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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュのクリスチャンが葬式に行ったら

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クリスチャンがクリスチャンの葬式に行くことはキリスト教式の葬式でするので問題はありません。しかし、クリスチャンが知人の葬式に行くことになった場合、焼香をあげなかったりすると聞きます。クリスチャンになってから仏式の葬式にはまだ行っていませんが、みなさんはそんな時に焼香をあげますか?

僕は今の所結論が出ていません。クリスチャンなら焼香をあげずにキリスト教式の祈りですませばよいと元僧侶の牧師先生に聞いたことがありますが、遺族の反感を買うだけでキリスト教に対して嫌悪感を抱かせることにもなりかねないような気がします。

コメント(35)

所作上は列席の仏教徒とまったく同じように振舞いますが、ナニか。
そうでないなら式に出るべきではないですよ。
私も普通にみんなと同じようにします。
神様はそんな心は小さくないと思うし、
何より理解されにくいから、遺族に対して失礼だと思います。。

もう一つの状況を追記するのを忘れていました。信仰の弱いクリスチャンが共に列席する時が問題なんです。
> 3 さがやんさん

信仰の強い人なんかいないわけですが、
第一コリント八章偶像肉箇所的な意味で「良心が弱い」人のことですか?

そんな人は仏式葬儀にそもそも来るもんですかね?
死者にお花をあげるのと、お香をあげるのと、区別する必要はないと思っています。
私は手首にロザリオかけて行って、読経の最中は勝手にカトリック式で祈っていますが、お焼香は普通にやっています。
私はノンクリスチャンなんですが、教会により、牧師先生により考えが違いますね カトリックの方はみんなやるって言いますが 私はお焼香やっちゃいけないっていう教会で洗礼は受けられないな、ダメって言われているのにやったら良心が痛みそうって思います
前に仏式の葬儀で、教会でやっちゃいけないと言われているプロテスタントの人たちが、「親族に私たちはクリスチャンだからお焼香できません」って言いに行こうと言っていたとカトリックの人が怒っていたことがあります
ちなみに私の父の葬儀に通っていた教会の宣教師と教会のおじさんが来てくれましたが、列にならび焼香はせず一礼していました どうしてもできないなら、わざわざできないと言って親族の気持ちを害するようなことはせず、一礼して亡くなった人に敬意を表すこともできると思います
私はお焼香をしても別に崇めているような意味はなくて、しきたりや礼儀・亡くなった人や親族への慰めみたいなものなので、問題ないかと でもやっぱり後ろめたくなりたくないから、ダメと教会や牧師先生には言われたくないなぁという感じです
さわいちさんの言われる意味は(たぶん)わかりますが、「多神教でいい」という表現は誤解されてしまうので、ちとまずいと思います。
死者が望んでいるであろう宗教で弔うために仏式で供養してあげているのであって、こちら側が三位一体以外の神があると信じているわけじゃないと思うんですよ。
亡くなることを「仏になった」という言い方をしますが、弔ってあげるこちら側が死者を仏だと信じているわけではないのでは? 
死者に頭を下げる行為も、いわゆる「拝む」とは意味が違うでしょう。
なんと表現していいのか言葉が思いつきませんが、死とか死者に対する敬いの気持ちの表れじゃないかと。
>10
なるほど、さわいちさんはおっしゃるとおり多神教なんですね。
早とちりしてすみませんでした。

全身全霊かけて祈ったのは1度しかありませんが、私の場合は祈り求め始めてから叶えられるまで1年半くらいかかりました。
なかなか聞いてもらえなくて「どうして叶えてくださらないのですか?」と祈りの中で尋ねるうち、徐々に自分自身と、求めているものが変えられました。
祈り求める内容が御旨にそわないからまだ聞き入られないんじゃないかと、考え直す。それでも聞き入れられないと、まだどこかにエゴが残っているんじゃないかと考え直す。次々少しづつ祈りを変えていって、それでもダメで「主よ、私に何をお望みなんですか? 聞き入れてくださらないなら、せめて私が何を願うべきかわからせてください。」っていうところまでいきました。
最終的には「私はこういう風に願っていますが、それは決してあなたにとっても悪いことではないと思います。なぜなら…。それでも聞いてくださらないのですか?」と。もう祈りというより交渉でした。
どっと涙があふれた瞬間「聞き入れられた」と強い確信がわきました。
それから2ヶ月くらいでしたか、聞き入れられたのは。
祈りは本当に神との対話だと思いました。最初の祈りから求めるものが変わっていき、自分が成長させてもらったように思います。

