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播磨の赤松一族と国人衆の足跡コミュの前期赤松氏の滅亡から後期赤松氏の復興期

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いわゆる、赤松一族と国人衆には避けて通れない深い深い傷の時期を
扱うトピックになります。
嘉吉の乱から長禄の変頃までの時期です。
「負」の話ですので赤松好きにはつらい時期ですがしかし、己が身命を賭して働いた方達も沢山おられましたので是非にこのトピックを立てたくなりました。
これから、徐々に進めていきたいと思いますので情報がありましたら教えてくださいねあっかんべー

コメント(26)

嘉吉の乱

カメラ細川氏が率いて赤松の同族もいる大手軍を迎え撃つべく満祐さんの嫡男 教康さん達が陣取った和坂城(坂上寺)です。
国道2号線から175号線に入り北へ少し走ると左手に明石市営バス大きな駐車場(営業所)があり、後方に見える丘がそれです。
このお寺は城址というだけあってちょっと高台にあり高台の上にお寺があり周囲にはお墓が並んでいます。
中には赤松のどなたかのお墓もあると読んだ事もあったのですが分かりませんでした冷や汗

ここから、摂津福厳寺に入った追討軍を夜襲をかけるべく陸と海から迎撃軍が出たんでしょうね。
明石の人丸での哀しい戦は、嘉吉記や関連本にて読んでるしやっぱ他と違う思いがありましたあせあせ(飛び散る汗)
赤松氏の最大の過ち  嘉吉の乱

なぜ、惣領の満祐さんは将軍 足利義教を弑逆するという暴挙にでたんでしょう・・・他に道は無かったのでしょうか・・・。
失ったものを取り戻すために、失った命と絆と名誉はあまりにも多くとても残念ですね。案の定、復活後の赤松氏惣領は、常に苦労の連続でしたねあせあせ(飛び散る汗)

京で将軍を討った後、夕刻になっても討手が来ないので播磨を目ざし落ちていきますが尼崎での法要は諦め自領内に戻り河合城にて法要の準備を指示し自身は背後の山にある金鑵城に入城します。
その後、播磨中の僧を招集し赤松一門なども葬礼の列に加わり安国寺に移動。
そこで将軍 足利義教の盛大な法要を行ないましたね。
カメラは安国寺です。中国自動車道 東条インタ−からすぐですね。

朝敵になってしまった主君を、見限る事もなく長年の恩顧や義に殉じ露と消えた武将達の足跡に出会えればカキコしていきましょうわーい(嬉しい顔)
惣領家が起こした嘉吉の乱 exclamation ×2

カメラ?書写坂本城址 石碑と唯一残る土塁です。?裏から見た土塁と堀跡?石碑の文面

将軍足利義教の法要を安国寺で終えて、自身の居城であるここ書写 坂本城に戻る満祐・教康親子。
この、驚天動地の出来事を耳にしてなお坂本城に集った播・備・作の赤松軍団の人達。

そして・・・

嘉吉元年6月26日 書写坂本城赤松勢着到 
都合八十八騎 総勢都合二千九百余騎
城山城 篭城宗徒名

依藤太郎左衛門 小寺藤兵衛尉 浦上四郎 佐用上野介 上月孫右衛門
櫛橋左京亮 中村弾正忠 有田肥前守 永良彦太郎 別所肥前守 
薬師寺次郎左衛門 志方信五郎 魚住大夫次郎 有馬出羽守 角田助次郎
福岡新三郎 衣笠豊前守 粟生右馬次 得平次郎 宇津源大夫 白国備前守 
柏原三郎 多賀谷中務大輔 糟屋豊前守 太田能登守 間島新三郎 宇野太郎 

安積監物行秀 神吉彦八郎 英保次郎三郎 七条伊予守 釜内彦五郎
島村主水 福原助次郎 富田次郎大夫 内海弥三兵衛 袖垣九郎
広峯五郎 小川勘解由 原六郎左衛門 難波左京亮 萩原孫三郎
後藤三郎右衛門 恒谷伊賀守 中山五郎左衛門 櫛田八郎 葉山六郎 
小松原次郎大夫 黒田源三郎 佐野民部次郎 須賀院外記太郎 田中刑部次郎 石見太郎左衛門 河原太郎 
伊藤民部 栗山大膳 芝田源左衛門 村上三郎兵衛豊島次郎 芝田源十郎 
井口玄蕾允 堀兵庫介 中島七郎左衛門 神出左衛門 

尾上丹波守 水田伝次郎 竹中助大夫 柳井源八郎 須貝五郎左衛門
世良田上野介 広瀬河内守 村田五郎左衛門 佐谷五郎左衛門 
菅谷五郎右衛門 八木石見守 芳賀七郎右衛門 野中志摩守 頓宮五郎
平野十郎左衛門 荒田主馬次郎 大多和平内次郎 金治源介 飽間五郎三郎 
和田膳次郎 志水河内守 上原備後守

この人達が、城山城で同族赤松族と細川氏率いる軍と
更に山名氏と本当の死闘を展開したわけですね。

帝から追討の綸旨も出ており・・また同族赤松も寄手にいるのに
生き残る手段はまだあるのに総領家に忠を尽くしたわけです。
寄手の赤松でも貞範流の人には頼み難くとも同じ則祐流の満政さんも居たのに・・・凄い鉄血。

一説によると、先が見えてる満祐さんは城山城で日頃の忠節に感謝し今はこれまでと解軍命令を出し上記の中にはその時に泣く泣く去った人もいるかもしれませんが名前を残されましたね。

後に、長きに渡り山名氏の播磨支配の本拠地になり御家再興なった後もここを取り戻すべく壮絶に戦った赤松勢には最重要な地。

なのに、宅地造成されぶっ壊されてますふらふら
かろうじて土塁???と思うモノを残すのみでしたねあせあせ(飛び散る汗)
この辺はまだまだ土地いっぱい空いてるのになぜここexclamation & question
残念でしたあせあせ(飛び散る汗)
奇祭 「さいれんぼうず」
龍野市にある 恩徳寺で毎年8月15日の夜に行なわれる奇祭だそうです。
下記のペ−ジでは、「伝統芸能」と紹介されておりますあせあせ
http://www.nihon-kankou.or.jp/soudan/ctrl?evt=ShowBukken&ID=28211be2220094625

ご存知の方もおられると思います。
「伝統芸能」扱いされてますが始まりは、嘉吉の乱の赤松方の戦没者を供養する為だったと言われております。
ちょうど、お盆の真っ最中ゆえ見に行った事はありませんがこの恩徳寺には
赤松方の将兵達の供養碑もあるらしく一度行ってみようと思ってます。

どなたか、行かれた事がありましたら感想など聞いてみたいものですねわーい(嬉しい顔)
嘉吉の乱

河合城址です。城主も諸説ある様ですが上月氏の城址じゃないでしょうか・・。
一説には、明徳の乱で討死にされた赤松一門の方の城だったとかある様です。
上月氏だとすると、長禄の変での御家再興に動いた上月満吉さんもここの出でしょうか・・exclamation & question

