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播磨の赤松一族と国人衆の足跡コミュの赤松一族と国人衆の足跡(太平記編)

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五峰山 光明寺 遍照院です。
開山はとても古いお寺ですがこのお寺は「観応の擾乱」足利兄弟の争いの舞台となった光明寺合戦の舞台になりました。
また、清和源氏の基礎を固めた武将、多田(源)満仲は当寺の竹を旗竿に用い、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折にも旗竿に用いられたそうです。

NHK大河ドラマ「太平記」が放映された時に、舞台となったこの地に観光客向けの為か、本堂の後ろにある本陣跡も柵や楯や床机?など演出もなされていたようですが今は放置状態なのが哀しいですね。

足利尊氏を揺ぎ無く支えた赤松と、それに従う国人衆達も攻略に尽力しました地です。
カメラ?光明寺駐車場からお寺への入り口
?山門 ?本陣跡(もし陣幕があれば更に当時の情景が目に浮かびます)

コメント(68)

ベロベルトさん

阪神間巡りですね。
大物くずれ跡は私も行きましたよ。
尼崎城址と同じく阪神電車の駅近くでそりゃ何も残って無くても仕方が無いのですかね冷や汗

瓦林は河原林と表記されたり越水が小清水と表記されたり西宮市の跡ははっきりしないのがまた、面白かったりします。
次は富松城址も残ってるし何処か戦跡があれば嬉しいのですがどうなんでしょうか・・・ねがく〜(落胆した顔)
尼崎の久々知は円心公の陣もあっただろうに兵庫県は郷土の歴史編纂には興味が薄いのでしょうね考えてる顔

神戸市内にある多くの平家の公達の墓所・史跡も案内板すらないですから
地元の人に支えられてるのが現実だから悲しいです。
>28ベロベルトさんの紹介、貴志五郎四郎義氏のお墓が三田市にあります。
この方の事跡は知りませんが、三田では南朝の忠臣として崇められているんですね。
写真は三田市貴志の慶安寺です。
PCDDs さん

貴志五郎四郎義氏さんという人の名前は初見でした。
南朝の忠臣とされているという事は、円心公四男の氏範公と行動を共にされていたのでしょうね。氏範公も父の円心公が存命の時は父の元で奮戦され後を範資公が継がれるも早世され三男の則祐公が継がれてから複雑になっていきましたね冷や汗
戦上手では、兄弟双方とも巧者ですから好きなゆえに残念です。
三田は、有馬氏と氏範公関連の城址が多いみたいだから行ってみたいですね。わーい(嬉しい顔)
先日、お彼岸ですので高野山にお参りに行ってきました。車(セダン)

そこで、ここのコミュには赤松氏縁者の子孫の方も多いのでご存知の方も
多いかもしれませんが赤松則村公は、高野山におられた大塔宮の元に赴かれ
宮の勧めで高野山内に数多くある子院の中の一つで得度され「円心」という号を受けたそうです。その後、そこは赤松家の菩提所となり院の名前を「赤松院(せきしょういん)」と呼ばれる様になったそうです。
今は、宿坊でもあり宿泊も可能です。
私が行った時は、シルバ−ウィ−ク真っ最中ゆえ吉野川から山上の大門まで3時間近く掛かる異常な事態ですが普段はそれほどでもありません。げっそり

徳川時代には、高野山奥の院に墓を作る事が諸大名のステイタスでありましたし
戦国末期には上杉謙信・武田信玄・真田信幸・幸村などなど山内の子院に深く係るも院の名前が変わる事はありませんでした。湯のみ

高野山に行かれる機会がありましたら泊まってみるのも良いかもですウッシッシ

http://www.sekishoin.net/page2.htm
行ってきました赤穂わーい(嬉しい顔)
坂越浦城址です。
最初に造ったのは山名氏の様ですから嘉吉の乱後で播磨奪還後に赤松村秀さん(龍野)の城の一つになった様ですね。

・・じゃなくて、ここは太平記トピですね。
ここには、元弘の乱の時には赤松と味方だった備前国の武将児島高徳さんが眠られています。白旗城にて新田義貞率いる大軍を引き受けていた時に勢力を九州で盛り返した足利尊氏が攻め上る際に児島高徳さんは後醍醐帝に忠を尽くし途中で隊を二手に分けて進む直義率いる軍を防ごうとするも多勢に無勢ゆえに後退を余儀なくされ備前熊山城で重傷を負いまた、新田が白旗城の囲みを解いて東に移動したと知り合流しようと義父和田備後守範長さんと行動を共にしておりましたが
ここでこれ以上は無理とここの僧に児島高徳さんを預けてその後、囲みを解かれた赤松軍がこの勢を要所要所で待ち伏せついに和田備後守範長さんと残った一族の者も高砂市阿弥陀町阿弥陀で亡くなったそうです。討った宇野重氏さんは大日寺で懇ろに葬礼を指示し、遺骨を郷里へ送り届けたそうですがく〜(落胆した顔)
時の流れが、味方として戦った仲なのにこういう結末を迎えると哀しいですね。
今は、和田備後守範長と一族の人数人が児島高徳さんの墓所と同じ坂越にお墓が建てられています。時間的にここは登れませんでした。
室山城址です。

ここは、一説によると鎌倉へ北条残党軍を討ちに後醍醐帝の追討軍に対し劣勢をしいられていた足利尊氏が新田義貞率いる追討軍に京を追われ敗走の末、この城に来て円心公と話し合い持明院統の君を立て賊軍の汚名を免れる策を練ったとも言われていますね。三草山説が有力ですが・・あせあせ

また、後年に応仁の乱で旧領を回復した赤松政則が自身の実子ではなく嘉吉の乱の悲劇を防ぐ為か長男系(七条流)から養子を次の総領として迎えその人 赤松義村が内訌により重臣浦上村宗に謀殺された地であり、更に後年に村宗(大物崩れで討ち死)の子で浦上家を継いだ正宗の子と小寺家の寵臣黒田家の娘との婚儀の席をここで行なった際に龍野の赤松政秀さんが手勢を引き連れ急襲し正宗を討ち取った場所でもあり赤松族には深い因縁のある地ですね雷

ここは、これからの季節は牡蠣の美味しい地です。
もし、行かれる時はご賞味下さい。
今年は少し小粒らしいものの煮ても揚げてもさして縮まない良い牡蠣ですよわーい(嬉しい顔)
私の先祖「春名」姓は赤松一門と代々聞かされていますが、
本当にそうなのでしょうか?
家紋も赤松の2本引きです。
岡山県大原町、兵庫県佐用町に集中しており、
宮本武蔵の出生地説の場所で、先祖も戦国時代や朝鮮出兵、関ヶ原で武蔵と係わりが有ったとか???

美作の大原町に在住するのに、何故か播磨 佐用町にある寺が代々の菩提寺です。
武蔵の武者修行中の「播州 新免 宮本武蔵」記述に一致するのです。
>harutianさん

大原の春名氏といえば、竹山城侍帳に記載のある新免家の武将の家柄でしょうか。
新免氏は宇野氏とも関係が深そうですし、興味深いお話です。

そういえば、居合道の大家であられた春名先生は、武蔵の兵法二天一流の継承者のお一人でもありましたね。

>PCDDsさん
武蔵道場の館主も春名さんの様ですが、直接の親族では無いようでした。

親族の本家は東粟倉村で当主曰く、新免の家臣であったとも。
父親の実家は旧 讃甘村の旧家で子供の頃、備前長船の名刀が有ったと・・・?
私が子供の頃は確かに種子島と槍が有ったのは覚えています。
今はどこに行ったのか?

