歴史の「if」を想像して楽しむ時、この赤松一族とその軍団を構成していた国人衆達が鎌倉時代末期から室町時代後半迄の時期に起こった大きな出来事・・時代の流れにある潮目「その時」に存在していなかったら今に伝わる歴史はどう変わっていたんだろう・・・そう想像すると、あまり他にそう例をみないくらいとても楽しめる興味深い人達だと思います
「太平記」ここから播磨の赤松(円心)則村の名が日本史上に登場します。
北条幕府を倒す為に、本拠地苔縄で挙兵し山陽道の備前との国境付近を閉鎖し
神戸市の六甲山(摩耶山)上に篭り六波羅軍を迎え討ち求女塚に討って出て追い払い尼崎久ヶ知から国道171沿いに京を目指し久我畷にて鎌倉からの援軍の大将名越高家を討ち都一番乗りをした。もちろん、その行程で勝ったり負けたりしながらも確実に京に迫りさぞ六波羅を狼狽させた事でしょう。
足利幕府成立にも、多大な貢献をした赤松氏は後に三管領の次の四識家の一角として足利幕府を支え始め、それから間もなく赤松一族含め播磨国人衆達と世の中は激動の時代に突入していきました。
楠木正成公や名和長年公や足利尊氏公・新田義貞公などは良く扱われるのに
赤松円心則村公は過小評価されていますが戦功は上記の諸勢には勝るとも劣らないはず。
郷土の豪傑達が歴史の隅に埋もれ気味なのが残念でなりません。
最大版図は、本拠地 播磨国から摂津国・備前国・美作国にまで及びその他但馬や丹波その他の土地の一部にも及んだ時期があります。
そこにも、赤松軍団の『あしあと』があるはずです
良くも、悪くも中世の激動の時代を必死で豪快に活きた諸国の赤松軍団を構成した赤松一門と国人衆の足跡を語り合いましょう。
同趣味同士の情報交換の場となれば幸いです
赤松一族と味方した諸国の国人衆達の生き様をあまりご存知でなく少し興味がおありの方はまずは読んでみて下さい。
web上で太平記と応仁記を載せられているモノを発見しましたので紹介します。
太平記 http://
応仁記 http://
これらは、赤松軍団史上の姿の一部分でしかなく赤松軍団は日本中世史の表・裏の部分にも激しく絡んでおり懸命に豪快に活ける先人の姿は知れば知るほど面白いと思いますよ