嘉吉元年6月24日
京の赤松邸で、将軍を弑して全員その場で事態を知った討手と存分にまみえて討ち死にせんと覚悟を決めてるのに・・・待つもいっこうに来ない追討軍。
この場での討死!・・・その決意が揺らいだその時。
すべての赤松軍団が、再興困難な状況まで落ちる事になる、赤松滅亡への道が始まった様ですね。
京都の館を焼き、将軍の御首を持って本国を目指し京から落ち摂津中嶋の崇禅寺へ入り管領細川持之に使者を送り将軍の首が崇禅寺にある事を報告するも問答無用とばかりに首を討たれたそうですね。ここで、首の葬送を行なう予定を変更し播磨へ帰り最初に将軍の首と入ったのがこの河合城だそうです。
ここで、中村弾正に首と盛大な葬送準備を託し中村弾正の城で河合城を望む位置にある金鑵城に入ったそうです。
ここから、葬送準備が出来て安国寺(NO2)へ行ったのか一度、坂本城(NO3)に戻ったのか説がいくつかある様ですね。
グッド(上向き矢印)に書いた続きです。

金灌城址です。
河合城址の西の山にあります。
現在は、当時の縄張り通りかはわかりませんが公園として整備されております。
遠くまで見通す事ができます。もちろん河合城址も見えたでしょうね。

ここから見える景色を、当時の赤松軍の方達はどういう思いで見られたのでしょうかね・・・。
これから、どういう風に事態が動くのか・・自分達や家族はどうなってしまうのか・・・今までの恩顧に報いんと思う気持ちもありながら胸が苦しい思いで、いっぱいだった様な気がしますねがく〜(落胆した顔)あせあせ(飛び散る汗)
嘉吉の乱にまつわる話を、図書館で見つけました。
「兵庫県の昔話」という本であった記事をちょっと引用させていただいて書いてみます。(こういう引用に問題あったら、即、削除しますねあせあせ
城山城の北部にある新宮町千本にある赤松家重臣 依藤太郎左衛門豊房さんの眠る「依藤塚」にまつわるお話でした。
長文ですので、お時間がある時にでも読んで見てくださいウッシッシ

―――――――――――――――――――――――――――――

「いまが死に時」依藤太郎左衛門豊房は、覚悟を決めた。
一族の惣領・赤松満祐が死んだいま、殉ずるしかない。
それが武士だ、と思いさだめた。
満祐が将軍に・足利義教を酒宴にかこつけてと弑逆。満祐と共に城山城に入った依藤豊房は加東郡小田城主。形勢不利と見て赤穂郡の白旗城へ固めの使いに出ての帰り途で城山城落城、主君満祐切腹の報を受けた。聞けば寄せ手の山名持豊の猛攻にたまらず自刃、一族六十九人も死出の旅を共にしたという。
ひと足違いで遅れはしたが、今なら追いつける。豊房は千本村の北寄り、山すその辻堂を死に場所として切腹。家来の数人も遅れじと腹を切ったそうです。

そこへ通りかかったのは、美作国小原の城主新免弾正長重。
手柄にしようと豊房の首を切り取ったことから、村人は「拾い首」だとあざけり、陰でののしった。豊房さんの遺体は手厚く葬らたそうでやがて、縁者により五輪塔が建てられました。ある人が詠んだ手向けの一首。
「梓弓はりまの方と人問えば松(赤松)より藤(依藤)の名こそ高けれ」
それから、間もなく村に悪い病気がはやった。
だれいうとなく、これは豊房の祟りに違いない。主筋の赤松より有名だと言われては、気性の真っすぐな人だけに、心苦しうて成仏できんのかも・・・。
きっとそうであろう。村人たちはささやき交わした。
お上人さんに霊を鎮めてもらおうと招かれたのが元正上人、委細を聞くと懐紙に筆を走らせ
「あずさ弓、播磨の方と人問えば、松により藤の名こそ高けれ」
と?に?の一字を入れた。あるじ赤松の威勢によって依藤の武名も高い、という意味に染めかえたのだ。元正はまた、豊房が切腹した辻堂のところに一寺を建立、浄福寺と名づけた。これにより豊房さんの霊も鎮まったのか、猛威をふるった悪疫も止み、村は平穏を取り戻したそうです。

―――――――――――――――――――――――――次へ続きまする湯のみ
NO7の続き・・・・・・・・・・・・・

ある日、拾い首で名を落とした新免弾正長重が家来を従えてここを通りかかった。
赤松の恩恵をこうむりながら形勢不利と見るや山名氏へ走った長重、それが戦乱の世の武士のならいとはいえ、里びとの素朴な人情にはなじまない。
今も赤松満祐を攻め滅ぼした姫路の守護代のもとへ急ぐところ、
「ほほう、依藤の寺が出来たとな。拝んで行かずばなるまいて」
傲慢に肩をそびやかせ浄福寺内へ馬を乗り入れた。
「さて、主君の城が落ちたぐらいで追い腹切るとは、間の抜けた話よの。もののふの名を惜しむなら、及ばずとも斬り結んでいさぎよう散ればよいものを・・・。」
どれ、わしが依藤になり代わって辞世を詠んでやろう」と薄ら笑いを浮かべながら矢立ての筆をとり、本堂前の柱に「比の堂に立依藤(立寄りと依藤をかけて)の腹切るは、木の山城に煙たつゆえ」と黒々と書きつけた。
その瞬間、ガラガラッ雷と石の鳴る音がした。北側高台の五輪塔が体を揺するように、あるいは歯がみして起ち上がるように揺れ、石の下から黒い煙が噴き出した。「おのれ弾正exclamation」煙の中から大音声に呼ばわると、腹かっさばいた無念の形相そのまま、豊房さんの霊が現れ宙を踏み固めるような足どりで近づいた。
これは、と色をなす長重を見下した豊房さんの霊は「宗家を見殺しにしたばかりか。山名ごときにシッポを振る、ここな横道モンがむかっ(怒り)」一喝するより早く、足を飛ばして長重の胸板を蹴った。呆けたように立ちすくんでいた長重は、朽木が倒れるがごとく馬上から真っ逆さま。地面でしたたか頭を打って気を失ったそうです。
以来、剛直な豊房さんの霊は、眠ることをやめた。
武士が馬に乗って通りかかると、相手かまわず蹴とばした。
時には姿を現わし、時には姿を隠して、いきなり蹴り落としたそうです。すべて無言。八つ当たりに似てそうではなかった。
相手は馬上傲然と虚勢を張る武士に限られていたそうです。噂は知れ渡り、武士も大名も、ここを避けて迂回するか、馬を降りて手綱を引くかを選んだ。

この怪は三百四十年間に及んだが、天明六年(1786年)、ピタリと止んだ。時のご子孫が五輪塔の前に平たい石碑を建て、下の街道を目隠ししたからだといわれているそうです。
――――――――――――――――――――――――――――――
まだ、私は依藤塚の実物は見ておりませんが本の写真によると不自然なくらい石碑は五輪塔を隠す様に大きくピタリと接する様に建てられております。

また、この頃はまだ新免家には赤松族の血は入ってなかったのでしょうかね?
それにしても、嘉吉の乱関連の著書を読む度に、天皇から追討の綸旨まで出された主君だが日頃の恩に報いんと命を賭けて戦い散って逝かれた人達の心意気は武士としてほんとアッパレに思いますね富士山
明石城(カメラ左(坤櫓)・右)です