宇野氏(赤松一門)が秀吉の山崎城(播磨)の際、血縁の新免家へ千種周りで東粟倉へ落ち延びたとの説もあります。
新免家の家紋が巴を捩った様な家紋の事から、赤松との関係は強かったと思います。(竹山城麓の新免家墓石見学)
>harutianさん

竹山城主の新免氏はその成り立ちから、宇野氏(赤松)との関係が深かったようですね。
初代城主の貞重など宇野氏の養子となっていたようですし。三代目の宗貫は長水城から養子として向かえたとの話もあるそうですから。

刀や槍も是非探し出して下さい。
錆が回って修復不可能なんて事になったら、御先祖様がなんと言うか…。
実家の蔵へ今すぐGOexclamation ×2
harutianさん

はじめましてわーい(嬉しい顔)
美作 新免さん関連はPCDDs さんがお詳しいので助かります。
で、「赤松一門」ではとの事についてですが一般的に言われている
赤松八十八家には「春名」姓は見られません。
これは、一門や重臣などという赤松家を支える近しい人達の姓の様です。

また「赤松秘士録」の中にも見受けられません。
が666氏もあるといわれてるそうですが私の資料はそれほどの数も無く
抜粋されたものかもしれません。

で、赤松家の事を詳しく書かれた藤本哲さんの著書の中で「赤松氏譜」って項があり、「御一家衆」「御一族衆」「当方御年寄」「赤松一族」「赤松幕下」と
分けられた中では「赤松幕下」の欄に見られますね。

>宇野氏(赤松一門)が秀吉の山崎城(播磨)の際、血縁の新免家へ千種周りで東粟倉へ落ち延びたとの説もあります。

長水城の宇野政頼さんの事でしょうか?
でしたらこのトピNO9を見てくださいね。
千種幼稚園のすぐ近くにて自刃されて眠っておられます。
政頼さんと黒土の石原城主とその他数人が新免家に養子にやった息子を頼りここまで落ち延びてくるも、川は増水しており救援に来た新免家の隊が笛石山から「ここだexclamation ×2」と教えるつもりに立てた音を追っ手が迫ったと間違い自刃されたと伝わっております。
この場所を、探すのに農作業をしていた方に聞いたら事の成り行きのお話をしていただき私の本で読んだのと合致してましたよ。わーい(嬉しい顔)
>PCDDsさん
解りました。
有り難うございます。
久しぶりに関西に帰れた事もあり、
チョクチョク墓参りを兼て大原には行こうかと考えています。
ただ、知っている親族が殆ど高齢で無くなってしまったのが残念です。

檀家のお寺から(佐用町)攻めるのも手かとは思います。
これは、中道子山城址です。
太平記の頃に赤松則祐さんが築城して弟の氏範さんを守将として入れられた城です。
実際に、太平記の時期に、ここで戦闘があったかどうかは分かりません。
ただ、赤松一門の内紛(重臣浦上家の反乱)や尼子詮久(晴久)の侵攻に遭い
戦場と化した歴史はあるみたいですね。

後に一時廃城となっていたが、享徳年間に孝橋繁広さんが再興するも嘉吉の乱で失地するも赤松一門の命を賭けた御家復活行動により赤松政則が加賀半国大名として復帰の後、応仁の乱で旧領復活し戦功あった孝橋繁景さんがこの地に復帰し赤松5代秀時さんまで中道子山城の城主として続いたそうです。
でも、4代目の孝橋秀光さんが細川家の内紛に細川晴元さんに従軍し天文18年に摂津三宅城で討ち死にされた後、子の秀時さんは中道子山城を捨て、播磨佐用郡浅瀬山城へ移って廃城となったそうです。

が、織田軍の播磨侵攻に際しても、この城も落城伝説があります。
この頃の城主は孝橋氏とは考え難く近隣の志方城の櫛橋氏の一部が入ったのか
神吉城の神吉氏関連か近隣の国人衆が入ったのか分かりません。

びっくりするのは、立地条件の良さです。
四方をはるか遠方まで望めます。
また、規模も思ったより大きく遺構も残ってます。本丸も広く「赤松城址」の大きな石碑も立ってます。

射手座織田の播磨侵攻に遭った時には、囲まれている三木城まで見れたでしょう。また、近隣で繰り広げられた神吉城の壮絶な戦闘の様子や銃声や取り巻く織田軍30,000余騎の布陣や怒号、死戦を展開する悲鳴にも似た神吉城2,000余騎の怒号も2週間もの間、鮮明に聞き取れたと思います。

やはり近隣の志方城の櫛橋氏などの動きもよく見えたでしょうね。ふらふら
私が城兵だったなら、精神バランスを崩して逃げ出してしまったのは確実でしょうげっそり

浅瀬山城に移った孝橋氏も結局は、織田の侵攻に遭ってますね。
いっちゃんさんは、どう聞いてますか?
興味深いところですウッシッシ

カメラ?怖いのなんのって高所恐怖症の私にはここからは登れません旧道です。
?本丸への入り口です。中に入ると米蔵跡があり更に上に広い本丸があります。
?本丸です。赤松城の石碑があり裏には歴代城主の名が刻まれています。

ほんとは、いっぱい遺構があったのでカメラしてますが3つしか載らないので残念です。
元は山岳寺院があったらしく城址内にミニ四国八十八カ所巡礼ができる祠がありました。
ご指名ありがとうございます。

私も、一度しか中道子山城(「なかみちこやましろ」と打たなきゃいけないのが悲しい涙)行った事ないですが、城郭研究家の木内氏がおっしゃるには、大手道は今の登山道とはちょっと外れてて、そっちは山の斜面に埋もれてます。

城主孝橋家の系譜ですが、我が家のオーラルヒストリーでは…

1左馬介則繁
赤松満祐末弟、善防山城主。嘉吉の乱後一時期筑紫の少弐氏を頼って高麗に亡命し、彼の地で「清水将軍」と名乗って倭寇の頭目になったが、高麗王府から外交ルートで要請された幕府が少弐氏に圧力をかけ帰国し、山名宗全と播磨で戦うも自害

2左馬介繁広
赤松満政長男で、従兄である則繁の養子になる。どういった経緯か不明なものの中道子山城主となる。
嘉吉の乱後、赤松満直と名乗って赤松家惣領になるが、東播磨三郡守護職召し上げで山名宗全との決戦を決意し、挑むものの敗れ、父赤松満政とともに自害

3左馬介繁景
繁広長男。赤松千代丸時勝、政則二代に仕え、赤松再興に尽力。その功から中道子山城に復帰

4和泉守政頼
繁景長男。景頼とも。細川家執事三好一族と対立したため明石方面から徐々に圧力強まる。桂川にて戦死

5和泉守秀光
政頼長男。父親同様、三好一族と対立関係。芦屋川にて戦死

6修理亮秀時
秀光長男。元亀年間に、東からの圧力(三木の別所長治)に屈し、佐用郡上月の飛び領地「浅瀬山城」に移転。中道子山城には城代を置く。志方城主櫛橋氏に弟を養子縁組して加古郡・印南郡の統治体制建て直しを計るが羽柴秀吉の播磨侵攻に徹底抗戦したため最終的には浪人状態に…(ToT)

7中村重利
秀時次男。浅瀬山城二代目城主。何故改姓したかは不明だが、おそらく、鳥取城主山名禅高の宿老・中村対馬守春続(重利の義叔父)の苗字をなんらかの都合があってもらったものと推測される。兄、重則は鳥取城攻略戦にて戦死。

領地を失い、すってんてんになって鳥取から帰ってきたものの、加古川の領地は糟屋武則に、加西は仙石秀久に、上月は宇喜多秀家に取られ、行き場がないもんだから、哀れですなぁ、秀時・重利・重秀三代は揖西郡中嶋村(御津町)で暮らす事になりますが、姫路城主池田輝政が死に、新たな城主に本多忠刻が封ぜられるに至り、姫路に近い御津町から、佐用郡本郷村(三日月町)に写り、孝橋の苗字も封印して中村を名乗り、後年は三日月藩森家から苗字帯刀御免を貰って、GHQによる農地改革でまたまたすってんてんにされるまで豪農として暮らしました。
なお、明治になって、中村を仲村と改姓しております。理由は、部落の小作人達が平民苗字必称令施行で字名の中村を苗字にしたため、わしらは違うんだと片意地を張ってニンベンを付けたそうです。なんで孝橋に戻さなかったのか、たぶん私のひいひい爺さんはそこまで頭が回らなかったんでしょうねぇ…

私の祖父が塔筋家の養子になったので、私は仲村姓じゃないんですが、この今の苗字が気に入ってるんで、親戚からは「戻せよ」と冗談混じりに言われますが「保科正之の論理」を楯にシカトしてまするんるん

脱線しましたね…
答えになってます?
いっちゃんさん

秀光さんは芦屋川で戦死されたと伝わるのですかわーい(嬉しい顔)
なるほど、瓦林政頼の鷹尾城の攻防戦でしょうか・・・?

