織田軍による、播磨侵攻時の逸話で三木別所氏で織田方に味方した重棟の阿閇城を毛利軍が攻めるも黒田官兵衛が援軍として到来し毛利軍を退けた・・・という説も「黒田家譜」にはある様ですが真贋は不明ですほっとした顔
が・・・阿閇城というのは本庄城といわれたここと同一だったのか・・・?
とても、気になりますウッシッシ
阿閉城…
諸説あるようですね。名称も別府城だったり。
本庄構居のほか古向城、あるいは阿江三郎赤松正繁の野添の館がそうだとか。
あと、蓮花寺がその跡という説もあるようですけど。
私も気になって本庄構居のほか色々回りましたよ。

野添の館は鹿ノ川環濠住居(中世城館調査報告書でいう佐伯家環濠集落と同じと思う)ともいわれ近年まで石垣や堀が残っていたそうで、かなり広い範囲で環濠に囲まれていたようです。
ただ天正8年に行われた秀吉の諸城取り壊しに阿閉城も該当しているので、近年まで結構な遺構が残っていた事実が引っ掛りますね。

写真1、別府城跡という宝蔵寺
写真2、古向城跡の福勝寺
写真3、堀の遺構があった蓮花寺
PCDDs さんぴかぴか(新しい)

なかなか資料がないので城址を探すのが難しいので参考になりますぴかぴか(新しい)
もう少し、地元でも働きかけて看板や伝承など各地で増やしていただけると
有難いけど、地元ですら興味をもたぬ人が多いから期待できませんねあせあせ

遺構が近年まで残っていたというのは残念ですねあせあせ(飛び散る汗)
坂本城もそうですが、まだあの僅かな土塁だけでも残してくれているだけ
あれでも、嬉しいほどの精一杯の対処策なんですね冷や汗
参考にされるなら、
もう少し詳しく場所をお教え致しますね。

宝蔵寺
加古川市別府町本町1丁目23

福勝寺
加古郡播磨町古田3丁目13

蓮華寺
加古郡播磨町北本荘7丁目1

野添の館跡
加古郡播磨町西野添1丁目7

写真は野添の館虎口、樹齢300年のバメの木と賽の塔
PCDDs さん

どうもですぴかぴか(新しい)
住所が分かれば訪ね易いですから助かります。
できれば、教育委員会でも良いので碑か説明坂があれば一番有難いけど
地元でも、忘れ去られている城址って多いでしょうから仕方ないですね冷や汗
佐用都比売神社 (佐用町)
カメラ左 

播磨の一の宮といえば、宍粟の伊和神社だそうですがここも古社で同クラスの重きをなす神社の様ですね。カメラ
中国道佐用インタ−のすぐ近くなんですが、インタ−を降りると正面の山が長谷高山城・・・。
赤松氏の祖というか本流といわれる山田則景の城址ですね。
そしてこの神社は、山田氏の尊崇をうけて赤松一族には特別な神社だったのかもしれません。
円心公も、深く尊崇されていたと神社の伝承にもあります。
また、円心公の次男 貞範の末裔ともいわれる宮本武蔵も諸国修行の旅に出る前にここで祈願された様ですね。

江戸期になっても、播磨を治めた領主の尊崇をうけられていたそうです。

カメラ右の地図に見える「円応寺 宝篋印塔」は佐用範家さんのお墓と伝わるものです。(太平記トピ)
ご無沙汰しております!
赤松氏族説がある春名です。
覚えておいででしょうか?

ちょっと覗かして頂いて、気づいたのですが、
この『佐用都比売神社』の住所が佐用町『本位田』と有ります。
本位田は宮本武蔵の親友又八の姓。
本位田も赤松氏族の説が有ります。

佐用から大原町宮本は近所でも有り、武蔵が最初に倒した有馬喜兵衛との対決した案内碑も佐用町平福にあります。

関係が有りそうな気もしますね。
佐用町には我が大原町に並ぶぐらい、
石を投げれば春名姓に当る地域です。

そう言えば、資料に成るかは判りませんが、
現在でも播磨、美作地方出身者は真言宗が多いのです。
当家の墓も古いのですが、1560年代の戒名は禅宗のものでした。
恐らく、関ヶ原の敗戦後に帰農し改宗したのが真言宗が多かったと思えます。