江戸期に当初は、三木城など周辺の城を壊して廃材を利用移築して造られたそうです。
現存する国の重要文化財の巽櫓(東側)・坤櫓(西側)は阪神淡路大震災でかなり壊れるも修復されております。
この櫓がある本丸のに柿本人麻呂を祀った人丸塚がありまして坤櫓のすぐ東側の小さな草木に覆われた塚(カメラ中)が「人丸塚」でしてこの地は現 明石城が建つ前は地元で「赤松山」と呼ばれていたそうです。
この地に、城を築くにあたり人丸神社は城の東の外れに移築されるも人丸塚はそのままあった様ですね。

この人丸塚。
嘉吉の乱の際の大手軍、細川持常の赤松討伐軍の本陣跡です。
赤松庶流家を含む畿内勢力と淡路の細川持親や四国勢の細川持春・伊予河野氏・安芸武田氏も加わって、トピNO1に書いた和坂に陣取った赤松教康率いる赤松勢と対峙し一度は赤松勢がこの人丸塚を攻め取り大手軍を須磨まで敗走させるも巻き返しと山名氏主力の搦め手軍が播磨深く進入した事による撤退命令が
出さるまでの激戦地だったそうです。

昨今の城ブ−ムで明石城を訪ねる人は多いけど、この人丸塚を知る人はほとんどいないんでしょうね冷や汗

嘉吉の乱始末記だったかでに見た、この地での赤松方 薬師寺左馬助と 追討軍 和田野大五郎の一騎打ちの話は両者の武士の悲哀と武士としての散り際の美しさなどに惹かれました涙

加古川市 泊神社

「雑談コ−ナ−」の、嶋@本久寺2011さんがカキコしてくれました NO91の赤松彦五郎則尚さんはここの時期の方ですねわーい(嬉しい顔)

そこでここにその関連の場所を載せますね。
この神社は、石弾城址でありここの城主は足利三代将軍義満の頃に将軍の命で英賀の三木氏同様に播磨に移り住んだ伊予の名族である河野氏の傍流で三樹氏というそうですが播磨に移り住んでから土地の名を取り雁南氏と称したそうです。

英賀の三木氏同様に雁南氏も播磨では、赤松の旗下に入り活躍されたみたいですね。
嘉吉の乱は、事前には赤松軍団でもほんの一部の者にしか、伝わってなかったのでしょうね。乱後に初めて知らされた赤松軍団の国人衆達はさぞ驚き身の処し方に戸惑われたと思いますねあせあせ(飛び散る汗)
また、この時は赤松一族も割れておりましたので尚更ですね。
嘉吉の乱平定後に、一度滅んだ赤松嫡流ですが、更に山名持豊の圧迫による大河内満政さんと則繁さんの決起も失敗し亨徳三年(1454)11月に赤松家に同情を寄せる細川一門が将軍足利義政に取り成しによって幕府から赤松家再興の許しをもらった赤松彦五郎則尚さん。
それが、即播磨国回復ではないのに事を急い11月3日夜半に京を出て播磨に入り力で山名氏より取り返す為の味方を募りました。
赤松一門でさえ、長い山名氏支配の期間と先の失敗に慎重なのか集まりが悪い中でその檄に最初の方に馳せつけた一人が雁南勇さんで時に81歳の豪傑だったそうです。嘉吉の乱の際も、満祐さんに属し奮戦したが乱平定後に山名氏に屈していたそうですが最期の死に花を咲かせる決意の出陣だったのでしょうかexclamation & question
結局、「雑談コ−ナ−」にある展開で則尚さんの蜂起も山名持豊の圧倒的な力の前に破れこの雁南勇さんの案内で鹿久居島着いてこの地に於いて則尚さんと21名が自刃されたそうで雁南勇(イサミ)さんもその中の一人だそうです。
そして、同じく伊予河野氏系の英賀の三木修理進実量さんも則尚さんに殉じた21名の一人だそうです。

あと少し、我慢ができたら・・・。
そう思われるのがこの石弾城主の雁南家あせあせ(飛び散る汗)
流石に、大河内満政さんと後の則尚さんの蜂起に表立っては山名に臣従しつつも潜在的には赤松に心寄せる者をはっきりさせたかった山名持豊は主だった播磨国人衆に明確な臣従の要求をした様で石弾城にも迫ってきたが時の城主である雁南刑部太郎長(マサル)さんは、山名氏に臣従するを嫌い拒絶してしまい山名家の重臣の太田垣氏・八塩氏等の大軍に攻められ長禄元年2月7日に開戦し3月1日の総攻撃により一族のほとんどが滅亡し落城したそうです。

長禄元年・・・・・。
なぜ、この赤松家に奉仕を尽くした家に事のお家再興に賭けるとてつもない計画のほんの触り程度でも事前に知らせてこの時期での山名氏との勝ち目の無い対決を思い留まらせなかったのか・・・。
生きていればきっと政則さんの大きな力になっただろうに残念ですねたらーっ(汗)

また、この神社は宮本武蔵の養子の一人の伊織の実家である田原家の氏神でもあり九州で出世した伊織さんがこの神社の復興に寄進をしております。
田原家と宮本伊織が立てた石灯篭が2基ありますよ。
田原家は、赤松筑前守貞範さん系の様ですのでそういう意味でも所縁のある神社ですねぴかぴか(新しい)

カメラ左 泊神社入り口  中 神社境内 石弾城址 看板  右 神社社殿
「長禄の変」

長禄元年(1457)十二月二日の夜
赤松遺臣で構成された決死部隊が、吉野の更に奥地にあった後南朝の御所を襲撃し二人の皇子を弑し奉り、嘉吉三年に後南朝の部隊により京都の内裏襲撃の際に奪われた三種の神器の一つ八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を取り戻すべく起した「変」でした。
二人の後南朝の皇子の騙し討ちには成功したものの八尺瓊勾玉は、変を知り激怒した川上・北山の郷民に赤松決死隊は一ノ宮(自天王)襲撃隊はすべて討ち殺され二ノ宮(河野宮)襲撃隊は上月満吉や堀秀世など一部は生きて返り
後年に「上月記」に記録を残しております。
神器の八尺瓊勾玉は、翌年に大和国に小寺が入り協力者の越智氏や小河氏と共に
手にし京へ届け宿願の赤松家御家再興に繋がります。

嘉吉の乱で将軍を弑し奉り、滅んだ赤松家のお家再興にはそれに見合う働きが必要だった・・・あせあせ(飛び散る汗)
誰も、頭では思っていて苦慮はしつつもそこまでだいそれた事をやるには憚れる・・・しかし誰かがやってくれるなら黙認してもいいかな・・・。
こんな、他力本願的な考えは人にはよくある事でしょう 冷や汗
そこまでしなければ、赤松家の御家再興はできない罪だったという事だったのでしょう・・・か バッド(下向き矢印)

お二人の南帝の御兄弟にはなんの、恨みもなかったであろう赤松遺臣達。
中でも、一度は赤松決死隊の中の中村宗道が心が折れたのでしょう・・一ノ宮方に密告し赤松決死隊は後南朝方から警戒されて近づけずにいたので中村貞友の家臣である小谷与次が剃髪して忠阿弥と号して後南朝に近づき宮様にも気に入られ
自分は、赤松残党と語り他の赤松残党(決死隊)にもお気持ちが和らいだ様で決死隊の出仕が許されたそうです。
小谷与次は、主筋である中村弾正の金灌城の西にある中野生まれで住んでいたらしく変後に自身の居館近くにこのお寺を南帝ご供養の為に建立された様ですね。

 サーチ(調べる) 南帝山 清慶寺  (兵庫県加西市中野町)

カメラ右 清慶寺県道沿看板 中 清慶寺本堂 左 南帝首塚(供養塔?)