また、秀時さんの項は興味をもちましたね湯のみ
志方城主櫛橋氏に弟を養子縁組されたのは誰なのか面白そうですね。

志方城主櫛橋氏は、三木合戦に際し戦わずに逃げたと言われる説(城址に建つ観音寺にある系図によるらしい)もあり娘が黒田官兵衛の正室だしありうると思いましたがある本に伊定は天正元年には死没し三木合戦の頃には志方城主は黒田官兵衛の正室幸圓の兄の則伊で戦って落城。
一時は神吉城に後詰に出陣するも、織田勢の陣容に無駄を悟り篭城戦を展開したとありましたね。そこでですが中道子山城か天神山城かにも兵を入れたと見ました。ある本では守将の名は櫛橋秀尚とありました。
名前からすると櫛橋氏系というより孝橋氏系の名前みたいですよね。
ひょっとするとこの人かもですねコーヒー

櫛橋氏は、人質に三木城に入れた者も落城時に自刃されたという説でした。
これは櫛橋氏子孫の系図による話だそうです。
今、三木合戦を語るモノで櫛橋氏は多くの播磨武士が織田と戦い散っていったのに逃げた卑怯者扱いされてますがこれが本当なら可哀相な話ですよね涙

面白いお話をどうもでするんるん

実は先日、利神城址と高山城址に行った際に帰りに三日月陣屋跡にも行ったのですよ。
これは一緒に、同行してくれた友人の薦めでして偶然ですがビックリです。
ちょっとぼやけてますがカメラ載せときます。
名前確認できますか?眼鏡
大変失礼しました

秀光戦死の地は芦屋川じゃありません。私の単なる書き間違いです。

クリリンJrさんレポートのとおりです。

さて、志方城主櫛橋秀尚ですが、彼は孝橋家からの養子で、孝橋秀時の次弟だったはずです。

ええと、いま出張先からケータイでログインしてまして、全て資料が祖父宅にあるもので、それを照合すれば間違いないですが…今度いつ帰れることやらあせあせ(飛び散る汗)
> クリリンJrさん

すみません。三日月陣屋の写真、やはりケータイだと見えづらいです…あせあせ(飛び散る汗)
いっちゃんさん

すいません、通常サイズでもちょっとボケてるのに画像をアップロ−ドすると更に小さくなりますので読めないですね・・すいませんふらふら

ややや・・間違って入力してました。
最期の志方城主は、その子孫の方の系図には櫛橋左京亮政伊となってます。
よく名前が出てくるので思い込みで則伊と書いてましたが則伊→伊家→伊定→政伊となってまして政伊さんは天正6年8月10日。
篭城する事20日間糧食尽きて自刃 享年31歳だそうです。
その政伊さんの嫡男 三郎さんが三木城に人質として入っており別所長治さんの自刃の際に共に自刃されたとなっている様です。
定説で、最期を伊定となっているのは印南郡誌(赤松大系譜)と櫛橋系図(観音寺蔵)のものを前提にされている様ですが江戸中期に入るくらいに作られたものと伝わってる様ですね。

櫛橋子孫の方の系図では伊定さんの子供は、嫡男 政伊さんで長女に上月城奪還後に前城主の同族として入った上月十郎景貞(政範さん説あり)の正室がいて
次女が黒田官兵衛の正室になったお光さんで下に朝鮮の役で討ち死にされた三郎四郎さんと豊前城井谷で討ち死にされた三十朗さんがいてその最後に「某」(宗雪)って方が見られます。この某が秀尚さんなのかその前の方がそうなのかは分かりません。

秀尚という名前は印南郡誌(赤松大系譜)と櫛橋系図(観音寺蔵)でも見られませんが当時は名前はよく変るので分かりませんね冷や汗

もしこの説が真相だとするなら、なぜ、政伊さんや三郎さんの命を賭けた武士の一分が抹殺されたのか・・という事になりますね。
その辺りをその本では先の二つの系図は徳川爛熟期に作られたものであり当時は武士の間で儒教が尊ばれ家系も重んじられる時代になり子孫が黒田家に仕官しているので黒田家に遠慮して逆臣(織田に叛いた)の部下がいるとしての御家としての負の材料を抹殺したのではないかという事でした。

もし櫛橋氏が、長年の付き合いにより他の近隣の播磨国人達の様に播磨国人内の義戦に殉じていたら黒田家こそ主家小寺氏を早々に見限り織田に鞍替えした逆心となる構造にもなると思うので櫛橋氏は祖は織田には抵抗せず降った事により正義は織田にありという事で黒田家は逆臣の汚名を被る事もない為の遠慮なんじゃないかとも思いますが・・ウッシッシ

いずれにせよ、歴史とは勝者の都合の良い様に書き換えるのは容易ですから
真相に出会えるのは難しいんでしょうね。
更に頑張ってください、研究者さん達〜るんるん
って、期待しています。ウッシッシ

さぁさぁ、明日は新年初出ゆえ暫くしんどいでしょうげっそり
すでに仕事初めは済んだ皆さんお疲れ様です〜
行ってきました河内国 龍泉城址
この城址では、正平15(1360)年に赤松円心公の長男範資さんの御子で後に則祐さんの養子に入ったといわれる彦五郎範実さんが南朝の雄である楠木正儀さん相手に細川清氏と先陣を争う活躍を見せて陥落させてます。
とはいえ、楠木の策を見破ったのは別人だし寡兵を追い落としただけですが
その意気や良しexclamation ×2って事でウッシッシ
でも、この次世代の赤松族パワ−ってさほどは衰えてはいない気もしますが名前と四兄弟の内の誰の血統か早くも分かり難いところが出てきて説が複数あったりする人も出てきますね冷や汗

後年、応仁の乱に繋がる畠山家の内訌でこの城(その頃は嶽山城といいます)に
追討の綸旨がくだりこの城まで逃げてきた畠山義就を幕府の大軍が包囲し2年以上?攻防が続いた様ですがこの戦にも赤松軍は参陣したことでしょうね。

大塔宮護良親王の、皇子である陸良親王のお墓だそうです。
姫路市香寺町須賀院という場所にひっそりとあります。
この方は、観応の擾乱の際に一時期ですが南朝側についた則祐さんと共に上洛せんと軍を進めている最中にこの地で亡くなられたと伝わっているそうです。

同じく大塔宮の皇子であり奥州にまで赴かれた興良親王と「同一人物である」という説もあるそうで一般的にどちらも「赤松宮さま」と呼ばれていた説があり、ややこしい事になってますね冷や汗本当はどうだったんでしょうか・・・。

興良親王は、北畠親房と共に赴任し奥州に着いたのは嵐という思わぬ事態に遭遇し時間的な差はありますが北関東から奥州の武士たちを纏めて足利将軍方に対し反抗を続けましたが劣勢になり引き上げた数年後に南朝方から北朝方を攻撃するとして大将を任されてを軍を進めるも突如、矛先を南朝に向け付き従っていた武者達が動揺し軍を離脱していきこれを知った南朝方が慌てて討伐軍を編成し激突射手座
ほとんどの武士たちが興良親王から離れ劣勢になった中、氏範さんは懸命に戦い興良親王が無事に逃げきったと知ると抵抗を止め南朝に降ったが氏範さんには南朝方から何らお咎めはなかったそうですね。

で、この陸良親王はどういう経緯で赤松の元へ来られたかまだ、詳しく書かれた本にはまだ出会ってませんが正平の一統の尊い犠牲者だという事です。
大塔宮護良親王と赤松氏は深い繋がりがあった・・それゆえに建武の新政では皇位継承問題に巻き込まれ煮え湯を飲まされましたがその大塔宮の子息の皇子達も赤松家を頼られたのでしょうか・・exclamation & question
それにしても、大塔宮護良親王と子息の興良親王・陸良親王(は同一ではなかったとしても)父子共に歴史の激流に翻弄された血統ですねがく〜(落胆した顔)あせあせ(飛び散る汗)
赤松勢が、六波羅打倒の挙兵後に四国の小笠原勢の尼崎上陸に気づかず円心公や子息達も窮地に陥ったりもしましたが、なんか対赤松戦に六波羅方は河野と陶山を重用した様で小勢で赤松を散々に討った様に数度描写されてます。
よく読むと、最初から河野と陶山は自勢のみで正面から赤松に当たらず六波羅の大勢と交戦している小勢の赤松勢を背後・左右から頃合を見て突っ込んでくる遊撃隊の様なもの・・・。
ん〜なんか悔しい・・・河野と陶山はその後どうなった?と思い初めて「太平記」読んでます。陶山は六波羅陥落後に近江番場にて北の探題北条仲時と共に
亡くなった様で忠臣だったんだ・・・と分かりましたが河野はまだ出会えてません。出てくるかなぁ・・・。
ご存知の方、いますでしょうかうまい!