姫路の浜寄りは毛利の影響が有ったのか?浄土宗が多いように思えます。

METでこの様な赤松氏族系譜が有りました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01052c1.htm
harutian さん

お久しぶりですわーい(嬉しい顔)
覚えてないわけがありませんムード

思わぬところから、思わぬ発見をどうもでするんるん
そういえば、宮本武蔵の親友の又八は本位田という姓でしたね。

赤松は三十六家にはほぼ違いが無くとも八十七家・八十八家には差異はありますし時代によっても違いが出てきてますね。
あの場所から出た家なら、赤松族縁の家柄であってもまったく不思議ではないですね。

確かに佐用には春名の看板を見かけます。
昔は、国も違い・・今でも県も違いますが赤松軍団の末裔は播・美・作には輝いていた時代のままの範囲で広がり続いてるんでしょうねぴかぴか(新しい)

ここんとこ忙しくて、まったく「あしあと」巡りをできていません冷や汗
行きたいとこは、いっぱいあるのですがあせあせ(飛び散る汗)
今は、「太平記」の時期と「長禄の変」の時期に目が向いてますのでまた行けたらUPします。
また、ちょくちょく覗いて下さいね。
そして、またピンとくる事が分かれば教えて下さいね手(チョキ)
些細な事でも、点と点が線で繋がった様に思える時が、とても楽しいのでよろしくです。
春名姓の家紋には丸に2本引き、左巴が多いように思います。
佐用町北部に有る当家菩提寺の相応時の家門も丸に2本引きで有ったと思います。
不思議なのが当家は作州 大原町宮本!
ところが菩提寺は播州 佐用町!
距離が近いとはいえ、本来国が違います。
この様な話は宮本武蔵の中でも出てきます。
播州 新免平田宮本武蔵。
彼も本来、作州の筈なのに播州と名乗った。
作州領主 新免宗貫の所領で播州の作用に飛地が有ったとされています。
>harutian さん

>不思議なのが当家は作州 大原町宮本!
ところが菩提寺は播州 佐用町!
距離が近いとはいえ、本来国が違います。

これはちっとも、私は不思議には思えないです。
以前、このコミュに載せた千種の五輪塔のトピにも書きましたが
宍粟の長水山城の宇野下総守政頼さんが、織田の中国方面軍と戦い敗れ新免家に養子に出した宗貫を頼り落ちる時に千種川の東岸で前は濁流で後ろからは追撃軍が迫り身体極まって郎党と共に自害した郎党の中に「春名修理」の名前があります。
彼は旧国でいう美作人ではなく播磨人だと思います。
しかし、harutian さんの同族の先祖なのかもしれません。

春名氏に限らず、播磨・備前・美作の太守となった赤松家ゆえに新たな赤松家領国内で人の移動があっても決して不思議ではないと思いますよ。
ましてや、美作東部は主家赤松家が崩壊寸前の際でも遠くは江見氏が東播磨まで入ってるし播磨との結びつきが強い地域だった様に思えます。
それは、赤松家の所領であった時代に主家が移動すれば下は付き従い移住する事になり同族でも食い扶持を求めて他家に仕える者が出たりと人の往来が多くても不思議じゃないと思いますよ。
むしろ、春名氏が元は、美作人ではなく播磨人で仕える赤松族の中の長(長水山の宇野氏流かな?)が新所領へ赴任する際に付き従い美作に移住した家なのかもしれません。さすれば、菩提寺が播磨にあってもいっこうに不思議ではありませんよね。

備前は、重臣 浦上家が早くから主家の力を凌ぎはじめ自身の領国化を図ったので赤松家と切れるのは早かったですけど少なくとも美作東部は播磨との人的交流が強かったのではと思いますね。

宮本武蔵は、その生誕地や吉川英治氏の小説の内容に関する真贋については現在も論争が続いてる様だし私は、分かりませんが面白いHPを以前に見つけたので
まだご存知なければ見てみると面白いと思いますよわーい(嬉しい顔)
これを、見ると益々、分からなくなりましたあせあせ

武蔵前編 西播編 播磨編 寄稿編 と4つに分けられてますね。
http://www.itscc.net/hiroba/u0473.html

宮本武蔵といえど、赤松氏の庶流の庶流の・・・ですから生来、脳のキャパの少ない私にはここまでは興味をもって深くは踏み込めませんね泣き顔
何か、また分かりましたら教えて下さいねぴかぴか(新しい)
なるほど〜!