今は残念ながらあんなに力を込めて祈ることはできないような気がします。
信仰が弱くなっちゃいました。
でもあの体験は貴重な思い出です。
>さわいちさん
私は洗礼後、やっと半年のひよっこで大変申し訳ないんですが、うちの牧師が行っている言葉を…。

クリスチャンは他人より尊いからなれるんじゃない、むしろ自分が周りよりはるかにバカでどうしようもないと思っているから主を信じている、ただそれだけ。
私たちクリスチャンは、罪赦された罪人だけなわけで、これからも罪人であること、それでも罪を犯すことは間違いないんだ。といつもおっしゃられてます。

また、あの有名な大和カルバリーの大川先生は
「私は牧師になった今でも神様への祈りに謝罪がない日が存在していない」と説教で話されていました。
熊本の方もそういう事を言いたかったのではないのかしら?

私は洗礼前から教会を離れたクリスチャン向けの集会のスタッフをやっていますが、やはり、教会を離れたクリスチャンの方の一番のネックは献金みたいですね…。
確かに教会存続の財源には欠かせませんが…。
始めて訪れた教会では、無理強いはしませんでした。
献金の意味が理解できない方は袋が回っても遠慮していいですよと。
その後で、詩篇でその意味が理解できました。
神へのもっとも尊い捧げものは、砕かれた心であるとダビデが書いてありましたね。

今の教会は貧乏教会なこともあり、マラキ書から「こればかりは神様が試せって言ってるからやってくれ」と遠回しに言ってますが…。自分の家計に響く無理な献金はせず、その分奉仕を頑張っています。

主よりサタンに惹かれるかも・・・。みんな初めはそうなんじゃないんですか?
私なんていっつも敗北の毎日です。

やっぱ、日本人はクリスチャンに対するイメージが偏りすぎているから洗礼後も自分の信仰に自信がなくなってさわいちさんみたいに戻ってしまったりする人、それ以前に拒否る人が多いんだなって私は思います。
> 14 ぼむさん

> しかし、中身を表すのは外見ということもまた真実だと思います。信仰を表すのは形式を通してしかできないということになります。
> このあたりが難しいところですね。
> 仏式の葬式においてクリスチャンが一番気になるのは、やはり周りにどう見られているか、特に親族にどう見られているか、ということだと思います。
> 「神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神」(マルコ12:27)であるということからみても、生きている周りの人にどう見られているかを気にすることは聖書的なことだと思います。

このへん、全く賛同できないですね。

ご葬儀に一体何しにいくのよ。自分の信仰をアピールするパフォーマンスを演じにですか。
ご遺族への弔意を上回る野望を自覚したら最初ッから非礼目的で出かけたりせず、
それでも多少の弔意もあるなら別の意思表示手段を考えるべきですね。
> 16 ぼむさん

> 葬儀にはもちろん、ご遺族への弔意のために行きますよ、
> 焼香をあげるということも、遺族への弔意の表現手段ですよね?
> だとしたら、焼香をあげるのも自分の思いをアピールするパフォーマンスですよね。

場に調和した目立たない行動と突飛で目立つ奇異な行動を
あたかも同等の表現のように問いかえすのはいかがなものでしょうか。
そこを一つ貸しにして、パフォーマンスという部分を相殺したとしても
相殺されずに残った「想い」は同等の正当性をもっていますか。

> 周りに流されてなんとなく焼香をあげるよりも、自分の信念にのっとって弔意を示すことの方がはるかに誠実だと思いますが。

「周りに流されてなんとなく」振舞っている、という批判ですね。ではそうではない場合は想定できませんか。
葬儀に行かずに他の手段をとる、弔電うつとか文書をしたためるなどの無難に信念を貫ける選択肢を故意に無視するのはなぜですか。

> 結局は自分と親族との人間関係の問題ですから、無難かつ表面的な付き合いではなく、信念が通じ合う充実した人間関係を持てる可能性があると思うのです。

自分は信念を貫き、相手にはその承認のみを求め、それが通った関係を「信念が通じ合う充実した人間関係」と誉めそやすわけですね。そしてそれ以外は「「無難かつ表面的な付き合い」であり、言外にそれには価値はないかのようです。本当にそうでしょうか。

お葬式って死者を弔い、また残された遺族の方々を慰めるものだから、スタイルはこだわらなくていいと思う。
死者を拝んでるわけじゃないんですから。
「私はクリですよ的ポーズ」を決める場所ではないと思います。
参列者が思う通りの故人の偲びかたをされるのが一番の弔い方で、ご遺族への慰めになるのではないでしょうか?