決死の思いでそれぞれが、二度と母国である播磨には戻れぬ覚悟で南方へ赴くも
現地で人に触れ、優しさに触れ、しかも皇統の御方を騙してこの方達には怨みはないが多くの赤松残党の思いとそれぞれの家族達の為に修羅に徹し討たねばならぬ現実・・・さぞ苦しかったでしょうね涙

途中、中村宗道が心折れた想いも現代人の私から見れば分からぬでもないです
後南朝ファンの方には、赤松決死隊は悪鬼・羅刹・外道と罵られる決死隊ですが
彼等も「人」・・・。
赤松一族と国人衆に惹かれる者としては、決死隊の実行部隊の人々の心情は察するに余りある想いがしますもうやだ〜(悲しい顔)

いつか、北山・川上村に行って非業の最期を若くして遂げられたお二人の宮様のあしあとなども散策したいと思っていますがそれまではこの長禄の変の前後にはカメラ無くとも話には触れていきたいと思っています ウマ
http://www.vill.kawakami.nara.jp/n/j-03a/j-03a-01.htm


天台宗 照光山 安養寺
(岡山県和気郡和気町和泉)

ここには、古刹で古文書が多数保存されておりその中にこの長禄の変に関するものが残っているそうです。

それが、

「奉寄付安養寺田地事」

(中略  寄進する内容が書かれております)

右色々所寄付申宝正也。
但南方帝王第一宮、長禄元年乙丑十二月二日、
並仁 丹生帯脇阿弥陀佛、同弟四郎衛門妙珍禅定門、
各々得三菩提佛果、拂速六道迷忘者也。
仍為末代奉寄付處如件。

応仁三年己丑二月晦日

丹生屋豊後守    。

とあるそうです。
丹生屋豊後守とは丹生屋帯刀さんの息子さんだそうです。
丹生屋兄弟は、自天王の御在所であった北山一ノ宮御所の襲撃部隊におり
この自天王を弑殺したメンバ−で、この田地寄進にあたり当寺に悲劇の死を遂げた若き宮様の菩提と宮様の襲撃メンバ−だった父と叔父の末代に渡る供養をお願いするするという内容の様ですね。

この安養寺も古刹で、寺内には古い墓石群も有り
どういう形での供養だったのか分かりませんが「供養塔がある」って記事は見た事無いので諦めました冷や汗

このお寺は2号線を三石から県道に入り和気方面に進み、和気清麻呂公の生誕地のすぐ近くにあります。
丹生屋兄弟はじめ、決死隊は南方の尊秀王・忠義王ご兄弟の宮様を弑殺した事を知り激怒した北山・川上の郷民に赤松決死隊の多くは討たれその地に墓が存在しないという事は屍を野ざらしにされたのかもしれません涙
ある者は雪道に迷い行方不明になったそうで生き残りは僅かの様ですね。

彼等の、行為は例え成功しても公には「大功」として評価される事も望めず
むしろ、皇統の方を害し奉るという「禁忌の恐怖」をも怖れず
ただ、残る者達の幸せを願い命を捨てて修羅道に入り令旨と御内書の命を貫徹したから赤松家再興を成しえた訳でせめて、赤松軍団に惹かれる者くらいは
その功を評価してあげたいと思いますねウッシッシ

「後南朝」ってなんやろ?

定義が、微妙に著者によりちょっと違うけど「大覚寺統後胤」の方による吉野地方奥地を拠点に京勢の持明院統後胤の方と室町幕府(足利将軍)に対抗した皇子達を指す様で「南朝四代」といわれる後醍醐天皇→後村上天皇→長慶天皇→後亀山天皇はそうではなく後亀山天皇が三種の神器を北朝の後小松天皇に渡した南北朝合一後で後亀山天皇が崩御された後で、一向に履行されない両党で交互に皇位を継承する約束が守られないので不満を持った後胤の宮様がまた、吉野地方の南朝派の郷士の元へ下り北朝と足利政権に抵抗戦を展開された。
その勢力を後南朝とする様です湯のみ
長く書けば、もっとちゃんと説明できるかもしれませんがご存知の方はフォロ−よろしくお願いしますあせあせ

でも、私は、ちょっとこれじゃ誤解してしまうのじゃないかなと思いました。
それは、大覚寺統といえば、後醍醐天皇の兄であり早世された後二条流や両御兄弟の天皇の父である後宇多天皇の歳の離れた弟宮さまの恒明親王系も同じく。
しかし、この二流はほとんどの後胤が冷遇されながらも北朝側で持明院統と共にあるので大覚寺統後醍醐天皇流というのが真実だと思うのですけど冷や汗

この皇統の宮さま達は、本当に悲惨ですあせあせ(飛び散る汗)
後南朝の本はまさに「哀史」って感じでした。

でも、ifですが後二条天皇が早世なさらなければ後醍醐天皇の登場は無かっただろうし・・・そうなれば、赤松氏は一播磨の強力な土豪のままだったわけで
この皇統の方と赤松族は、本当に・・因縁というかなんというか・・本を読んでると深い気がしましたあせあせ(飛び散る汗)

カメラ京都市内の後二条天皇稜です
これは、赤穂市坂越にある「小倉御前の墓」と伝わっているものです。
カメラ左 風情のある坂越の町並にポツンとある入り口

カメラ中 五輪塔群 一番大きいの小倉御前の墓で他のものは殉死された方でしょうか・・・?もともとは、この上の坂越浦城内にあったのかもっと上の方にあったそうです。

小倉御前とは、南朝最期の天皇である後亀山天皇の皇子から始まる皇統 小倉宮系の皇子の事の様です。
赤穂市になぜ南朝系の後胤のお墓が?
で、この小倉御前の墓の伝承については二つの説があるみたいです。 

説?
小倉宮がこの坂越に潜伏していたという伝説です。
カメラ右に、現地の説明坂を撮影したものを載せたので読んで見てください。
とても、簡素な内容です冷や汗
いろんな説がありますが小倉宮聖承ではないかという説が多いですが明確ではありません。
また、小倉宮がなぜ吉野地方でなくこの播磨の地に来られたかという疑問が付きまといますねあせあせ(飛び散る汗)

説?
長禄の変に際して、吉野から逃れて旧領の坂越浦に着いた赤松政則が、
後亀山天皇皇子良康親王の怨霊に悩まされ供養塔を建てたという説。
これはありえませんよねふらふら
長禄の変の功績による、赤松家再興になった訳でこの時、政則さんは子供です。
再興の玉、自ら死地へ赴く決意の遺言を書いて行った上月満吉の書状を見れば
幼い赤松一党の玉を帯同させる訳がありませんふらふら

