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ビキニ事件(第五福竜丸事件)コミュのロンゲラップ島民の悲劇

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左写真 核兵器を巡る世界
中写真 故ジョン・アンジャインさんとノート
右写真 マーシャル地図

まずはニュースから

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共同2005年5月13日

米下院、新型核予算を削除 ブッシュ政権に痛手

 【ワシントン12日共同】米下院でエネルギー省関連の予算を審議する歳出小委員会は12日、ブッシュ政権が2006会計年度(05年10月−06年9月)
予算として要求していた新型核兵器「強力地中貫通型核」用の400万ドル(約4億2700万円)を全額削除する予算案を可決、下院本会議に送った。

 上院での審議はこれからだが、下院が明確に反対を表明したことで、関連予算が昨年に続き、全額カットされる見通しが強まった。「ならず者国家」などの地下司令部破壊を狙って同貫通型核の開発を模索するブッシュ政権には大きな痛手だ。

 小委員会のホブソン委員長(共和党)は「貫通型核が必要とは思えない。使用した場合に100万人が死亡するとの研究報告書もある」と語った。

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http://www4.nationalacademies.org/news.nsf/isbn/0309096731?OpenDocument

こんなものを未だに作ろうと画策するブッシュ政権とは明らかに「ならず者」であること間違いありません。

しかも5年ごとに開かれるNPT再検討会議が行われている最中です。2000年「核保有国は核廃絶の明確な約束」はどうなるのでしょう?どちらにしても今月27日までに結果がでます。

では、本題に移っていきます。広島型原爆は15キロトン、ビキニで行われたブラボー実験(ビキニ事件)では15メガトン約1000倍の威力の爆発だった事がわかります。

 そして、マーシャルに住んでいた人々への被害はどうだったのでしょうか。
 元ロンゲラップ村長は、島民の健康調査ノートを持っていました。その約半数に甲状腺手術をした×印がつけられ、何も印がない人は殆どいません。小人症、水頭症、流産、様々な奇形の子供が生まれるという悲劇もあります。94年子ども達の健康調査をした日本の医師は子ども達に貧血、B型肝炎、ずいまくりゅう、体内にガンのある疑いのある子どもが異常に増えている事がわかったそうです。


【経過】死の灰を浴びて移住するロンゲラップ島民
1954年ブラボー実験により爆心地から180キロ離れたロンゲラップ環礁で島民82人全員が被爆2日後にクワジェリン環礁の米軍基地に移動、3ヵ月後マジュロ環礁エジット島に移される。1957年、アメリカから「安全宣言」が出され1985年までロンゲラップに帰島、残留放射能によって2次被爆したため85年無人島であったメジャット島に移住する。


では昨年7月に亡くなった、故ジョン・アンジャインさん最後の3.1ビキニデー講演を紹介します。

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私の名前はジョン・アンジャインです。50年目のビキニデーに参加するためにやってきました。私たちは、この間、苦難と苦しみのもと生きてきました。ロンゲラップ環礁自治体の大酋長、上院議員、市長、議員とロンゲラップ島民を代表して、原水協のみなさんに招待していただいたことに感謝し、みなさんと私たちロンゲラップ島民の大義となるこの特別な集まりにご挨拶を申し上げます。

 私たちにとって、今年2004年は、50周年の年です。1954年以来、あらゆる困難を経験してきました。1954年から57年の流民生活を経て、ロンゲラップにもどりました。57年から85年まで、ロンゲラップで暮しました。この長い間、私たちはあらゆる病気にかかるなど、多くの苦難がふりかかりました。その結果、ロンゲラップを棄て、島民を避難させることを決めたのです。アメリカとマーシャル政府は、この脱出に反対しました、そして、脱出への援助を何らしないと決めたのです。1984年、ジェトン・アンジャイン故上院議員は、私を国連に送り、この脱出への援助を求めました。国連は、アメリカが島をきれいにするから、ロンゲラップに留まることは可能かとたずねました。私はそれは不可能だと答えました。私は、島民が島に留まれば、病気はもっと悪くなると答えました。私は国連に、子供たちのうち19人が深刻な病気をもって生まれていると伝えました。当時の19人のうち、現在生き残っているのは、一人だけです。