ところで、近江番場宿で北条越後守仲時と共に自刃した多くの将士の中に驚きの名前がありました。寄藤十郎兵衛(依藤)氏と浦上八郎(海上)氏だそうで注釈では寄藤氏は「元は赤松の家臣」とありましたが異説で斉藤という姓で赤松とは縁の無い人の名前もありました。
浦上の項には赤松との関係は無しでした。
ちゃんと、「太平記」も読んでおくべきでした冷や汗
元は、赤松も六波羅方。
もし、上記の方達が赤松軍団のお二人だったなら
高田兵庫介と同じく自身の「筋」を貫いた兵ですねるんるん
カメラ湊川神社〜楠木正成さん戦没地です。

「太平記」には、欠かせない人物であり多くの日本人の心を惹きつけてやまない人ですねわーい(嬉しい顔)
赤松氏史を、好んで見る様になって
赤松円心公にとって、楠木正成公は敵か?味方か??それとも???
良い言葉で、好敵手というか同志なのか?????
皆さんは、どう思われますでしょうか?

湊川合戦には、当然ながら赤松軍団も足利方として参戦しております。
ならば、楠木正成公と赤松円心公&三人の息子達は本気で白刃を直接交えた事があるのでしょうか???。
ここら辺が気になりまする。

赤松軍と楠木軍が、直接対戦する機会は湊川合戦の前の足利尊氏が九州へ落ちる前の豊島河原・打出浜合戦の時もあったと思います。
円心公と正成公亡き後、息子達は白刃を交えておりますが・・・。

皆さん、ご存知の情報(諸説の一つでも)が有りましたら教えて下さいねわーい(嬉しい顔)

ほんとは、神戸市内にも円心公の足跡はたくさんあるはずなのに史跡として判明しませんあせあせ摩耶山城も、天上寺という話と現神戸大学キャンパス(経済学部などある)説もあり、まだ分かるのは寄せ手の六波羅の布陣跡くらいです。
残念過ぎます涙
カメラ備前国 三石城

大塔宮護良親王の元で活躍していた則村公三男則祐さんと同族 小寺相模守頼季さんが播磨に宮の令旨を携えて帰国。
奮戦する楠木氏など宮方と六波羅軍の様子をつぶさに聴き
ついに、元弘三年(1333)一月二十一日
赤松則村公が、一族の浮沈を賭けて苔縄にて挙兵射手座
山陽道と山陰道を塞ぐ為に山野里と梨子ヶ原に布陣。
六波羅は、備前守護加地氏に討伐を要請し次男の貞範さんらが撃退し追討軍を捕縛。その中の伊藤惟群が則村公らの捕虜の処遇に感激し(情勢を諭されたのでしょうか)赤松軍に味方し早速に自身の居館の裏山(三石)に城を構え六波羅から追討要請を受けた西国軍をここ三石城で食い止める為に奮戦し守ります。

そのお蔭で、早く摂津国の摩耶山まで進軍できましたねわーい(嬉しい顔)
この三石城は、赤松が建武政権で冷遇され足利方に味方して宮方の新田義貞を大将に攻め寄せる大軍を白旗城と共に守り抜き九州で再挙した足利方の勝利に大貢献します。

ただ、この城は赤松惣領五代目 義村さんの時に円心公以来から赤松家重臣であった浦上の総家である村宗が故赤松四代目政則さんの後妻の洞松院と手を握り惣領の義村さんを軽んじます。
それにこれには、将軍家の跡目争いも大いに絡んでおりその下の管領家細川氏の同族の派遣争いも絡んで赤松軍団内にも大きな亀裂が生じてしまい
義村さんは惣領の力を回復させる為に小寺則職さんを主力に攻めるも味方側に裏切り者が出て敗走・・・。小寺則職さんは討たれました。
結果、義村さんは浦上村宗と和睦したはずが騙されました。
大永元年(1521)9月16日夜
室津城下 実佐寺で幽閉され刺客 花房・菅野・岩井弥六らに急襲され岩井の片腕を切り落とすも討たれてしまいました。
赤松氏の歴史に良くも悪くも大きな岐路となるお城でもある気がします。

この花房とは、後に宇喜多秀家を裏切った花房助兵衛の系かな?がまん顔
カメラもう一つの交通の要衝 杉坂峠です

ここは、備前の児島高徳が船坂峠で隠岐に流される後醍醐天皇を奪回すべく待ち構えるもなかなか来ないので斥候を放つと後醍醐帝を連れた行列は山陽道ではなく山陰道に向かったと知りここ杉坂峠まで到着するもすでに院の庄の構居に入ったと知り単身で院の庄へ向かい「天莫空勾践時非無范蠡」の名場面に繋がります。・・・・がウッシッシ

ここは、上記の話の後でしょうか???
則村公が関を構え人の往来を監視した場所でもあります。
誰が、居たのでしょうか・・・?
根拠地播磨を守る重要な防御陣地の一つでもあったんでしょうかウッシッシ

こりゃこりゃ、上月町さんよ・・・。
看板立てるのは有難いけど児島高徳より、郷土の英傑を先に大きく書けよダッシュ(走り出す様)
世間に媚びるててどうするよ・・・って思いましたねがまん顔
カメラ 伝 佐用三郎兵庫介範家の墓

ようやく見つけましたウッシッシ
中国道佐用インタ−を下りて国道を少し南下すると「重要文化財 宝篋印塔」の小さな看板がありました。そこを入っていくとすぐでした。

私は、「もし・・・」の話はしたくないの方なのですが
この方のあの久我畷合戦での、一矢射手座が六波羅の援軍として鎌倉から来ていた足利尊氏じゃないもう一方の北条一門の敵総大将である名越遠江守高家を射抜いてなければ歴史は大きく変わっていたかもしれないと思うんでするんるん

後に、北条幕府が倒れた後で足利尊氏と新田義貞による後醍醐帝と朝廷宛ての書面でのお互いの中傷合戦において新田義貞はこの件に触れています。
「もし、名越勢が赤松勢を駆逐していたら足利勢は後醍醐帝に本当に味方して戦っただろうか??」という点です。
確かに、鎌倉北条幕府追討の綸旨は持っていたものの大勢の名越勢が健在なれば
駆逐された赤松以外の勢力は頼りない千種勢のみで蹴散らされるは必定だったでしょう。足利尊氏は名越高家と刃を交えたでしょうか???疑問ですね。
それどころか、ここで負けていたら都付近の敵は無くなり千早城も陥落した可能性も高かったかもですね。

大きな時代の流れを、換える一矢だったという意味では佐用三郎兵庫介範家さんは那須与一より私は凄いと思いますねウッシッシムード
正平二年(1347)8月14日

楠木正成の息子 正行と正時兄弟が挙兵し度々、揺さぶりをかけてきたのでこれを追討するために派遣されたのが細川顕氏を大将とする追討軍。
これに、赤松範資さんと貞範さん兄弟も従っていました。

藤井寺合戦細川顕氏率いる軍は3000余騎なので楠木軍700余騎を小勢と侮り、決戦は後日と思い武装を解き油断していたところを楠木軍が急襲します。
不意を衝かれ、大勢でありながら総崩れする足利方にありながら赤松軍300余騎のみ何度も踏み止まり取って返し、楠木軍の追撃を諦めさせました。
この戦にも、粟生田氏など多くの犠牲を出してしまいます。