説?の小倉宮潜伏伝説の方がまだ、可能性は高い気がします。
嘉吉の乱の際に、満祐は義教将軍を弑し奉りその場で追討軍と斬り結び討ち死にするはずがいっこうに現れない追討軍に肩透かしをくらったのか播磨に戻りますがここで多くの家臣団の疑問を抑えて大義名分を得て世間を味方につける「生き残り策」を謀る為か足利直冬の子孫で備中井原で僧になってた義尊を擁立しております。京では、将軍が弑殺された前代未聞の出来事に動揺していたのかいろんな噂が飛び交った様です。
その中に、「南方御子孫小倉入道宮の御末子」を赤松満祐が錦旗として擁立を謀った失敗したという情報が、当時の公家の日記に書かれているそうです。
まぁ、公家さんの日記には当時の京の錯綜状況を表してるのか嘉吉三年の、後南朝勢力により凶行された京の内裏襲撃事件で後花園天皇が兇徒により一太刀浴びせられたとも伝わる禁闕の変も「赤松残党の仕業・・」ってのもたった一つあった様ですし・・・冷や汗

しかし、これがまた「ありえる・・・」と思わせる話がありました。
後南朝「美作説」です。
後南朝といえば、吉野・北山・川上方面と思ってましたが美作国にも南朝後胤が居たという話です。
http://nanteo.s14.xrea.com/keyz/gnan/gnan026.html
奇説とも思われますが、吉野地方の後南朝史の資料とされる数冊の本の中でも全然違う部分も多くとても「美作国後南朝説」も絶対にありえないとはいえない様な面白い話だと思います。

美作国の植月に御所があったとされてるそうで「植月」という地名は岡山県の勝央近くで勝間田と日本原を結ぶ県道67沿いに見え
日本原近くに「御所野」という地名も見え東に吉野。南に、北山という地名も見えまさに後南朝史の本場である奈良・和歌山方面と地名も酷似していますね。

経緯として、個人的にありえると思えたのが赤松満祐が自領内で匿っていた小倉宮皇統を、搦め手軍の山名持豊が奪取しそのままこの地でいざという時の為に匿っていたという話です。史実、応仁の乱の際に山名持豊は「小倉宮」を西軍陣営にお迎えしています。東軍にすべての旗を取られたので対抗する為に擁立した様です。

説?に近い話としては、赤松遺臣が川上・北山で弑殺したとされる南朝後胤自天王と忠儀王の御首を持ち帰り坂越のは自天王でNO12清慶寺の方が忠儀王の墓だという説もこちらはWEB上で見た事があります。
ただ、忠儀王はこの寺を建立した小谷与次が忠儀王の御首を持っていたという中村弾正忠貞友が、南方郷士の大西助五郎なる者に喉を射抜かれ討ち死にされた後でも家臣の小谷与次は生き残っているので彼が持ち帰った可能性は「無」とも言えない気もしますがこの二ノ宮忠儀王は、難を逃れ翌年に元来病弱であった為に窮地を逃れて潜伏されていた「高原」という地で病死されたという後南朝側の資料にある様でその地のお寺にある位牌に刻まれた年月日も、その説を後押しする事になってるみたいですね。

後南朝史から、見えてくる赤松一党の姿も赤松氏史からは見られなかった部分があってとても面白いですねウッシッシムード
赤松氏サイドから、書かれた本をちょっとだけですが読んでいて赤松満祐さんの子息といえば教康さんくらいしかほとんど見られませんでしたがたまに
「教祐」という名前を見る事がありました。
この方は教康さんと同一人物?と嘉吉の乱に際してもほとんど姿が見えなかったので教康さんの子息か歳の離れた弟?とも思っておりましたが後南朝サイドの資料である「十津川之記」に満祐さんの次子である赤松左馬助教祐が嘉吉三年の南方勢力による京の内裏襲撃事件である「禁闕の変」で得た三種の神器の一つ八尺瓊勾玉をもって文安元年(1444)七月に大和国奥吉野にて兵を募り挙兵した際に
馳せ参じたと記されている様です。
文安四年十二月の湯浅城での幕府軍との攻防戦で、後南朝の征夷大将軍である義有王(円満院宮円胤法親王)率いる後南朝方が敗北するまで幕府軍と戦った様ですが、昔は、南朝の忠臣一族であった北畠氏により文安五年に殺されたとされているそうです。
そもそも、永享元年(1429)十二月二十七日の後花園天皇即位に不満をもった小倉宮聖承が伊勢国司北畠 満雅の元へ下りこれを擁立し幕府に戦いを挑むも、敗死し北畠家断絶の危機を義教将軍に思いとどまらせた最大の尽力者が満祐さん。
これで、北畠満雅の嫡子である教具をもって御家存続が叶い娘と教康さんが縁組したのに満祐さんの二子、教康さん・教祐さんともに助けずに殺しています。
何が何でも、御家を存続させたかったのでしょうけど・・・がまん顔

この、教祐さんは後南朝方として戦った人物なのにかっては南朝忠臣であったが今では北朝に臣従している北畠家が殺しやがった・・・的な論調でしたウッシッシ

ひょっとしたら、皮肉にもこの教祐さんの過去のこの働きが、後年の赤松家再興運動を助ける結果にもなったのでしょうか・・・ね?
決死隊内の中村宗道らの後南朝方への密報にて一度は頓挫しかけた長禄の変の作戦を小谷与次の働きだけでなく再び機会を得る事ができる事になった材料の一つだったのかもと思ってしまいます。

長禄の変の少し前に、忠義王の令旨をもって着到した者に「播磨者」という項もある様でこれは小谷与次による後南朝方の疑念を晴らす活動と共に他の赤松遺臣決死隊が参加し後南朝方として敵対関係にあった吉野の金峯山寺宗徒との合戦に挑んだのかもしれませんね天秤座
大蔵城址 

明石市の大蔵海岸を少し西へ入った所に「大蔵院」というのがありそこがそうだという事です。

説明坂には
「嘉吉元年(1441)赤松円心の孫、祐尚は大蔵谷に陣を構えた。居城を三木城に移すにあたり、陣屋のあとを寺院にしたといわれている。」
とありますが、嘉吉の乱に際し陣を構えたのでしょうか??そして大手軍と遭遇する前に三木へ居城を移したのかな???

この赤松常陸介祐尚さんの事に関しては、あまり目立たないのが災いしたのかいろいろ説があって不明点が多い気がしますあせあせ(飛び散る汗)

赤松祐尚さんといえば、満祐の弟にあたる方・・・のはず・・・。
という事は、則村公の曾孫という事になると思えるのですが・・あせあせ
でも説明坂には則村公の孫とあります。
家系図には、4代目惣領の義則の弟に祐尚さんが名を連れねるものもあるという事なんでしょうねあせあせ(飛び散る汗)

ここは、嘉吉の乱の前に廃城になっていたのでしょうか・・・exclamation & question
常陸介祐尚さんは、嘉吉の乱(1441.6/24)のほんの少し前の嘉吉元年(1441)5月5日に討ち死にされた説をいくつか見ます。
関東公方足利持氏の反乱「結城合戦」鎮圧軍に赤松勢として出陣し5月5日に討ち死にされたというのを見ます。「嘉吉記」でも幕府追討軍の編成でも名は出てこなかったと思いますので間違いないとは思います。
が、「播城記」という本だけか城山城で自決とあるそうですね冷や汗
でも、息子の則尚さんは仇敵の山名軍相手に最期の鹿久居島で残念ながら自刃されるまで剛勇の名を轟かせましたね射手座