元々播州からと考えれば合点が行きますね!
ありがとうございます。

春名は山崎町、北部の千種町にも居るのですが、
圧倒的に大原町、佐用町なんです。

東粟倉町の本家(もと町長さん)も千種町側から流れて来た言い伝えが有ると言ってましたね。
まさに秀吉に長水城を攻め立てられた時、
新免を頼って亡命したのかもしれません。

その当時、黒田官兵衛吉高と新免宗貫は交流が有り、
新免家は毛利方にも秀吉側にも付かず中立を保っていたとか…。

私は赤松一族と信じて疑わないのですが、
大原町あたりでは親族の俗説ですが、
春名が尼子の末裔と言う人たちも居て、
???
私は一笑に付していますが…。

Hp ご紹介いただきありがとうございます。
この武蔵の郷は毎年、墓参りの時に行っています。

夏場、武蔵道場は高校、大学、社会人の剣道部合宿地に成っていて、
この時期だけは人が多いですね。

館長も春名さんです。
カメラ丹波の古刹 五大山白毫寺です。

http://www.byakugouji.jp/

ここは藤の花がみごとな事で有名で、ちょい昔に神戸新聞の記事に載った際に来ましたが
凄い人で車(セダン)を停める場所が畦道までいっぱいで諦めて帰った事がありますふらふらその際は、赤松氏の関連の史跡があるとは知りませんでしたあせあせ(飛び散る汗)

ここには、赤松則村公の次男 筑前守貞範さんの供養塔がありました。カメラ

六波羅攻撃の際もですが、箱根竹ノ下・水飲峠の合戦にも勇猛な戦いをした人ですが丹波に恩賞として領地をもらい、この地に赴任してきてこのお寺を厚く庇護したそうで貞治四年(1365)にこの「供養塔」が建立された様です(台石に刻印されてるそうです)

電球この赤松貞範さんの供養塔である石造宝篋印塔は兵庫県指定文化財に指定されてます。

私は、台石の刻印文章を読もうとしたのですが暗くて苔むしてて読み難くてほとんど読めませんでしたが宝篋印塔の台石の向かって左側の部分には「播州」と貞範さんの法名である「世貞」の文字は読めましたるんるん
したがって「伝」は付きません正真正銘の赤松筑前守貞範供養塔でしたムード
他に、貞範さんが丹波に領地をもらったとする物証が少なく貞範さんがこの地の郷士 荻野氏が反発している旨を幕府に訴えた書状くらいらしいと読みましたがこの宝篋印塔は誰でも見る事ができる貴重な証拠ですねわーい(嬉しい顔)

白毫寺境内に入ると右側に渡れない短い太鼓橋が有り側道を渡るとカメラ右の景色が見えます。貞範さんの供養塔は手前右側の木と背後の石版の延長線上に在ります。この寺の近くには、貞範さん築城と伝わる黒井城も見えますウマ
カメラ龍野市 雲門山 宝林寺です

このお寺は、禅宗の歴史上の中でも有名な人物である京都紫野の大徳寺の開山である宗峰妙超こと大橙国師が産まれたとされる地に建てられたされてますね。
この、宗峰妙超さんは赤松家重臣だった浦上家の出で浦上一国の子とされ母は諸説あるみたいですが則村公の姉とするのもありますね。
龍野太子バイパスを東から来て終点で降り一般道に入ると即、左手にあります。

京都紫野の大徳寺の始まりは、赤松則村公が寄進し建てた小堂とされてます。
宗峰妙超さんは、特に花園上皇に深く帰依されお二人が交わした一枚の書状ないでの問答は昨年の京都国立博物館の妙心寺展でも出展されてました。
播磨地域のお寺や神社では、私は寄進者の名前が書いてあればよく見るのですが
やはり、赤松さんはいたし石野さんもそうなのかな・・?
なぜか柳生さんがチラホラ見えてました。
播磨で、柳生姓もまた何かエピソ−ドがありそうに勝手に思えて興味深いですねウッシッシ
2011白旗城まつりに行ったついでに法雲寺に行ってきました。
説明はこのトピに書いてますんで省略しまするんるん