それから約3ヵ月後に、先日の恥を雪がんと細川顕氏に山名時氏を添えて二人の大将が大軍を引き連れて出陣exclamation ×2

11月26日 住吉合戦  早暁開戦射手座

足利方は、兵を4つに分けて大手軍大将の山名時氏は住吉大社付近に陣取り
土岐・佐々木・明智氏が阿倍野に布陣し赤松貞範は住吉の南方(海側)に布陣。搦手の大将 細川顕氏は天王寺に布陣。
楠木軍は、軍を一つに纏めて先鋒が山名方とぶつかり山名軍は大将時氏まで多くの傷を負う始末で一族のものも多く討たれ敗走ダッシュ(走り出す様)
細川方も汚名を雪ぐどころか、ろくに戦わず潰走しました。
この時の、赤松軍の奮闘は太平記には特別に明記はされて無い様ですがやはり藤井寺の時と同じく命より名を惜しむ戦いをした事でしょう。
多くの戦死者を出した貞範さんは、戦死者の遺骨を一箇所に集め葬り供養されたそうでそこが「播磨塚」と呼ばれたそうです。

大阪市内の阿倍野の伝 北畠顕家の墓がある公園のすぐ南の住宅街の一角にひっそりとあります。今の場所は土地整備による移設で、もともと塚のあった位置では無いそうで小野小町?の小町を奉る?「小町塚」と共に置かれてましたあせあせ
指揮権が、細川顕氏や山名時氏でなければここまでの惨敗になったのでしょうか・・あせあせ(飛び散る汗)
こういう犠牲者の働きのお蔭で、着実に信頼を得て足利政権内で清和源氏系でもない赤松氏の重用に繋がっていったんでしょうねわーい(嬉しい顔)
野瀬城址
野瀬一族の城址だそうです。

県道三木三田線の神戸市北区淡河町野瀬の好徳小前交差点の西側の様です。
地元の、おばさんに尋ねましたら地名に城址らしきものが残るのみだそうです。
何もありません・・・遺構も石碑も看板も・・・・・がく〜(落胆した顔)
したがって、兵庫県下の史跡めぐりには有難い兵庫県立考古博物館のHPで場所を調べて行ってきました。

野瀬源藤治満兼さん

この名前は、一番大好きな赤松氏史研究家の藤本哲さんの著書で読んでから凄く気になってました。
赤松円心公が苔縄で挙兵して船坂峠で六波羅の援軍を破り同族の高田兵庫介を討ちながら挙兵より20日余りで摩耶山城に篭り六波羅軍を迎え撃つ射手座
西播磨から摂津までの道沿いの武将達は皆、赤松円心の軍勢に呼応し味方に付いたわけではなく鎌倉幕府の元では赤松家より位が上級であった者達の中には足利尊氏が丹波篠村八幡宮での挙兵に呼応した者も見えます。
赤松の目立った邪魔は、しなかったのかも知れませんが六波羅軍を迎え撃つには天然の要害である地形だけでなくある程度の整備は当然必要だったでしょうね。藤本哲さんの著書ではこの現 神戸市北区淡河町野瀬に居住していたらしい野瀬一族の協力がみえるらしいのです。
野瀬源藤治満兼さんは、叡山では権律師則祐さんの学友であり小寺相模守頼季さんとも、もちろん知り合いだったでしょう。
そして大塔宮護良親王に謹仕してられたらしいのです。
残念ながら、藤本哲さんのこの事象の参考文献は分からないのですががく〜(落胆した顔)あせあせ(飛び散る汗)
後醍醐帝は、隠岐島へ流されていた時に大塔宮護良親王による倒幕の志は楠木正成さんだけでなく宮の側近衆にも伝わっていたはずで宮の令旨を携えて父 円心公の元へ帰る則祐さん・小寺頼季さんと別れ野瀬さんも一族の元へ帰り来るべき決起の際の下準備を一族を挙げてされていたのかも知れませんねわーい(嬉しい顔)
赤松軍の電撃戦を支えた影の功労者のお一人だったのかもですぴかぴか(新しい)

後に野瀬一族も、赤松家評定衆になられたとかウッシッシ
今は、何も無いけどあの「太平記」にある摩耶山合戦の項の影の功労者らしき人がここの人だったのかなと思うと今までと違って見えましたねムード

さてあせあせ(飛び散る汗)  風景写真で申し訳ありません冷や汗
ですが、県立考古博物館HPで示す城址の場所と地元のおばさんにお聞きした城の伝承を残す地方向を撮影しました。
腕がないので何が撮りたかったのか意味不明みたいですがお許し下さい。
右の写真は、城址に接する位置にあるお寺 曹洞禅宗 泰蔵寺です。
WEB上で探しても歴史は分かりませんでした。
めちゃくしゃ古刹の岩嶺山 石峯寺の参道口にあるのですがお堂の横の樹下に宝篋印塔が見えました。  という事は、お墓にせよ供養塔にせよ高貴なお人ではるんるん・・・と思い覗いたらニ引両の紋が見えましたがお聞きする事は出来ず仕切り口の両脇には謎の御札が・・・・・げっそり
視力が落ちてて文字は読めず帰ってきましたあせあせ(飛び散る汗)
赤松軍団が、日本の歴史上の表舞台に立つきっかけになった人物 大塔宮護良親王ぴかぴか(新しい)
先日、その大塔宮の足跡を少し尋ねてきました。
この宮様が、活躍していただいたお蔭で一気に歴史の表舞台に乗る事になったのは間違いなくいろいろあったものの赤松軍団の恩人というところでしょうるんるん

大塔宮護良親王の「足跡」という事は「太平記」を読むに二度目の後醍醐天皇の倒幕計画露見による比叡山延暦寺に偽の帝を僧兵達に帝と偽り、幕府軍を迎え討った戦いから、妙光房の小相模として、赤松帥(権?)律師則祐さんは、帥律師妙善と称して比叡山に既に入っていて、赤松則祐さんと小寺相模守頼季さんはこの時点ですでに大塔宮の近習中の近習という位置の様ですわーい(嬉しい顔)
この比叡山での合戦から、赤松族は歴史の表舞台に躍り出る為に命を懸けて「討って出る時」が始まったのかもしれませんねウッシッシ

カメラは、大塔宮が、一時少し滞在された十津川郷の現 大塔村に立つ大塔宮護良親王像です。
この十津川郷へは則祐さんも小相模さんも宮と入られております。

それにしても。銅像といえば、南朝方ばかり立ち北朝側はあるのでしょうか?
円心公と範資さん・貞範さん・則祐さん・氏範さん・氏康さんの銅像が上郡町に立たないかなぁ・・・あせあせ
カメラ左 大塔宮史跡 戸野兵衛館内 石碑
   カメラ中 戸野兵衛館と菩提寺西教寺
(奥の赤い屋根が西教寺で隣の黒い屋根が戸野氏居館だそうです。戸野兵衛の墓もあります。竹原八郎の墓はもう少し国道を南下した所ですね) 


「太平記」によると、二度目の後醍醐帝の倒幕計画露見で鎌倉からの大軍の備える為に比叡山延暦寺へ偽の帝(尹大納言師賢)を臨幸させ叡山の衆徒を見方に付け大塔宮護良親王は、鎌倉の大軍と戦いますが兵力の少ない官軍は士気と地形により鎌倉軍に善戦しますが偽の帝の正体がバレた時に多くの僧兵が去り大塔宮と妙法院(宗良親王)の元には帥律師妙善(赤松則祐さん)と妙光房の小相模(小寺相模守頼季さん)と光林坊源存律師と中坊悪大輔など少数だった様ですね。

