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新古今和歌集私撰:百人の歌人コミュの寂然

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682尋ねきて道わけわぶる人もあらじ幾重も積もれ庭の白雪(冬歌)

「庭に雪が降り続いている。庵への道筋もすっかり雪に
覆われているだろう。こんなわたしを訪ねようと道を
探し迷う人もいるはずがない。雪よ、幾重にも深く積もるが
いい。」という歌であろう。

 寂然は新古今に14首、千載集に6首、「定家八代抄」に
13首が採られている。
寂然(じゃくねん、あるいは「じゃくぜん」か)は新古今の
歌人の中では、寂蓮と間違えられやすい。
寂蓮が華やかな歌で知られるのに比べ、寂然は人目を
引くことがない。
寂然は俗名藤原頼業、寂念、寂超と並んで大原三寂と
呼ばれた三兄弟の末弟とある。
おそらく当時は世間の注目を集めていた兄弟なのだろう。
すぐ上の兄である寂超は画人として著名な藤原隆信の
父だという。
支配層の中で嘱望されながら出家した西行のような
人物の一人だったのだろう。
実際、寂然は西行とほぼ同年代らしく、親交もあった。

 新古今ではないが、千載和歌集にある次の歌がこの人の
代表歌と言っていいと思う。

秋はきぬ年もなかばに過ぎぬとや
    荻吹く風のおどろかすらん(千載230)

古今集に有名な「秋きぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかぬる」という藤原敏行の歌を踏まえた
歌は数多いが、「年もなかばに過ぎぬとや」と秋の到来を
時間の中で捉えた歌人はいない。
寂然の歌は詩情を日常の暮らしの中から詠んでいる。
掲出の新古今の歌も、技術を気にせず、気持ちを前に
出した歌で、この人の日常の暮らしぶりが浮んでくる
ような歌である。
数少ないこの人の歌を辿っていくと、しかし、ここに
あげたような、詩情を日常の暮らしの中で詠んだ歌は
他に見当たらない。

 新古今では寂然の歌は「釈教歌」に多く採られている。
広い意味では思想詩ともいうべきジャンルだが、
実際は仏教の教えに沿った歌が集められている。

1951道のべの蛍ばかりをしるべにてひとりぞ出づる夕闇の空

1953吹く風に花橘やにほふらん昔覚ゆる今日の庭かな

1955今日過ぎぬ命もしかと驚ろかす入相の鐘の声ぞ悲しき

1960別れにしその面影の恋しきに夢にも見えよ山の端の月


寂然の歌は「釈教歌」の中でも良い作が目立つ。
リズム感のある上手な歌である。
いわば言葉と現実の感性とが地続きとなっている歌で
ある。
西行との関係の深い人だから新古今が編纂されるほぼ
同時代の人だが、従来の常識を壊すところで歌つくりを
強いられた新古今の歌人とは立ち位置が違うのだ。
(新古今の歌人たちは、先人たちの作り上げた歌の言葉が
すりきれ、きれぎれに記号となったり象徴的な意味しか
もたないところで歌を詠まなければいけなかった。)
意地悪を言えば、上手な歌だが、歌の姿が先行していると
いう気がする。
いずれも破綻のない整った姿の歌で、歌の核となる自分の
感性も見せながら、(掲出の歌を読んだ後では)その
感性をもう一歩出してほしいと、少し物足りなさを
覚えてしまう。
もっと歌を探せば、違う感想を持つかもしれない。

 寂然の歌でちょっと驚いた歌がある。

1963さらぬだにおもきがうへのさ夜衣
         わがつまならぬつまな重ねそ

1964花のもと露のなさけは程もあらじ
         酔(ゑ)ひなすすめそ春の山風

1963が不倫への戒め、1964が酒への戒めなのだという。
解説を読んで驚かされる。
釈教歌だからおかしくはないとは思いながら、
新古今の釈教歌の多くはもっと抽象的な歌ばかりで
このような趣旨の歌は見当たらない。
こういう歌は歌としての成立そのものが難しいが、
寂然の歌はその格調の高さと生来のリズムで歌としての
浮力を保っている。
これらの歌を支えているものを内面から見れば、
庶民と宗教上の教条との接点を探った歌である。
新古今の歌のなかで、庶民を心情として
意識した歌はとても少ない。
平安貴族にとってほとんど遠くにある景色の「模様」の
ような存在だ。
といっても、庶民の救済を意図した鎌倉仏教に見られる
思想的な深みのあるものではない。
また、例えば「一言放談集」や西行の「山家集」から
浮ぶ思想的な悩みなどは寂然の(新古今の)歌には
見られない。
これらの歌は、庶民的な心情を理解している歌ではなく、
あくまで寂然の善意の中での歌である。
想像で言えば、寂然はまじめで善意で誠実な人だった
のかという気がする。
その誠実さが掲出の歌のような日常の暮らしから
詩情を捉える感性を育んでいながら、(恐らく)
出家後の仏法へのまじめな帰依がその感性を否定し
削いでいったのではなかろうか。
1964、1965の歌は、歌人としての寂然はあくまで
仏法という枠の中に留まっていたのかと思わせる。

 寂然は西行と交際が深かった。
山家集には大原の里に庵を結んだ寂然との
間でやりとりのあった歌が十首づつ並ぶ
(1198−1217)。
他に、寂然の兄の葬儀に西行が弔問しなかった
ことを問う歌のやりとりがあり、興味深い
(834−842)。

「834待ちわびぬ 後れ先立つ あわれをも
 君ならでさは 誰かとふべき」と
内心の動揺を見せる寂然に対し、「838
分け入りて 蓬が露を こぼさじと
思ふも人を とふにあらずや」(蓬の露
のように涙を流すあなたに、これ以上、
涙を流させないようにとあえて訪ねない
のも弔問のこころではないでしょうか)」
と、結局、弔問しなかったらしい。
想像で言えば、この時を最後に寂然と西行の
付き合いは途絶えたのだろう。
仏門に帰依していった寂然と出家しながらも
歌人として生きた西行との別れだったのかも
しれない。

 その経歴をみると存命中の崇徳を讃岐の流刑地に
訪ねている(岩波:新日本古典文学大系「千載
和歌集」:人名索引)。
西行が訪ねるのは、崇徳の死後である。
崇徳と後白河との確執を思えば、狭い貴族社会に
あってたとえ出家していたとはいえ、危険を
冒した行為だったのではあるまいか。
そこに寂然のまじめで善意で誠実な人物という
歌からの印象と重なるものがある。



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