カメラ左 円心堂の前に建つ石版の裏には「忠臣塚」と刻まれていました。
元弘の変から、赤松軍に従い討ち死された武士達を供養する為の塚みたいですね。
カメラ中 円心塔と書いてありました。供養塔だと思います。
カメラ右 中央に鎮座する円心公像です。左側には有馬氏の像で右側には位牌がありました。
則村公が建立され手植えと伝わるビャクシンの樹もあり赤松族の源はここにありぴかぴか(新しい)
って感じでした。
2011白旗城まつりに行ったついでに、同じく宝林寺にも行ってきました。
皆さんはもう行かれた事ありますでしょうかるんるん

カメラ
宝林寺内の円心館前にある、則祐さんが還暦時に自分で造られたと伝わる宝篋印塔です。

カメラ
南北朝期に彫られた則村公像のオリジナルですぴかぴか(新しい)
いつ見ても、鋭く自信に満ちた表情に威風堂々たる全体の則村公の姿に、圧倒されますムード

カメラ
則祐さん像です。
戦場の最前線にいて、味方を鼓舞し続け、一歩も引かない豪胆さと風流にも秀でた人物ですし魅力溢れる人ですね。
播磨国総社 射楯兵主神社(カメラ中・右)

ここで先日、3月31日(日)〜4月7日(日)まで、 20年に一度執り行われる 「三ツ山大祭」が行われており最終日に行ってきました。
三つの山 小袖山・二色山・五色山(カメラ左)の大きな山の天辺には祠も祭られ賑やかな神事とお祭りでした。この三ツ山大祭が式年となったのは、天文2年(1533)播磨国守護職 赤松晴政の下知による時から、20年に一度行うことが定められてから後も、播磨国の平安と発展を祈るお祭りとして、今日まで一度も途絶えることなく続いているそうです。
神社の堤燈の御紋はまさに赤松家の紋ですね。
お祭りそのものは晴政さん縁ですが神社そのものはもっと古くから赤松家とはご縁がある様ですね。播磨国一ノ宮である伊和神社と共にるんるん
晴政さんといえば、父である義村さんを深い確執があったとしても重臣浦上村宗に騙し打ちされ自身も子である義祐さんと不仲で続く浦上家との争いや仕える将軍家や細川京兆家の跡目争いなど苦労が多かった人ですから自身と世の中の安寧をまさに神に縋る思いだったのでしょうか・・・冷や汗
>>[42]

>自身と世の中の安寧をまさに神に縋る思いだったのでしょうか・・・

播磨の国主として存在感を出すためと、神事開催による臨時徴税を実行して次に備えようとした気持ちの表れなんじゃないかと(⌒ ⌒)ゞ
姫路青山銘菓桜小径さん

確かに、そういう側面もあるかとは思いますが後期赤松が興ってからも絶え間ない惣領家とその周辺の騒乱に神頼みの思いも強かったとも思いますよ。
祖である則村公や血流は変わりますが則祐さんも、そうでしたが神仏は国家鎮護の重要な存在ですからね。
>>[44]

赤松一族盛衰記という本を今よんでいるのですが、嘉吉の変後に「府中の生の松原(つまりは総社?)にて天神地祇を祀った」とありました。

赤松氏にとっては一族の総力結集の儀式の一つでもあったのでしょうね。

http://www.sp-sanda.co.jp/blog/2009/04/post-18.html
姫路青山銘菓桜小径 さん

図書館で借りて「赤松一族盛衰記」読みましたよ。
神栄氏などの様に近年の方の著書もまた楽しいですが、藤本哲氏や高坂好氏などの古い著書も前期赤松が主となりますがその分、細かく取り上げられていて楽しいですよムード

最近では大門氏の著書は、その時庶流は・・・てのも少し分かって面白かったですね。赤松関係の本は多数あるのでこれからも楽しめそうですムード
>>[46] 高坂好氏のは人物叢書ですよね?他にお勧めの本はあるでしょうか?
姫路青山銘菓桜小径 さん

返事が遅くなりまして申し訳ないです冷や汗
高坂好氏のは人物叢書ですね。
藤本哲さんは、ちょっと分かりません。
図書館にある「赤松氏の資料と研究1、2」が面白かったですね。
あと、日本史のタブ−的な後南朝系の本も面白いです。
まずは、森茂暁氏の著書から読んで、次に図書館でトピックに書いた後南朝サイドから書かれた本を読むとなお面白いと思いますよ。

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