 ロンゲラップを出て、ほとんど20年たちました。しかし、私たちは今も苦しんでいます。現在、私たちは小さい島メジャットで暮しており、そこには作物を育てる土地もありません。

 ブラボーがマーシャルの人々の生活に、どのような影響を与えたかについてお話したいと思います。爆発の威力はとても強いものでした。ビキニの3つの島がなくなりました。きのこ雲は、北から西の空を覆いました。その後、爆発の方向から大きな衝撃音が3回ほど聞こえました。地面はゆれ、家の中のあらゆるものが落ちてきました。

 その朝、10時ごろ、白い粉が雪のように降ってきました。そして、みんな具合が悪くなり始めました。おなかがひどく痛くなったり、体中がかゆくなりました。みんな、やけどをしたように見えました。髪の毛も抜け始めました。口の中にも水ぶくれができました。このようなことが3月1日に起こりました。しかし、アメリカはその2日後まで、現れませんでした。ロンゲラップには64人、アイリングナエには18人いました。アメリカはロンゲラップの私たちをまず船にのせ、それからアイリングナエの18人を避難させました。船に乗りこむ前、私たちは洋服を全部脱がされ、ホースで水をかけられました。男性、女性、子供とも、特に血縁関係があるもの同士がお互いの裸を見なければならず、それは私たちの習慣に反するものでした。海辺で、18人の名前を呼んでいたとき、まだ空から白い粉が降っているのを感じました。

私たちはクワジェレン基地に連れて行かれました。そこで、DOEの職員は、私たちを1日3回、体を洗わせるために海に連れて行きました。これは約1カ月ほど続きました。体のかゆみがおさまらない場合、私たちは時に、一晩に3回も4回も体を洗わせられました。体中に水ぶくれができていたので、塩水に体を浸すのは大変でした。とても痛かったです。クワジェレンでは、食料は足りていました。問題は2組の洋服しか与えられなかったことです。クワジェレンに連れてこられた島民には十分な衣服が与えられませんでした。クワジェレンには3ヵ月いました。

 その後、マジュロ環礁の小さな島、エジットに移りました。この島では、作物があまり取れませんでした。それなのに、政府は、私たちに食料を与えませんでした。1955年、DOEの医者がやってきて、検診を行おうとしたとき、私は、検診はさせない、そんなことより、島民はみんな空腹なんだと訴えました。それで、医者は信託統治政府の高等弁務官のところに行き、食料を島民に与えるよう依頼しました。それから食料をもらえるようになったのです。一ヶ月の食費として、1100ドル与えられました。エジットには3年間いました。

 その後、アメリカ政府は、ロンゲラップに帰ると私たちに告げました。私たちはこの決定を疑い、もどって安全かどうかたずねました。一部の島民は、もどるのはいやだと言いましたが、政府は、もどらない者に対しては何ら責任を負わない、自分たちでやれと言いました。もどると、アメリカの役人が、作物の植付けを再開するよう言いました。それで、エジットからもどるとき、ヤシの種、パンダナス、パンの実、その他のマーシャルの食料を持っていきました。私たちは役人に、作物の植付けはしたくないと言いました。それは、安全でないとわかっていたからです。その役人は、私たちに1700ドルを与え、自分たちの島にもどるのだから、今後、手当ては支給しないと言いました。役人が去ってから、私は島民に、種全部を海に投げ捨てろと言いました。

 数ヵ月後、その役人がやってきて、種は植えたのかとたずねました。そこで私は、海の中をさがせと言いました。それからです。彼らが私たちにUSDAの食料を与えるようになったのは。それから、アメリカが島に残していった一人のアメリカ人の助けを得て、食物計画を始めました。しかし、土を掘ると、体が再びかゆくなりました。今回は、からだの中もかゆくなりました。土を掘っていた人たちは、自分たちの背中を木の枝でひっかいて、まるで豚のようでした。事態が深刻になり、私たちはこの計画を中止しました。

