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ただものサブゼミコミュの2009年5月サブゼミ ホネット『正義の他者』第1回

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次回のサブゼミは、5月16日(木)午後1時より、二松学舎大学九段校舎1001研究室にて行います。

テキストは、アクセル・ホネット、加藤泰史・日暮雅夫ほか訳『正義の他者――実践哲学論集』(法政大学出版局、2005年5月25日)

「社会的なものの病理――社会哲学の伝統とアクチュアリティ」を ヘンリー4世 さんが、「世界の意味地平を切り開く批判の可能性――社会批判をめぐる現在の論争地平での『啓蒙の弁証法』を さとし が報告されます。

前回は、急な延期で申し訳ありませんでした。よろしくご参集ください。

コメント(5)

● 報告者から

いわゆる文学理論をめぐる議論に関して、報告者がつねづね辟易しているポイントをあげよう。

?言語行為がパフォーマティヴであること

報告者の不満は、ある行為がパフォーマティヴであるかどうかには、直接的にはない。

これはすでに、それ自体が言うべきことというよりは、論の前提として考えるべきではないか。(いまだにベタな「実証論文」を標榜してはばからない人もいるが)

問題は「(言語)行為が遂行される」と述べたときに、どの「行為」がどの「レベル」で遂行されているのかという位相の問題である。



?レトリック分析をめぐる更新が論証的あるいは解釈学的にしか更新されていないこと

いわゆる社会構築主義や権力論、またはカルチュラル・スタディーズ的な研究の多くがここに入る(もちろんすべてではない)
言うまでもなく、特定の政治的立場を掲げる批評はここになる。

一方で、たとえばメタファー分析などを含む文彩分析は更新が遅れている。
しかし、メタファーひとつとってみても、その形成プロセスには文脈性があるはずであり、既存の理論の成果は取り入れられるはずである。

?美学的または、社会美学的な問題

?とも関連することだが、論証的―解釈学的な問題に特化した場合に研究の焦点となるのは、制度的(*1)な分析ないしはイデオロギー的な分析である。

こうした研究の動向には二つの問題がある。
ひとつには、社会や生活を営む人においては制度やイデオロギーのみに生きるのではないということだ。そこには必ず人々や当該社会の美的・感性的な質というものがある。これをある人なら「社会のフィール」というだろう。

もうひとつには、規範・倫理の問題がある。
少なくともある制度、イデオロギーを「問題である」と述べるときに、そこには明に暗に「良き社会」「良き規範」「良き倫理」というものが含まれる。そこからはまぬがれえない。
こうしたときに、その「良さ」の妥当性の根拠を「どこ」に求めるのか。

こうした場面において、報告者が着目するのは「社会美学」の観点である。
実は日本ですでに前から言葉が提出されていた(石川三四郎など)のだが、ここ十年くらいで、人文社会科学のさまざまな場所からSocial Aestheticsの言葉が、特に英語の論文で出されている。
「社会認識の美的・感性的な方法」としての「社会美学」の可能性も含めて、議論を深めていけたら良いと思う。


以上の観点から、報告者の拙い知識では議論できることはほんのわずかであるが、ぜひどこかでも触った人は参加して議論していただけたら嬉しいと思う。
おつかれさまでした。報告聞いてくださった方々、ありがとうございます。

ホネットの評価する形式分析は、単に相対主義化を招いてしまわないか、また概念や政治的立場を離れて形式やレトリックのみを評価できるのか、などなどコメントをいただきました。

少なくとも、いわゆる「大きな物語の崩壊」以降、単純な形で「正しさ」を語ることは非常に政治的な用法を自覚的に使用している場合を除いて、おいそれとはできなくなっています。

このような時代に、あえて正当化をするとすればどうするかを考えることは重要な話だと思います。

いわゆる内在的批評が用いられ、また当事者主義がかなりはびこってくるようになると、それ自体は非常に意義のあることだと思いますが、どうしても窮屈な感じがします。

これをすごく簡単にいってしまえば、内在批評や当事者主義というのは、「正しさは文脈が決める」という考え方ともパラフレーズできますが、そもそも「文脈」自体も一義的でなかったりする、そんなことを考えたりします☆
> さとしさん

たいへんお疲れさまでした!

「大きな物語」が終わり、普遍を安易に語れなくなった現代で倫理学を考えようとすれば、「手続き」(形式)について思考を深めるしかないということ。
そしてその「手続き」の上では、論理だけでなく感情・情動を無視することはできないこと。

私が次回報告させていただくホネットの論文「正義の他者」からひとまず取り出したこれらの内容は、さとしさんが報告された章にある「レトリック」「美学」の重要性と連結できると思っています。

まだまだ準備は進んでいませんが、次回の発表、努力します。
>滄 さん

コメントありがとう。
すごく単純化したまとめ方をしてしまうことを許してほしいんだけど、批評における「政治主義」は避けなくてはいけないことだと、私は思っています。

一定の立場にこだわる姿勢を取りすぎるあまりに、自分の立場の正当化すること――しかもそれがしばしば他の立場を非難(批判ではなく)することによってしかなりたたないこと――に終始したり、他の立場が評価すべきでないからといってそこで行われる「手続き」や「形式」まで評価しないこと。これが「政治主義」の悪影響であり、かくのごとき「政治主義」に終始する限り、段々と批評がしょってたつ人文的な知「リベラル・アーツ」は工学的な知である「エンジニアリング」に道を譲っていかざるをえないことになるのではないかと懸念しています。

「手続き」「形式」の問題を深めることというのは、一見「エンジニアリング」に「リベラル・アーツ」が敗北宣言を出しているように見えるけど、実はそうではない。「エンジニアリング」によって出された成果を参考にしつつ、そうした様々な社会の様相が変わることによって、そこに生きられる人々の感覚や認識など、さまざまな生の様式が変わる。それによって環境と人、あるいは人と人とのコミュニケーションが変わる。ここにこそ「リベラル・アーツ」の問題が復活してくるのではないかと、私は思っています。

なんか書いていて、すごく具体性を欠いた発言しかしていないなあと思い、申し訳ないんだけど、あとは次回またゼミの場で話しましょう!

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