この後、諸説あり、大塔宮一行はどういう経路を進まれたのか分かり難いのですが笠置が落城した際には、大塔宮は名前が出てこないので合戦が始まる前に笠置を出て南方・・熊野方面に勤皇の志士を募るために奈良の般若寺での危機一髪の事態(大般若経の入った三櫃の話)をかろうじて無事に脱出し山伏の姿に変装して先へ進まれてます。この時点でも赤松帥律師則祐・光林坊源存・木(小)寺相模・村上左馬助義光・子息蔵人義隆・矢田三郎義重・河野彦五郎・舎弟孫三郎・平賀三郎・片岡八郎・武田彦七など11名ほどが近侍してる様ですね。
道中で大塔宮が夢で見た、童子の薦めで「この辺りはまだまだ人心不和で・・」
と十津川方面に入る事を薦められ険しい山道を進まれ13日目に十津川に一行は到着され、この土地の郷士 戸野兵衛に出会い味方につけます。
大塔宮一行は、この戸野氏の館(カメラ中)にしばし世話になり戸野兵衛の叔父の竹原八郎入道宅(御所を建てたとか)へ移られおよそ半年ほど滞在された様ですね。
まぁ、笠置が落ち後醍醐帝が囚われ楠木の下赤坂城も落ち備後で挙兵した桜山入道の軍も兵が続々落ちゆき崩壊し一族自刃され鎌倉幕府方の残る危険人物は大塔宮護良親王くらいゆえに追及厳しくなっていたので当然でしょうけど・・・冷や汗
ここに、大塔宮一行がいる事が幕府側の熊野別当定遍に知られ賞金にて郷民に大塔宮を裏切らせ様として竹原八郎の息子弥五郎が父に背き大塔宮を討つ企て有りと広まり密かに大塔宮一行は高野山の方へ向かったそうですが・・・。

まぁ、ここは凄いですあせあせ(飛び散る汗)
今でこそ、国道168号線が貫いていますが当時は、あんな道は無いでしょうあせあせ(飛び散る汗)
今でも、狭い箇所が多いし・・・あせあせ(飛び散る汗)
ましてや、大塔宮一行は人目を忍び落ち行く途中ゆえに幾つものこの山々を乗り越えられたんだろうな・・・としみじみ思いましたね冷や汗
カメラ右は、戸野兵衛館跡から見た十津川の景色です。山の合間に十津川が流れており微かに国道168号線が見えています。
今ではここへは、つづら折れの舗装路があり車で上がれますが傾斜はけっこうキツイです。私は国道沿いから歩いて登るのは止めましたあせあせ
グッド(上向き矢印)は、【太平記】巻第五 
「大塔宮南都御隠居後十津川御栖ひの事」の場所ですわーい(嬉しい顔)
【太平記】巻七
「出羽入道(二階堂)道蘊芳野を攻むる事」の場所である吉野 金峯山寺です。
十津川から高野山に向かった大塔宮一行が、途中で芋瀬庄司を頼むも幕府方熊野別当定遍の手が回っており、ただ後の罪科を恐れ、すんなり通す訳にもいかず一行から名の知れた人物を差し出すか紋章入りの旗をよこせとの要請に赤松則祐さんが命を投げ出そうとする危機もあったがなんとか切り抜け、途中で一行の中の片岡八郎が討死するもなんとか吉野へ到達し金峯山寺衆徒を味方に付け篭ります。
正慶二年(1332)正月下旬
出羽入道(二階堂)道蘊が60,000余騎の軍勢を率いて大塔宮護良親王が篭る吉野に押し寄せ開戦射手座
地理に明るく士気が高いので寡兵でも、大塔宮率いる官軍は善戦するも同じく吉野の地理に明るい幕府方の吉野執行岩菊丸による思わぬ方向からの奇襲を受け一気に事態が悪くなり最期にと大塔宮と二〇余名の武者により斬り込みをかけた後
カメラ中・左)本陣の天幕の中で今生の別れの杯を交わす最期の酒宴場面ぴかぴか(新しい)
まさに、ここで・・・ぴかぴか(新しい)と思うと感動でした。
あの、小寺相模守頼季さんの名場面
四尺三寸の太刀の先に、敵の首を刺し貫いて

「戈鋌剣戟を降らす事は、春の雨に異ならず。
盤石の巌を飛ばす事は、冬の雪に相同じ。
然りいへども、天帝釈の身に近付かで、修羅被が為に破らる」 

一時が程舞われたという場所です。
この、最期の酒宴の最中に同じく宮の側近の村上彦四郎義光が瀕死の状態で現れ
大塔宮を諌め自身が大塔宮の甲冑を着用して鎌倉からの大軍を前に宮を騙り壮絶な割腹を遂げて宮の窮地を救った場所が蔵王堂の仁王門(カメラ右)のあたりだったと伝わるそうです。

村上彦四郎義光んも子息の兵衛蔵人義隆も、父同様に宮を逃す為に蔵王堂からそう離れていない場所で追手の兵と戦い、今はこれまでと自刃され墓があるようですがこの日はちょっと断念しました冷や汗

ここを落ちて、大塔宮は高野山へ向かわれたそうでひょっとすると高野山赤松院にて赤松則村(円心)公と対面されたのかもしれませんね。
大塔宮の令旨を持ち帰った則祐さんの話は【太平記】巻六。
太平記がもし、そこそこ時系列に沿って話が進んでいるなら高野山赤松院にて挙兵の打ち合わせをして、太山寺など播磨の寺社勢に発した令旨にて月日を指定し軍勢を率いて赤松城へ馳せ参じる様記す文面になったのか・・・ぴかぴか(新しい)
思いを馳せるだけで面白いですね。
賀名生行宮址です。

ここは、1336年に足利尊氏の請いを受け入れられ叡山を降りられた後醍醐天皇が結局は花山院に軟禁されるも吉野に脱出を計られた際にまずこの地の堀家に身を寄せられ堀家住宅(カメラ左)を皇居としてしばし滞在された所で後に続く南帝流の後村上天皇(1348)〜長慶天皇(1373)〜後亀山天皇(1392)と三代もここの行宮(カメラ中)に入られたそうで南朝の柱石であった、北畠親房もこの地で亡くなられたと伝わるそうです(カメラ右)。郷土資料館には、「日の丸の旗」や「駅鈴」後醍醐帝から下賜された品や楠木正行の陣鐘もありました。

またここは、後村上天皇の時に赤松家が歴史の表舞台に立つキッカケとなった大塔宮護良親王の皇子である興良親王(赤松宮)が南朝の征夷大将軍として南朝方の兵を率いて北朝方と戦う為に円心公四男である氏範さんなどを連れ出陣されるも途中、興良親王が矛を賀名生の行宮に向け多くの建物を焼き払った様ですが
もともと、率いているほとんどの兵は南朝の兵・・・。
ゆえに、異変を感じた兵が続々と陣中を抜けこの反乱は僅かな日数で二条師基率いる南朝方の反撃に遭い興良親王が危うきところを赤松氏範さん率いる20騎ほどが懸命に戦い無事に興良親王を逃した後で降伏し南朝方に許された後、播磨へ帰ってきたそうです。興良親王はこの後、記録書類などから姿をほとんど消されてる様ですね。
氏範さんの最期は、播州清水寺での同属で惣領家を継いだ義則さん率いる部隊との交戦にまで及び一族郎党が自刃されて亡くなられていますね。
でもその血脈は、薩摩に渡り薩摩赤松として残ったっていうのもありますね。

ところで、円心公にはもう一人の子供五男 氏康さんがいたというのもたまに見ますが行動を氏範さんと共にしているのもみましたがここにも氏範さんと来られていたかもしれませんねウッシッシ
NO50の続きですねあせあせ

【湊川合戦】(延元一年・建武三年)1336年5月25日早朝
後醍醐帝方は、総勢28,000余騎射手座
大将新田義貞率いる部隊が和田岬で弟の脇屋義助が経ヶ島に、大舘氏明が灯炉堂に布陣と伝わり現兵庫区・長田区辺りに布陣していた様ですね。
楠木正成は、流石というか神戸市内をほぼ見渡せる絵下山(カメラ左)に布陣。
源平合戦の北の木戸口より東南になりますね。