でも、三木城へ移ったとあるが何時、廃城にし何時から三木へ移ったのか・・・。元ネタは何なのか気になります。
なぜなら、別説には常陸介祐尚さんは英賀城主と有り嘉吉の乱の戦後に山名支配下になったあと祐尚さんの英賀城を山名の命により、恋の浜城から三木氏が英賀城に移る様に言われ入ったという説もあり混迷しますあせあせ

しかし、この地には、赤松常陸介祐尚さんと奥さんが眠られているのは間違いない様ですね。
国道169号線・・・現代でも深山幽谷を感じさせる風景が多く残ってます。
南下していくと熊野地方へ抜けられ東熊野街道というそうです。
そしてこの街道沿いに『長禄の変』の舞台となった土地が点在しております。
国道169号線を南下すると大滝トンネルというトンネルがあり、それを抜けると左手に小規模ですが大滝ダム湖が見えます。
そのまま少し走るとダム側に、ちょっと広い駐車スペ−スが現れ(スピ−ド違反レ−ダ−をここでやるとか聞きましたふらふら)そこにカメラ左の「御首載石跡」
という石碑と、「後南朝 最期の古戦場」という石碑と川上村朝拝組の方達が建てられた石碑と三基が並んで建てられていました(カメラ中)

射手座長禄元年(1457)12月5日夜明けほどにこの辺りで、令旨と御内書の命を成し遂げ逃走中の赤松決死隊は中村弾正忠貞友達はここらで少し休憩中している時に川を挟んだ場所にはすでに南帝御所の変を知り待ち構えた近隣郷士が伏兵(東岸・塩谷)として待機しており赤松決死隊に一斉に矢を放ちかけ、中村弾正忠貞友は床机がわりに大きな岩に腰を掛け(腰掛岩)采配し、歴戦の武士で編成された決死隊との間で壮絶な戦闘があった様です。中村弾正忠貞友は対岸の大きな鍵型の岩(陰岩)大西助五郎に矢を放たれ一矢目は受け止め二矢目が喉元に刺さり討ち死にされ赤松決死隊も多くは射殺されたようで崩れます。大西助五郎は、一本目を弱く引き二本目を強く引いたので速度差に中村が掴むのが遅れてしまったとか・・・。また、もう一説には一本目は掴まれたので二本目は管矢(矢の外側に筒があった)で中村は再度掴むも管だけで本矢は喉元に刺さったとか説があるそうです。これは、後南朝サイドの記録です。
「御首載石跡」は、川上村の郷士が赤松決死隊をほぼ壊滅させ自天王尊秀王の御首と三種の神器の一つ八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を奪い返し戦闘がほぼ終了後なのか同日夕刻に自天王の御首を赤松方の居た西岸(寺谷)にあった大石にお祀りし郷士達が咽び泣いた場所だと伝わるそうです。この大石も伊勢湾台風で流され今は無く「跡」が付くわけで中村弾正忠貞友の腰掛けた「腰掛岩」も大西助五郎が矢を放った陰岩も今は大滝ダムの底か造成で排除されたかです。カメラ右は、奥に見えるのが大滝ダムで古戦場はダムの向こう側になり湖底に沈んでいますが手前の川の風景はきっと古戦場と同じ雰囲気だったに違いないでしょうあせあせ(飛び散る汗)上月記からすると中村弾正忠貞友達が持っていた御首なら二ノ宮(忠義王)だろうと思うのですが・・・諸説あり・・もうわけわかりませんあせあせ

敗者の歴史話・地元の伝説・・・それらは地元の贔屓も強くあまり参考に出来ない・・・とよく否定される意見を目にしますが私は単純にそうとは思えません。
先日分かった、狩野永徳作の大徳寺の織田信長の肖像画にも最期に生き残ったもっとも力ある者の思惑・意思により一部変更されている訳で、勝ち組に都合の悪い話なんて容易に抹殺できるとも思います。
後南朝方は自分達の土地で起こった事だから詳細に顛末を知る可能性は誰よりも高く「なるほど」と思える項もたくさん有りました。
赤松氏史や、一般的にはこの『長禄の変』に関しては赤松決死隊の生き残り(勝ち組)である上月満吉が書き残した上月記こそ参考文献に相応しい・・・と言われてる様ですが・・・・・そう思いつつも赤松族も江戸期に入る前に伝わる話は「信長公記」を含む織田・豊臣系の勝ち組の記録こそ史料価値が高いと評されている以上、負けた方にも真実があるだろうと思い森茂暁氏著の「南朝全史」「闇の歴史後南朝」や完全に後南朝サイドからの目線で書かれた「後南朝史論集」「南帝由来考」「後南朝再発掘」など読みましたがとても混迷してきましてふらふら赤松サイドから見た長禄の変の結末とそれ以外の著書で唯一共通するのが
電球[自天王 尊秀王(一ノ宮)が赤松家旧臣に北山村の御所(瀧川寺)弑殺された]というくらいで、同じ後南朝サイド(主に川上村の方々と研究者)の方達の間でもそれ以外の部分は話にかなり相違する点も多く私には難しくチンプンカンプンです泣き顔あせあせ(飛び散る汗)でも、とても、深く楽しく読ませていただきましたるんるん

先日は、十津川〜吉野〜ここまでしか陽のあるうちに行けなかったのでいつかここから先・・・まさに、後南朝の地へ行きたいですね。
ここを訪れる方はほとんどが後南朝ファンでその方達からすると赤松こそ憎むべき兇徒でしょうが、赤松バカとしてはどうしても行っておきたい場所ですウッシッシ
18歳という若さで非業の死を遂げた自天王さまの哀れさと悲壮の決意で潜入し散った赤松旧臣決死隊の生き様を見に・・・走る人
皆さんも、この地方に出掛けられる事がありましたら思い出して見てくださいねウッシッシ
カメラ左は、嘉吉の乱の足利義教将軍弑殺現場となった赤松満祐邸址と目される場所だそうです。どの本か忘れてしまいましたが京都菓子司 二条若狭屋さんの看板が目印といった所でしょうかふらふらあせあせ(飛び散る汗)
二条城の東にある京都国際ホテル前の二条通りを東に入るとカメラの景色が見え右側が該当する様で西洞院通りくらいまでかが推定地となっておりました。
ちなみに、すぐ近くにある堀川通りをほんの少し走ると西陣が有り山名町のマンション横に小さく山名宗全邸址の石碑カメラ右がありました。
近いですあせあせ(飛び散る汗)即座に、赤松邸に討手を差し向けるなら10分も掛からなかったでしょう・・・。当初の予定通りにこの地で、追討軍と刃を交えて討ち死にされていたら歴史上の評価はまた違っていたのかもですね冷や汗

付近を少し歩いたものの一切、史跡としては扱われておらずちょっと不安です。
時間があれば京都の図書館に行って調べて見たいものでするんるん
rinaさん

私も、真弓峠を通る時に「ようこそ但馬へ」の看板を見ながらいつもここが・・と思っていましたウッシッシ
ただ、残念ながら史跡としての石碑も何も無いのが残念ですよねバッド(下向き矢印)
左の写真に写る道路の左側に旧道があってあの雰囲気だと狭い道だったろうに大軍相手でもいとも簡単に敗走するは賊軍という立場の負い目なのかなぁ・・・と思ってしまいますね。
久しく忙しくなってから、あしあと巡り行けてないので行きたくなりましたわーい(嬉しい顔)
最近、また後南朝関連の本を図書館で借りて読んでましたムード
満佑・教康までの前期と政則からの後期赤松の間を知りたくてウッシッシ