 58年から59年に本当に悪夢のようなことが、ロンゲラップ島民に起こりはじめました。女性たちに、障害や奇形児の出産がみられるようになりました。ぶどうの房のような形をした子供や、何とも言いようのない形の子供、ある子供は、頭蓋骨がなく、脳がすけて見えました。この子供は3日で死にました。 1961年にのどがはれてきました。最初どうしてかわかりませんでした。そのうち血を吐くようになりました。1966年にはいって始めて、DOEはのどを調べるようになり、それは甲状腺の病気だと言いました。68年には、島民をアメリカに連れて行き、検査をするようになりました。4,5人、時には6人をまとめて連れて行きました。72年にDOEがやってきて、私の息子のレコジを診ました。白血球が低いことがわかりました。DOEの医者が、私にレコジを一週間検査のためにホノルルに連れて行っていいかとたずねました。3日後、マジュロの私の所にホノルルから電話があり、レコジの精密検査をするために、ワシントンに連れて行っていいかと聞いてきました。私はワシントンに飛び、彼らが到着して3日後に着きました。レコジの血を採血して調べてもいいかと聞かれました。採血された血は、ワシントン、メリーランド地域の15のクリニックに検査のため送られました。15日後、採血された血はもどってきて、それをレコジの体にもどしました。翌日、レコジは本当に具合が悪くなり、鼻、目、耳、口など体中から出血していました。出血とともに、彼は食べなくなりました。熱、咳、頭痛、腰痛など、ありとあらゆる症状がでていました。私の息子は一ヶ月も苦しみ、1972年11月18日、メリーランドのベティスタで、19歳の若さで亡くなりました。レコジがホノルルに連れて行かれる前、日本の江崎医師が私に、レコジはアメリカの大きな病院に行くけど、帰ってきても、多分、ロンゲラップで友達と遊ぶことはできないだろうと言っていました。彼の言ったことは本当でした。レコジがロンゲラップに帰ってきたとき、私たちはレコジを埋葬しなければなりませんでした。申し上げたのは、この50年間、アメリカの政府が核実験で私たちに対して行ったことの、ほんの一端です。

 今年で、私たちの苦しみ、苦難も50年経ちました。50年経った今、この問題にかかわったアメリカの議員は、すでに政府内にはいません。近年、アメリカの議員は若く、私たちが直面している問題について全く無知です。それで、ブラボー実験で被害をうけた4環礁の人たちへの健康管理事業を打ち切ろうとしているのです。ともに立ち上がり、アメリカ政府が私たちに犯した犯罪を世界に知らせなければなりません。みなさんと今日お会いできて、わたしはとても幸運だと思います。もう一度、すでに亡くなったものも含めて、マーシャルのすべての核被害者を代表して、みなさんにごあいさつを送ります。ありがとうございました。

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コメント(1)

2005年3・1ビキニデー集会

アバッカ・アンジャイン・マディソン
マーシャル諸島共和国上院議員

こんにちは。ロンゲラップ島民を代表して皆さんにご挨拶申し上げます。今回ビキニデーの行事に参加することができ、とても光栄に思います。

51年前の今日、マーシャル諸島北部のロンゲラップ島で、4人の妊婦と子供を含む87人の島民は、目のくらむような光と耳をつんざく爆音に飛びおき、西から登る太陽を見ました。

静かな村は、瞬く間に狂気の世界とも言うべき恐怖につつまれました。穏やかな眠りを突然に奪われ、未だ終わらぬ生き地獄が始まりました。過去最大の核爆発をもたらした水爆実験「ブラボー」が、ロンゲラップの西数マイルの場所で、地球を引き裂いたのです。

白い雨のような白い粉「死の灰」が、私たちの村に降ってきたのです。その放射能の毒性など知る由もなく、いつものように島民は食事や飲み物の用意をしていました。彼らは、「死の灰」を浴びたり吸い込んだりしただけでなく、毒に汚染されたものを口にしてしまったのです。

1945年3月1日から3日後、米軍によって、私たちはロンゲラップ島からクワジャレン環礁に避難させられました。すでに火傷や皮膚病などの症状が現れていました。それから、髪の毛が抜けたり、高熱や下痢などの症状が島民に現れました。島民は、その後、様々な病気や癌で苦しみながら、生きていかねばならなくなりました。多くの親戚、家族が亡くなりました。

