ウィーンフィルと若くして数多くの共演をして、その類希な才能で、世界を驚愕させたケルテス。特にドヴォルザークの「新世界より」「ブラームス全集」「シューベルト全集」は、それらの作品の概念をがらりと変える名演でした。これからと言う時にテル・アビブの危険水域で遊泳中に43歳の若さで溺死。惜しんでも余りあります。彼が生きていたら、クラシックの歴史は確実に変っていたという人は数知れません。そこで、このコミュでは自由に彼の偉業につてい語り合いましょう。
あわせて、15歳で、あのオイストラフを退けて、ヴィエニャフスキ国際コンクールで、優勝し歴史的なブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」を残しながらも、わずか30歳で、亡くなった女性天才ヴァイオリニスト、ジネット・ヌブーや、シノーポリ、カルロス・クライバーなど、その死を惜しんでもあまりある才能につても自由に語り合いましょう。
イシュトヴァン・ケルテス、ケルテース・イシュトヴァーン(Kertész István, Istvan Kertesz, 1929年8月28日 - 1973年4月16日)はハンガリー生まれの指揮者である。
同地のフェレンツ・リスト音楽院でゾルタン・コダーイ他に学んだ。1955年からブダペスト国立歌劇場の指揮者となる。1956年ハンガリー動乱の時に西側にジョルジュ・シフラと共に亡命した。その後アウグスブルグ国立歌劇場、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などを指揮し、1965年から1968年までロンドン交響楽団の首席指揮者を務めた。日本にも客演したことがあり、(旧)日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した1968年の演奏記録が残っている。将来が期待された中堅指揮者であったが、1973年夏、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団に客演した折、イスラエルのテル・アビブの海岸で遊泳中に高波にさらわれ溺死した。43歳没。ケルテスの最期はバス歌手岡村喬生著『ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ』に詳しい。なお、1973年よりバンベルク交響楽団の首席指揮者の就任も決まっていたが、果たせなかった。
オーケストラの団員からの信頼は絶大であったらしく、ロンドン交響楽団の音楽監督解任も観客が入らなくなった事が原因であった。また、ジョージ・セル亡き後のクリーヴランド管弦楽団の音楽監督として楽員選挙で選ばれたが、運営サイドは最終的にロリン・マゼールを選んだ。
また交響曲第4番の一部が未収録で終わったウィーン・フィルとのブラームス交響曲全集では、第4番第4楽章および「ハイドンの主題による変奏曲」はウィーン・フィルが追悼の意を込めて指揮者なしで演奏したもの、その他はケルテスが指揮したものが収録されている。また全集作成のために交響曲第2番もウィーン・フィルと再録音が予定されていた。
ジネット・ヌヴー(Ginette Neveu, 1919年8月11日 パリ - 1949年10月27日 大西洋沖アゾレス諸島)はフランス人ヴァイオリニスト。
生涯
音楽家の一族に生まれ、大叔父に作曲家のシャルル=マリー・ヴィドールがおり、弟ジャン=ポールはピアニスト。母親の手ほどきにより幼少期より楽才を発揮、7歳でコンセール・コロンヌ管弦楽団と共演してブルッフの協奏曲でパリ・デビューを果たす。パリ音楽院に学んだ後、ジョルジェ・エネスク、ナディア・ブーランジェのもとでも研鑚を積み、さらにベルリンに留学してカール・フレッシュに師事。しかしフレッシュは、「ヌヴーはすでに完成された芸術家であり、自分は助言以外にすることはなかった」と述懐している。
15歳でヘンリク・ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに出場、180名もの競争相手を破って優勝し、未来の巨匠ダヴィッド・オイストラフを2位に下して、世界的な名声を獲得した。それから間もなく演奏旅行の契約を結び、2年以上の間にドイツ、ポーランド、ソ連、アメリカ、カナダを訪れた。
ヌヴーの国際的なキャリアは、第二次世界大戦により中断するが、ついに1945年にロンドン・デビューをかなえることができた。弟ジャン=ポールを伴奏者にしたがえて、戦後のヨーロッパを精力的に駆け抜け、プラハの春音楽祭にも出演。さらに南米や豪州でも楽旅を実現、アメリカ再公演も行なった。
1949年10月20日のリサイタルが、最後の演奏会となった。1週間後の10月27日、弟ジャン=ポールとともにエール・フランス機に搭乗し、アメリカ演奏旅行に向けて旅立った。このエール・フランス機には、エディット・ピアフの愛人としても知られるフランス人プロボクサー、マルセル・セルダンも同乗していた。だがこれは死への旅路にほかならなかった。機体がポルトガル沖合いで事故を起こし、サン=ミゲル島の空港に2度着地を試みるも失敗、山中に墜落してしまう。48人の乗客のうち、生存者は一人もいないという悲惨な事故だった。ヌヴーのなきがらは、発見された時にストラディヴァリウスを両腕に抱え込むようにしていたと言い伝えられている。