・・・あ!
でも、私は数珠は持っていきませんね。
> 19 ぼむさん

> 問題は、完全に一般化していいのか、あるいは完全に自分の行動を一般化できるのか、ということです。
> もし完全に一般化できないのなら、究極的状況についてだけでも想定しておいた方がいいのではないでしょうか。

いーえ、何も変わりません。そもそも何が究極的状況なのかと思えば、

> 僕が思い浮かべたのは、心からの一番の親友が死んでしまったというとき、あるいは愛する家族や愛する親類が死んでしまったとき、そういう究極的な状況です。

何処が究極? 誰にだって親友や親族がいるとはお考えにならないのですか。
では「誰」が究極的状況なんですか。貴方が勝手にでしょう。で、葬儀の主役は貴方でしょうか。

> そういうときに「私はクリですよ的ポーズ」を決める目的で葬儀に向かう人はまずいないでしょう。
> 究極的状況だからこそ、僕はスタイルにこだわりたい、形式にこだわりたいと考えたのです。

「私はクリですよ的ポーズ」を決める目的で葬儀にこなかったかどうかは、
「私はクリですよ的ポーズ」を決めたかどうかでだけ判断されます。
なにかおかしなことをして御覧なさい。
如何なる厳粛な状況下においても、つまり親友の、家族の葬儀の場においてすら
自分のことしか考えない非常識野郎の烙印を押されるでしょう。

> この場合においてすら、「自分は信念を貫き、相手にはその承認のみを求め」ることになっちゃうのでしょうか。

それ以外のなにものでもありませんね。
貴方の行動が原因で諍いが発生したら、それは全部貴方に対する周囲の無理解が原因だとでもおっしゃるおつもりでしょうか。
ただ、その烙印を押されることばかりを恐れているわけにもいかないと思うだけです。

同感です。
恐れる必要なんてない、
むしろ常に喜べ、絶えず喜べ、すべてのことに感謝せよ。とあるじゃないですか!!

あ、この場合の喜びと感謝は、亡くなられたけど、神様のもとに一人また行ったという事で…。

周囲からの迫害に関する教えは、山上の説教を思い出してみませんか?

場違いなれすだったらすんません。
†真昼の蒼蛇† さん


>あ、この場合の喜びと感謝は、亡くなられたけど、神様のもとに一人また行ったという事で…。


トピックでの設定ではノンクリスチャンの方が亡くなられて仏式の葬式に参列した場合のことです。
考えてみたのですが、例えばノンクリスチャンのの親友の葬儀に焼香をあずに黙祷で済ますことが必ずしも遺族の反感を買うわけではないと思います。しかし、ノンクリスチャンの方からしてみれば、焼香をあげないということは故人に対する無礼と捉えられる可能性ももちろんあります。


みなさんの考えを総合してみると、遺族や故人>クリスチャンとしての信仰の実践、あるいはぼむさんのようにクリスチャンとしての信仰の実践>遺族や故人であると分かります。


ぼむさんはキリスト者としての信仰を実践することにより信仰を神に帰す立場を貫くということです。行いの伴わない信仰は死んだ信仰という考えからきているのかもしれません。しかし、先ほど述べたように故人や遺族に対して反感を買う可能性があります。


それに対して焼香をあげることにより故人や遺族を重んじる方は、キリスト者である前に一人の人間の死に際し、その故人や遺族に沿った流儀ですることによりクリスチャンに対する悪いイメージを与えません。しかし、信仰の弱いクリスチャンが同席した場合、その行為を見ることによって教会から離れる可能性も出てきます。


大学の神学者に質問した所、答えはどちらでもありどちらでもないということでした。つまり、黙祷で済ますことは遺族に対して反感を買う可能性があるが、一言葬儀の際に遺族に対して「キリスト教の黙祷でさせていただきます。」と言って真剣にひざまずいて祈ることをして遺族が喜んでくれたことをおっしゃっていました。また、求道者や信仰の浅いクリスチャンが共に出席する場合は、焼香をあげることにより教会から離れる危険性があるから黙祷をしてキリスト者の模範とならなければならない。しかし、毎回それが通じるかといえばそうではないともおっしゃっていました。


逆に、求道者や信仰の浅いクリスチャンが共に出席する場合は、焼香をあげることにより教会から離れる危険性がある。それでも遺族に対してクリスチャンの態度を明ら様に出せば、キリスト教に対する嫌悪感を持っている人がいれば更に強固な嫌悪感を抱かせることにもなりかねない。だからこそ焼香をあげるというやり方もあるともおっしゃってました。


僕はどちらが正しい答えでも答えでもあることがなんとなくですが分かってきたような気がします。


どちらを選んでも、デメリットがあるということ。しかし、親しい故人の葬儀にどちらかの信念を持って実践するかを考えていきたいと思います。ただ、親しい故人の葬儀に弔電で済ますことはできないので出席するだろうと思います。
>24 さがやんさん:
>しかし、信仰の弱いクリスチャンが同席した場合、その行為を見ることによって教会から離れる可能性も出てきます。