 被ばく後、島民はクワジェレンでのテント生活を強いられました。クワジェレンは現在アメリカのミサイル実験場です。そこで、アメリカの医者や看護婦は、悪名高いプロジェクト4・1とよばれる人体実験を始めたのです。

私たちの島で実験されたのは、ブラボーだけではありません。1946年から58年までに、マーシャル諸島のビキニおよびエニウェトク実験場では、67回の核実験がおこなわれました。専門家の分析によると、この核爆発すべての威力を足し合わせると、12年のあいだ365日、毎日、1.7個の広島型原爆が爆発したことになります。

 クワジェレンから、私たちは再びマジュロ環礁のエジット島に移されました。それから1957年に故郷の島、ロンゲラップにもどされました。当時、専門家は、その時期の帰島は早すぎるし、無責任だと警告していました。この帰島により、私たちは、さらに、様々な放射性物質、核種にさらされることになり、放射能は私たちの体に深くはいりこみ、島民の不安を増大させることになりました。

 ロンゲラップの指導者たちは、強い放射能により島民が死んでいく恐怖を目の当たりにし、子供たちのことを心配し、ロンゲラップから、再び、クワジェレン環礁のメジャットに非難することを決めました。そして、現在もこの島で暮らしています。故郷の島に帰ることは私たちの強い願いですが、将来安全に帰れるかどうかはわかりません。

この50年のあいだ、私たちは、他のどの人も経験したことのない形で、被爆させられました。世界各地に被爆者がいることは確かですが、私たちの被ばくには独特のものがあります。つまり、通常でいう被爆にくわえ、放射性物質に汚染されたまわりの環境と食物連鎖からも被爆しました。私たちの状況を調査してきた専門家によれば、私たちは、言葉を話し、命令にしたがう、という点でネズミよりましな存在とみなされていたのです。

今年、米ブッシュ大統領は、マーシャル諸島政府と新しい自由連合協定を結びました。この協定は、今から2023年まで続きます。ところが、その合意によって、私たちの医療や、土地・食物の汚染状況をモニターするための制度や助成金が大幅にカットされたり、完全に打ち切りにされました。それだけにとどまらず、アメリカがすでにその責任を認めた被害に対してさえ、私たちに補償するかどうか定かでありません。

アメリカ合衆国は、マーシャルを決して見捨てはしないと約束してきました。彼らが、ロンゲラップ島民だけでなく、マーシャル諸島全体の島民にもたらした被害をみるなら、アメリカの態度は、真っ向から信義を裏切っています。これも、アメリカが、果たしてこなかった長い約束リストのうちのひとつにすぎないかもしれませんが。

今年は、ロンゲラップ島民が島を捨て、メジャット島に避難してから20年にあたります。グリーン・ピースの助けを得て、レインボー・ウォリアー号という船で避難しました。その船は、仏核実験に抗議するためメジャット島からフランス領ポリネシアへ向かう途中、1985年、ニュージーランドのオークランド港で爆破されました。私たちは、20周年を記念する集会を開く計画がありますので、皆さんもマーシャル諸島へ是非いらして下さい。

 また、私たちは核実験の被害者として、5月のNPTの会議にも参加したいと思っています。ロンゲラップの被ばく者は、ニューヨークに行き、核兵器廃絶への支持を表明しなければならないと思います。また、私は国会議員として、廃絶をすすめるための条約や法律の批准などを進めていきたいと思います。
最後になりますが、ロンゲラップ平和ミュージアムの設立に協力して下さった全ての方々に感謝申し上げます。今年中には完成させるつもりです。そして、マーシャル諸島、とりわけロンゲラップの人々に対する皆さんの変わらぬ友情に感謝します。私ごとですが、ジョン・アンジャインの家族として、ジョンが生前皆さんから受けていた暖かい友情に感謝いたします。ジョンが亡くなる前に、私に、最後の旅となった日本でのようすを語ってくれました。彼も病気や体の痛みに苦しみましたが、最期は幸せに死んでいきました。みなさんは真の友人です。ジョンの死は決して犬死ではありません。

日本原水協とビキニデー集会の主催者に、この集会の成功を祝いたいと思います。そして、ここに参加されている若い方々に、平和と正義のたたかいを引き継いでいってほしいと思います。

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