人物でいうと惣領家の満佑・教康と春日部流(貞範さんの流れ)持貞・貞村と大河内流(則祐の流れの庶流)満政・満直?・教政
と有馬家流(則祐の流れの庶流)持家・元家の各流れの親子と則繁・則尚の動向に触れた本はないかなぁと探してました。

そこで森 茂暁氏著の「室町幕府崩壊・・将軍義教の野望と挫折」角川選書 なる本を見つけて借りて読みましたがこの本には
春日部流と四代将軍義持将軍。大河内流と六代義教将軍。とのそれぞれの奉公と結末が書かれてまして特に満政さんには
ある程度ペ−ジを割いて、赤松側から書かれた本は惣領家の流れがほとんどゆえに面白くてもう一度、三田市にある赤松館(満政さん最期の隠れ家で嫡流(教政さんの子孫かな?)が現在も住んでおられます場所と、調べてたら最期に自刃されたのはこの地(赤松館)ではなくて西宮市にある一族の偉大な祖である 則村公が建立(復興かな?)されたお寺がありそこで自刃されたという説が分かりましたので行ってきました。

森 茂暁氏著の本は、南朝と後南朝に詳しいのが数冊ありこの教科書ではまったく見ることのなかったいわゆるタブ−?がごとき
国家の大きな歴史の流れのこの時代に関する本を詳しく書かれておられます。(禁蕨の変に関して、赤松残党が主力がごとき古文書だけを採用されているのは納得いきませんが・・・今のとこ実行犯である後南朝方の書物や記録には無いので)冷や汗
これで持貞さんが自刃になった本当の理由は義持将軍の女に手を出したからという不名誉な理由ではなかったと思われる状況証拠や満政さんの幕府内での役割などがよく分かりましたウッシッシ
特に赤松(大河内)満政さんにご興味が、あられる方は森 茂暁氏著の「室町幕府崩壊・・将軍義教の野望と挫折」角川選書 は面白いと思いまするんるん

嘉吉の乱の戦功によりなんとか獲得できた赤松家の根拠地播磨国での所領(明石・美嚢・加東郡)をも、山名持豊に軍功をゴリ押しされた幕府の時の管領畠山持国が嘉吉4年正月に「御書下」を出し決定事項として正式に満政さんの所領が山名持豊に奪われ致し方なく文安元年10月に一族郎党を引き連れ播磨国内に没落されるも、更に山名持豊は翌11月から満政退治の為と一族の軍勢を派遣し、満政さん達は迫害を受け続けた模様で遂に満政さんと息子の教政さんと満祐の弟である祐尚の息子の彦五郎則尚さんと共に挙兵射手座
この時は、すでに山名は幕府を巻き込み策を採って赤松討伐への働きかけをしていたので満政さん達は、赤松vs山名ではなく幕府の敵であり賊軍になってしまったので味方が現れ勝てる見込みもないままに篭る加東市にある三草山城カメラも山名勢に落とされるもここでは満政・教政親子と則尚さんは無事に城から脱出し逃亡されましたね冷や汗
http://yahoo.jp/u3yCwx
赤丸?のポイントは朝光寺 後期赤松2代目惣領義村さんが復興させたお寺です。
三草山城址は青のポイントです。私は、まだ城址へは行けてないので遠景のみですが・・・あせあせ
嘉吉の乱って、これは赤松惣領家が起こした当時の世論を驚愕せしめた乱だったのでしょうが赤松春日部流と大河内流と有馬流やその他の赤松の家も同族ではあるけど惣領家とは別に将軍家に仕えていたからそれぞれの家が、こんな計画は惣領家からは聞かされてなかったでしょうし驚天動地の出来事に目の前が真っ白になった事だろうなと思います。
七条流は、大きな動きを本で読んでませんが少なくとも先の三家は嘉吉の乱以降確実にかなりの艱難辛苦の日々を過ごされたと思われますふらふらそんな中で、朝敵とまでなってしまい追討される対象となってる惣領家を攻める事になったのはさぞ複雑だったでしょうね。冷や汗

結局、室津に陣取っていた満政さんの所に落城間際の城山城から義雅さんが落ちてきて頼るも追討は勅命でもあるので立場上、親族とはいえ助命できるわけもなく自刃という事になったものの義雅さんの願いを受け入れて後に、後期赤松に繋がる「玉」を匿い逃がし、自らも、祖の円心公から赤松が領国播磨をなんとか赤松家が維持できるように、この窮地を脱して生き残る為に動くも最期は旧赤松領をも獲得し強大な敵となった山名持豊(宗全)に追い込まれ自害された大河内流の赤松満政さんのあしあとを先日、辿ってきました走る人

赤松満政さんは、四職家とは別に六代将軍足利義教の近習中の近習として義教将軍の下で幅広い活躍をされていたようですね。4代目将軍足利義持の頃からも仕えていたようですが、6代将軍義教の時には特に厚く信頼されていた近習として短期間に出世していきその働きもかなりのものだった様ですね。義教将軍と比叡山延暦寺(山門)との戦いは有名ですが、そこに至る前段階での山門側との折衝に満政さんはあたった一人の様で山門から名指しで幕府に対し処罰を求められたうちの一人になってますね。この時は、もちろん、将軍の意を入れての行動に対する山門側の反発ゆえ惣領家預かりという、形だけの処罰ものだったようですけど湯のみ
赤松に限らず細川家以外の山名・大内・土岐・一色・斯波・畠山・富樫などなどの有力家への家督相続問題への将軍の介入は三代目義満将軍から始まってますバッド(下向き矢印)が、赤松家に関しては義満の頃には無く4代目将軍足利義持の頃に赤松4代目惣領の義則さんの死後から始まっており他家ではこれにより結果的に家督相続を争う一方が死して勢力を削がれるという憂き目に遭ってますが赤松の場合は「殺される前に殺す」という前代未聞の結末になりましたねあせあせ

射手座挙兵し幕府軍と戦い敗れて三草山城を落ちられた、満政さんはどういうル−トでこの「赤松館」に来られたかは分かりませんが、以前に赤松館をお尋ねした際には末裔の方から六甲山での潜伏の話や山名家の追手との逃亡譚などをお聞きしたのでそちらにもおられたのでしょう。もちろん、すでに同族である有馬家を頼るつもりだったんでしょう・・・その結果、赤松館に来られ潜伏されたんでしょうか。もちろん、有馬持家・元家親子は匿うつもりだった様なので当然、承知の事だったんでしょう。

以前、訪ねた際に偶然に末裔の方が目に見えたので失礼ながら声をかけさせていただきお話を少し聞かせていただいた時に居館だったこの赤松館(カメラ左)には地下室もある話や隣に隣接する東山八幡宮の鳥居(カメラ中)に仲間への合図の印の様なものを用いて連絡を取っていたらしい話など伺いました。
赤松館と東山八幡宮とを隔てる土壁(カメラ右)は当時ものでしょうか・・・感慨深かったですウッシッシ
↑NO23続き

ここには、古文書や満政さんの辞世らしい書も残っていて、重臣だった中村八郎という人物が建てた満政さんのお墓(カメラ中)も邸内にありました。
ゆえに、ここで、亡くなられて眠られているものと・・・・・?あせあせ(飛び散る汗)