おっしゃるような状況が全然想像つかないのですが、どういうことでしょうか。

弱い信仰というのがゆるいとか生ぬるいことでしたら、お焼香がいいか悪いかあまり悩まないタイプでしょう。
逆に「異教的な行為だ!」と過敏に反応する人でしたら、自分だけでも純粋な信仰を護ろうと燃え立つんじゃないかと。

日本のカトリックは仏式の葬儀で焼香することを許しているのですが、それで信者が教会から離れたという話を聞いたことがありません。説明を聞いた人は一様にほっとした顔をしますよ。
死者を神や(本物の)仏と考えている訳じゃないので、まったく偶像崇拝にあたりませんし、むしろ禁止しているところがあるとすれば思考が硬直しているんじゃないかと思えます。
> 25 Angelic Felineさん

> 逆に「異教的な行為だ!」と過敏に反応する人でしたら、自分だけでも純粋な信仰を護ろうと燃え立つんじゃないかと。

こう言う反応をする人のことを、そうしないと信仰が保てない弱い人といってるんですよ、多分。
形から入るのはともかくいつまでたっても形だけの人というか、
周りを思いやる余裕がなく自分の理想だけにこだわってるというか。

あれだけ1コリ読むとしばらくものの考え方に影響残るな、われながら。
>26 LucifeRさん、
>こう言う反応をする人のことを、そうしないと信仰が保てない弱い人といってるんですよ、多分。

了解、そういうことにしておきます。

>あれだけ1コリ読むとしばらくものの考え方に影響残るな、われながら。

その箇所があたったのは、天の采配だったかもしれませんね。(悪口の意図なしです)
実践神学
教会墓地の問題。
スペースの問題で合葬が通例になってきたようです。既に多くの教会で合葬のようです。

日本の慣習では「家」単位が当たり前で難しいところです。
合葬は日本では管理費用をため込むとなされる場合が多いようですね。
個人的な感想では合葬よりは太平洋の方が自然かなと思います。
葬式なんざ生きてる人間の為にやるものだ。
異教の葬儀なんか不要と思えば行かないのが吉。
どんなインチキ宗教でも、
共産主義者よろしく「自分の神の言葉を信じる」のなら、そうすればいいだけ。
仏式葬式なんか出なくていいよ。
「自分はクリスチャンなので仏式葬式にはでられません」
清々しくてよろしい。

それで、親戚づきあいが難しくなるなら切れば良い。
少しでも気を使いたいなら、香典ではなくなんらかの形式で、
「お悔やみ」と「心づけ」を包むとかね。

あとは故人、故人家族との付き合いを大切にしたいというのなら、
仏式にはでないが、通夜や墓参りには行くなどなど。
それもまずいなら、
「その時だけ、仏式ルールで」そういうものだと思って仕事するだけ。




ちなみに無神論者の私は、
「相手側の儀式スタイルを理解して」それにあわせるよ。

日蓮系だとこうやるとかね。
ちゃんと知ってる。
もちろん信仰とは関係ない。

教皇死去、ローマ教皇庁正式発表
https://news.mixi.jp/view_news.pl?id=8285841&media_id=266
TBS NEWS DIG
ローマ教皇庁は、教皇フランシスコが21日に死去したと正式に発表し、ケビン・ファレル枢機卿が声明を出しまた。

ローマ教皇庁によりますと、教皇フランシスコは21日午前7時35分にバチカン市国内の自宅で亡くなったということです。88歳でした。
ローマ教皇庁のケビン・ファレル枢機卿は声明を発表し、「彼は私たちに、特に最も貧しく、最も疎外された人々を助けながら、忠実さと勇気と普遍的な愛をもって生きるよう教えてくれました」「主イエスの真の弟子としての彼の模範に深い感謝の念を抱き、私たちは教皇フランシスコの魂を唯一にして三位一体の神の限りない慈悲深い愛に委ねます」。

ローマ教皇フランシスコの死去を受け、イギリスのチャールズ国王は「深い悲しみを覚える」と追悼のメッセージを発表しました。

「教皇は思いやりを通じて多くの人の人生に深い影響を与えた」と称えた上で、「これまでにお会いした数々の機会を特別な愛情とともに記憶している」と振り返りました。・・
***
ローマ教会も呼んで欲しいがなかなか呼ばれない(こちらから勝手に伺ったことはある。)。
ローマ教会の責任者のなかではヨハネスパウロ二世についで二番目に好きな兄弟で覚えて、昇天を祈りたいと思います。
アリア自称使徒?

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