足利尊氏方は海上軍を足利尊氏が率いて細川定禅など九州・四国勢などで
構成し浜の手軍(ほぼ国道2号線沿いでしょうかね・・)は九州の少弐頼尚が率いた九州勢。
山の手軍は斯波(足利族)高経率い鵯越・鹿松岡に布陣。
そして、大手軍を足利直義が率いて高師泰の手勢と赤松軍団と連携した播磨・備前・美作の軍勢がこれに続いたそうです。
総勢500,000余騎などと「太平記」は書いてますがそれはないでしょうあせあせ40,000〜50,000余騎ってとこじゃないのでしょうか・・exclamation & question
カメラ中は、開戦のキッカケとなった新田義貞方の武将である本間孫四郎重氏が那須与一がごとく、海上に見える一羽の鳥(ミサゴ)が魚をつかみ取り飛び去ろうとした時に鏑矢にて射落として落ちた場所が尊氏の御座船だったそうです。
本間孫四郎重氏は大音声にて「将軍、九州よりのご上洛ならば鞆や尾道の傾城(遊女)を大勢お連れでしょう。女達を喜ばせる為、珍しき肴を進ぜましょう」
と言い更にもう一度、遠矢を射て御座船の武士の腿を射抜き矢に掘った自身の名前を刻んでいたそうで、これから合戦が始まるので矢を返して欲しいと足利方を挑発したので足利方の強弓の名手佐々木顕信が射るはずだったのに讃岐勢から先に射た者が居てその矢はぜんぜん新田方の居る浜へ届かなかったそうで敵味方から嘲笑を浴びた讃岐勢200余騎が、脇屋義助の布陣する経ヶ島へ上陸し恥を雪ぐため、突撃したのが始まりの様でこの本間が矢を放った地がこの辺り(和田岬小学校)だったそうですね。すぐ近くに遠矢浜って地名があるけど名残だったそうですねあせあせ
結果、この讃岐勢は全滅したそうで細川定禅は全滅した先の讃岐勢を見殺しにした事に立腹しつつもこれより、海上軍は新田軍を包み討ちにすると見せ陽動作戦を取り新田勢と楠木勢を分断し孤立した楠木勢は陸上大手軍の足利直義に真っ向から突っ込んできますが、直義軍の先陣が赤松軍射手座だった様で正面からの突撃に真ん中を抜かれ二陣の細川や三陣の島津勢も崩れかかった・・と言われています。
赤松の強さは、野伏りと足軽の戦い・・と称された軍団。
そしてもうひとつの特徴が弓を持つ兵の多さ。
騎馬武者は、馬を射よ。さすれば的は大きく落ちた武者は容易く討てる。
という合理的な戦法って気もします。
懸命に戦ったのか疑問も少し感じます。
直義は、須磨寺まで逃れ(自身の進軍ル−トを逃げたのか?)薬師寺十郎次郎の奮戦で無事だったと伝わります。
昔は、ただ流石・・楠公さんやわーい(嬉しい顔)っと思ってました。で、死兵に対し勝てる戦で命を落とすのが嫌だから簡単に崩れたのだろうか・・など思ってましたがいくら死兵とはいえ、甲冑着てそんな数時間戦い続けられるでしょうか・・・。
なんか、尊氏から「できれば楠木は生け捕りにせよ」とかまだ、楠木正成という人物を諦めきれない部分があったのかなぁ・・とも想像してしまいます。
「新田を誅して、尊氏と和睦を・・」と後醍醐帝に奏上したとも伝わる楠公ですので和平の道をお互いに探っていたのかもと思ってしまいますが・・冷や汗
新田勢も生田の森で奮戦するも徐々に崩れ後退したら伊予河野勢などが取って返し楠木軍攻めに加わり足利方は追い詰め楠公と一族郎党と菊池武吉などが自刃するまで待ち追い詰めて討ち取る事をしてなさそうです。

足利尊氏・直義は、平 清盛公が魚供養の為に建立した「魚御堂」の陣にて
楠公の首実検をしたそうです。先日、魚御堂があったと伝わる兵庫区切戸町に行きましたが「兵庫城址」の看板はあったけど「魚御堂」は無かったですねあせあせ(飛び散る汗)
しかし、兵庫区の図書館の資料には載ってましたのでウッシッシ
カメラ右は、その楠公の首実検の際に楠公の御首が置かれた台石として伝わっているそうです。
この魚御堂の首実検の場に赤松則村公も列席していたのだろうか・・・。

赤松と楠木・・・この後も歴史の表舞台で交錯しますがどちらも、かなり他家と違い激しい家みたいなので面白いし魅力をたっぷり感じませんかウッシッシムード
カメラは、京都市内にある一乗寺下がり松です。

「太平記 巻第十五」

「二十七日京合戦の事」

建武三(一三三六)年正月に、奥州より北畠顕家が奥州の大軍を引き連れついに近江に襲来し在畿内の官軍と合流し三井寺に篭る足利方の細川卿律師定禅・細川刑部大輔頼春・細川陸奥守顕氏や高大和守などとの間で開戦射手座
多勢による、奇襲攻撃を受け京へ敗走しその兵に紛れて官軍の軍勢も京へ笠印を取り旗を巻き足利方に偽装し、時を計って一斉に旗を立て鯨波を上げたものだから足利方は、敵味方の区別がつかず丹波や攝津方面にろくに戦わず敗走。
兵の総数では足利方有利なのに奇襲に完敗した形になりました。
この時、赤松筑前守貞範さんの小隊はこの一乗寺下がり松に陣取っており完全に敵中に取り残されほとんど必死の状況になったのですがこの敗戦のそもそもの原因は三井寺合戦での自軍の敗走から始まったものゆえ口惜しい細川卿律師定禅は
足利尊氏にも知らせず四国勢で構成した300余騎の小隊にて赤松筑前守貞範さん勢と合流して反撃に転じ北白川や粟田口辺りで新田方の船田義昌・大舘左近蔵人・由良三郎左衛門・高田七朗左衛門以下数百を討ち取り官軍を近江に押し返したという話の舞台である赤松筑前守貞範さんの陣地跡ですね。

ここには二つ石碑がありました。
一つは、一月二十七日にはこの地に楠木正成・名和長年・結城親光勢3000余騎がこの地に陣取り北畠顕家卿は山科に陣取り洞院左衛門督は西坂本口に陣取り叡山の僧兵は鹿ケ谷に陣取り新田勢は関山という所に陣取って総勢103、000余騎が足利方に奇襲をかけまたろくに戦わず丹波・攝津方面に敗走しておりますね。

で、もう一つの石碑についてはこちらも、赤松家縁の地になるのでしょうかexclamation & question
吉川英治さんの小説のデキが良すぎて事の真贋は不明なれどこの地は
二刀流の剣豪 宮本武蔵が京の名門道場だった吉岡一門との決闘があったとされる場所ですね。

宮本武蔵の養子の伊織が言う説では伊織の実家である田原家は赤松筑前守貞範さんの末流ぴかぴか(新しい)だそうです。
伊織説が真実ならば奇しくも、この一乗寺下がり松は祖先である赤松筑前守貞範さんも大いに武勇を振るった地で、子孫の宮本武蔵も大勢相手に決闘したとは何かの因縁なのでしょうかねウッシッシムード
播州 御嶽山 清水寺  カメラ左 山門

赤松則村公の四男 赤松弾正小弼氏範さんとその子供である嫡子孫次郎氏春さんと次男の孫三郎家則さんと三男孫四郎祐春さんとその他一族郎党など総数137名が弘和三年(1383)
九月二日に自害して果てたと伝わる地ですね。

たまに、資料本の中には先の摂津中島の戦いで討ち死にされた…というのも見た事がありますが清水寺合戦後に赤松家惣領の義則さんがこの清水寺に土地を寄進して叔父や従兄弟達の永代追善供養を頼んでいるのでここでの最期が史実なんだろうなと思いますね。

兄達、範資さん・貞範さん・則祐さんとは歳も離れていて元徳二年(1330)に赤松村で生まれたとされる氏範さん。翌年に元弘の変(1331)が起こりますゆえにこの頃、大きく動き始めた時代のうねりに父も兄達も躍動し始めた頃。
新しく生まれた赤松家の四男の誕生をゆっくりと家族で団欒などできる状況ではなく
その後も続く時代の混迷で最前線にて命がけで働く父も兄達にも長く氏範さんと出会えなかったんじゃないのかなぁ…と思いますね。
氏範という名前から、足利尊氏将軍の名前の一字を拝領し付けられたものであろうものの父や兄達が北朝方で活動する中、彼は太平記に登場する頃からこの地で自刃するまで南朝の為に尽くしておられますね。
また、父の則村公亡き後、長男の範資さん亡き後の惣領の則祐さんも数度、敵対して自分を困らせても氏範さんを殺さなかった。京都から将軍義詮を追い払った戦に活躍した氏範さんだがそれを奪回するに尽力したのが則祐さん。
同族同士の戦いとはいえ、どちらかが「討つ」までは至らなかったのは「情」でしょうか?和を請われては許し共に赤松領に侵攻してきた山名家を追い払ったりと力を合わせれば両者共に無双の兄弟ゆえ赤松家とそれを支えた家の人達からすれば頼もしい限りだったでしょうね。
また、二人は失敗したものの南北両朝の統一の話を進めていたというのも読んだ事あります。