満政さんは、この嫡流筋には武士を捨てる様に伝えられたそうで教政さんの筋(満直さん?)?でしょうか・・・その言い伝えをここの家は守られ刀を取らなかったようにその時お聞きしたと思います。

地形は西・北・南方面は見晴らしもよく、東には、そう遠くない場所に低いながら山々がありますのでいざという時には東側の山に逃げ込む事も可能だろう良い立地に思えました。サーチ(調べる)
そしてこの居館の隣には、別所氏など家臣などが住む館跡(カメラ左)もありちょっと本郭跡らしい高台(カメラ右)もありちょっとした城らしいものだったみたいですが今は、赤松館以外はそんな「城」を連想させる遺構を感じるのは難しいと思いますがあせあせ

ここも、幕府方に満政さん潜伏が判ったのか有馬家流が匿っているというのが判ったのか山名家だけでなく文安2年(1445)、幕府側も細川勝元を大将して追討軍が進軍してきて射手座有馬持家さんも、同族 満政・教政親子を助けるべく、兵を出して満政さんに加勢しましたが、有馬郡(現在の三田市辺り)で合戦となりましたが多勢に無勢・・・有馬方は370人が討たれたと伝わるそうです。
結果的に、このままでは有馬家も滅ぶ事を恐れ満政さん達を匿いきれず
これを攻めて自刃に追い込むという苦肉の策にて有馬流を守ったんですね。

ここを訪ねられ、ご当主にお話をお聞きになった方のHPには、辞世とされる満政さん自筆の書が残ってるとあったので、末裔さんにはここで自刃されたと伝わってるのかなと思ってましたしお墓も、重臣だった中村八郎なる人物がここに建てたのもそうだからここで自刃されたんだろうと思ってましたので機会があればもう一度お聞きしたいです。

住所は、兵庫県三田市東山 
現在も末裔の方が住まわれてらっしゃるので訪ねてみたいと思われる
方がいらっしゃいましたら上記の住所で検索し「東山八幡宮」を地図上でお探し下さい。

まいどまいどの長文、失礼しましたあせあせヲタゆえ、お許し下さいあせあせ(飛び散る汗)
実は、赤松(大河内)満政さん親子と郎党はここで自刃されたと同時代に生きた人物で赤松族上月家から出た相国寺鹿苑院蔭涼軒の季瓊真蘂の推挙により将軍義教に拝謁以来、活躍された瑞渓周鳳という高僧が、宝徳4年(1452)に書いた紀行文中に、このお寺の十三重塔について「満政此に於て自殺」と書き残しておられるそうです。
ご住職のお話では、この木元寺(カメラ左)も、円心公が尽力され再興(開基かは不明)したともいわれてるそうで有馬家の変心も察知されこの場まで逃げてきて周りを囲まれ文安二年(1445)四月四日赤松播磨守満政さんと一族郎党124名境内で自刃されたと伝わり十三重搭(カメラ中)は満政さん供養の為に建てられたそうで今の位置と元の位置(以前、バラバラに崩れて置かれていたそうです)は違うらしく以前の正確な位置は不明だそうです。一見、基壇が最近のものだし崩れない様にセメント?で固められてる様に見えましたがお聞きすると間違いないらしいです。
ご住職や有志の方達のご尽力により現在また建てられたのは嬉しい限りですぴかぴか(新しい)
お寺への短い階段を上ると境内に入りますがすぐ左手に搭は建てられており左手搭の向かい奥にはお寺の方の住まいとその右手に御堂が在ります。その建物と建物の間から見える一段高い場所に草に隠れて見え難いですが小さな五輪搭三基があります。
同寺では最古のお墓らしいのですが十三重搭の下には首は、京都高辻河原で梟首される為に送られるので満政さんの「髻」が埋められたそうで現存する小さな五輪搭三基の他に同様の五輪搭が主君、満政(十三重搭)を囲む様にこの地において殉死された方の数だけ配置されあったそうです。
数年前には、ご住職が赤松播磨守満政と主従百二十四名のご供養をなされたそうでこの地がそうであると木製看板が(カメラ右)設置されていた様ですが今はこの看板は根元がダメみたいで御堂の下に横倒しで積まれて置いてあるのをわざわざ、ご住職さんが教えてくれて写真まで撮り易い様に持っていただいてヲタの訪問を煙たがらず対応していただき感謝の一念でしたわーい(嬉しい顔)

赤松系の本でも、有馬家は助けを求めてきた満政一族を短く攻め殺した様に書かれたものが多いですが有馬家も苦悩の決断だったに違いなくこのお寺の復興や十三重搭建立やらを思うとやむをえぬ状況だったのでしょうね冷や汗
この後、有馬家も持家は満政さんを匿い幕府側と一戦に及んだ為か退きて息子元家に家督を譲り家を残し同じく三草山にて満政と共に挙兵した則尚の赦免と復権には強く働きかけて貢献しておりますね。

ただ、その則尚さんの再度の挙兵も早すぎて「雑談コ−ナ−NO.91」足裏皮ズルむけたろうさんが訪ねられたあしあとの地でここのコ−ナ−NO10の雁南氏らと共にまたしても山名家にやられてしまいましたね。
山名家は幕府を巻き込んで嘉吉の乱以降は、赤松一族を幕府の敵という立場にして力を結集させ難くさせ削いで、潰しにきてますので則尚さんの挙兵はあまりに早過ぎた様に思いますねげっそり

カ−ナビなどでは「木元地蔵尊」で検索できると思います。
http://yahoo.jp/tc-ryQ
先日、NO7,8にて書いた伝説(昔話)の主人公 赤松家に属していた猛将 依藤太郎左衛門豊房(惟次)さんのあしあとを訪ねてきました。
東播磨の小田城(カメラ左・中)を本拠とする依藤太郎左衛門豊房さんが、落ち行く主家 赤松家に最期まで味方し殉じ、死してなお伝説を残すとは・・・と思い新宮町へ行きました走る人
そこで、この人の最期の地に建つ依藤塚(カメラ右)に行き、地理的な位置からその時の状況が分かるかの様に思えました。
そしてその後の伝説は「真実」と思える様な塚は写真で見たときにはあまり感じられなかった異様さには驚きましたあせあせ(飛び散る汗)
この地は、因幡街道が通り千本宿「本陣」のすぐ近くですので昔は主要街道沿いですし江戸期には参勤交代の西国大名の宿所として栄えた町の様です。
ここを、通る騎馬の武士がわざわざ、下馬して歩いたのも肯ける光景にも思えましたね冷や汗
塚(お墓)である五輪塔の前(街道側)にまるで視界を遮るかのごとく建てられた石版が見えて五輪塔はその存在が街道からは視認し難い状況になってます。
この怪奇現象はざっと340年間に及び天明六年(1786)に時の依藤太郎左衛門豊房(惟次)さんの末裔さんが五輪塔の前の石版を建てて街道を見えなくした事で止んだという話も納得でしたウッシッシ
私は、この日上郡町で赤松円心公の講演を聴いた後で夕刻になってたので現代の馬を下りて一礼してからカメラ撮らせていただきましたが・・・あせあせ

小田城址
http://yahoo.jp/eUy3QJ
依藤塚
http://yahoo.jp/OrlJwR

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