すでに世は、北朝方の断然有利の中、兄の赤松惣領家の則祐さんが京の赤松邸で応安四年(1371)11月29日に死去 行年六十一歳だった様ですね。時の関白 近衛道嗣は日記に
則祐さんの功績を称えその死を悼み惜しむ内容を書き記しておりますね。

そして、弘和三年(1383)氏範さんは再度の南朝方としての挙兵をします。
摂津中島での挙兵は義則さんが侍所頭人在任中だったらしく職務遂行の為に私情を捨て強攻にてこれを平定。

そして氏範さんとその一族の最期の挙兵に至ります。
御嶽山 清水寺を城砦として篭り丹波街道に関を造り西国からの物資輸送を妨げる策を取り北朝方に反抗射手座
これをすぐに追討しようと北朝方は山名氏清を大将に1500余騎を出陣させ駆逐させようとしましたが散々に氏範さんに蹴散らされて、慌てて第二陣として細川頼元を大将に阿波勢など2000余騎を派遣し氏範さん一族が篭る清水山城を攻めるもこれも大敗し三草山に敗走。
この敗走軍に赤松義則さん率いる赤松軍が、同族の氏範さん追討についに加勢する事となり先に敗走していた細川勢(山名勢も含む説もあり)と共に弘和三年(1383)九月二日に決戦が始まり清水山城に追討軍が攻め上がり、多勢に無勢・・・終に氏範さん勢は刀折れ矢も尽き氏範さんは一族郎党と共に自刃されます。
清水寺境内の薬師堂と地蔵堂の間くらいに「赤松氏範切腹石」という石が木の策で囲まれてありますがその辺りで一族郎党が自刃されたのでしょうね。
また、覚悟の挙兵だった氏範さんですが幼い子供達(乙若丸・松寿丸)は事前に落ちさせて薩摩に逃れたと伝わってますので氏範さんの血統も絶えたわけではない様です。

この戦いでも、先に「赤松の火術」について書いてあった本の記述を紹介しましたがその本とは別にこの清水寺での合戦で氏範さん勢が火薬を紙で包んだ投げ玉を敵陣に投げ込んだという記述が有りましたので「赤松の火術」は本当に存在した可能性高いのかもですね。

則村公の四男と伝わりますが父や兄達に負けず劣らずの智勇兼備の武将 赤松弾正少弼氏範さん。 一説には、父である則村公が「万が一に」家を守るために南朝方に弾正少弼氏範を仕えさせたという説も見ましたが・・・真実は分かりませんが・・・いずれにせよ楠木正成が三男の正儀さんもいろんな理由があったにせよ一時は北朝に降り南朝方と合戦に及んだ事もあるのに終始南朝方として奮戦した「太平記」に見る氏範さんの剛勇の姿は紛れもなくホンモノですねぴかぴか(新しい)

赤松弾正少弼氏範 お墓(カメラ右)は地図(どのくらいの期間有効なURLか不明ですが)を参考に機会があればお訪ねされてはいかがでしょうか走る人
目印は自動車登山道を登りきった所にある石碑(カメラ中)が目印で参道入り口です。

http://yahoo.jp/PjjVs4
金谷首塚様

ここは、新田義貞が足利尊氏追討軍の総大将として進撃してきた際に赤松勢が白旗城・三石城をメインに支城郡をもってこれ以上の西進を食い止めるべく防衛戦におよんだ際の三石城の支城の一つであった馬転山城が落とされ金剛川原にて新田義貞による首実検の儀式が行われ褒賞が定められてこの地にその馬転山城の守兵の首が埋葬されたところを地元の方が憐れんで厚く弔ったそうで今では首から上の病気に霊験あらたかな信仰を集めている様です。
落城前には城下の家屋や寺が新田方に焼き払われたそうで、その後に寡兵で怒涛の大軍を迎え散っていかれたのでしょうね。

この後、新田勢は三石城攻略に係りますが結局は落とせず足利方の反抗の前に撤退をしていきましたね。
TVMBS放送の「昔の人は偉かった」のコ−ナ−で知りましたが河田アナの説明とはちょっと違うので首は赤松(足利)方の方達には双方違いないのですが伝承は少し違いがありましたねあせあせ

※ 地図の矢印 赤1は無視してください。 縮尺を大きくしていただき青の矢印の市が金谷首塚様です。
http://yahoo.jp/rGeEKx
こんにちは、秀吉の播磨入り当時の赤松範実(太田城主)という人物がわからないのですが、この人はこの時期に赤松を名乗っているということは本家筋の人物なのでしょうか?
姫路青山銘菓桜小径 さん

赤松範実という人物は、天正三年九月九日姫路の西の青山辺りで龍野の赤松氏と合戦に及んでいますね射手座
赤松家菩提寺の法雲寺蔵の「赤松大系図」と「播州諸城交替連綿之記」からは
赤松彦五郎範実という方は置塩城主で赤松惣領家の則房さんの「弟」となってますね。

赤松(長男範資系)vs赤松(三男則祐系)という事態はもう天正三年前後の当時の播磨国内での混迷騒乱の状況が如実に現れてますねあせあせ(飛び散る汗)
龍野赤松・三木別所系・小寺系・浦上(宇喜多)・本家赤松・北播宇野家系が乱世を生き残る為、絡んで赤松の旧領地内で主役争い中に織田軍が来たのであの強大な山名家との争いに一致団結して撃退した再現もできずまともな体制で播磨国人達は臨めず脆くも敗れ去りましたねげっそり
ただ、秀吉の播磨入部により但州竹田に移るとあるので最後の竹田城主であった龍野赤松家の広英さんと一緒に動いたんでしょうか???この辺はなかなか資料が書かれてる本に出会えてないので分かりませんねあせあせ(飛び散る汗)
>>[66]

ご教示ありがとうございました。

赤松さんは数が多い分派や分家同士でも合戦に及んでるので余計にすっと頭に入ってこないですね。龍野と太田で戦争してるとか、太田にいつの間にか本家筋が入城してるとか。。。。

一族間での養子、婚姻も多すぎて一族が散漫に成りすぎているのでしょうか。

1575年の青山合戦では広英さんと小寺と組んで、範実さんと合戦してるわけですよね?

その前の1569年青山合戦では広英さんと、小寺が合戦していて、その時、太田城はどうしてたんだろうという疑問が。。。。
摩耶ケーブルの虹の駅は、赤松円心公が挙兵後、京六波羅を目指し進撃した際に最初に六波羅の幕府軍との交戦の際に篭られた摩耶山城の一部だったという資料がありました。そして昭和初期に残念ながら消失した旧 摩耶山天上寺も城の一部という事です。
まだ、その遺構を探しに行く機会がなかなかありませんが少し用事がありましてその虹の駅からロープウエイで更に上がる終点「掬星台」駅近くに行きました際に撮影しました。
旧 摩耶山天上寺はカメラ左の手前の山で眼下の神戸市街に当時、幕府六波羅勢が布陣したとされる八幡の森や求女塚も見下ろす事ができます。
掬星台から摩耶山三角点へ向かいそこから旧 天上寺の奥の院跡を過ぎ史跡公園(旧 摩耶山天上寺跡地)へ向かう道中に在りましたカメラ中。
説明板には大まかな内容が書いてありますカメラ右。
ここでTime up冷や汗
次の用事に間に合わぬ為にぜーぜー言いながら戻りました。
結果的に史跡公園(旧 摩耶山天上寺)と虹の駅には行けておりません。
が掬星台と史跡公園に向かう道の入り口に建つ史跡公園(旧 摩耶山天上寺)の説明板には摩耶山合戦に関わる史跡であるという記述が何処にもなくガッカリでしたバッド(下向き矢印)
皇国史観に囚われるのはもう古いぞ神戸市めがまん顔

いつか、遺構探しに再チャレンジですウッシッシ

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