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ビキニ事件(第五福竜丸事件)コミュの【ビキニ事件記事】

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コメント(28)

軍人も被害に 米「放射能人体実験」 ビキニ環礁などで実施
【ワシントン15日河野俊史】冷戦時代、米政府主導で行われた「放射能人体実験」問題で、15日までに公表された資料や議会報告書から、市民のほかに多数の軍関係者や復員兵が“実験台”になっていた構図が浮かび上がった。国防総省や復員軍人省は当時の内部資料の調査を進めている。
その1つが、水爆のキノコ雲が人体に与える影響を調べる実験。下院エネルギー保全小委員会が1986年10月に作成していた報告書によると、人体実験は西太平洋のビキニ、エニウェトク両環礁で56年5月から7月にかけて行われた一連の水爆実験(レッドウイング作戦)の際に実施された。
米空軍の5機のB57が、水爆爆発後20分から78分の間に27回にわたってキノコ雲の中を横断飛行、乗員の被ばくの状態が測定された。この実験で乗員7人が許容被ばく線量(年間5レントゲン)を超えたとして復員軍人局(復員軍人省の前身)の病院で特別検査を受けたとされる。(毎日新聞 1994/01/16)

死の灰、旅客機で運ぶ 英、50年代に「極秘」で 英紙報道
【ロンドン6日=尾関章】英国が中部太平洋のクリスマス島で1950年代に行った水爆実験の後、キノコ雲から採取した高レベル放射性の死の灰を、ひそかに民間の旅客機で英国に運んでいた、と英日曜紙オブザーバーが6日伝えた。
この報道は、英政府が長く「極秘」扱いにしていた資料などに基づく。それによると、当時の水爆実験では、直後に英空軍機が雲の中を飛んでちり状の灰を採取した。このとき搭乗員が浴びた放射線は、当時の安全基準の30倍を超える量だった。
これらの灰は、外交官用の荷物として持ち出され、オーストラリアに拠点を置くカンタス航空の旅客便で、ホノルル、サンフランシスコ、ニューヨークを通ってロンドンに運ばれた。
航空会社にも知らされていなかったが、米政府には内々に知らされた、という。(朝日新聞 1994/02/07)

住民に「死の灰」 米は承知で実験 公聴会で証言
【ワシントン24日=坂口智】住民に「死の灰」の被害が及ぶ風向きだったのを承知の上で米政府は実験を強行した――1954年のビキニ水爆実験について、突然の風向きの変化によって風下のロンゲラップ環礁の住民などに予期せぬ被害が出たとする、これまでの米政府の説明を覆す政府文書の存在が24日、明らかになった。
文書を発見したのは、ビキニの島民を代表する弁護士のジョナサン・ワイスガル氏。情報公開法を利用して関連文書を入手した。
同氏は、この日行われた米下院天然資源委の公聴会で証言し、「風向きが変わったのを知って、米海軍艦船を危険区域から移動させながら、住民の安全には構わず、実験を延期しなかった」と米政府の対応を厳しく批判した。議員の中からは、「事実上の人体実験」という声も出た。
ビキニ実験が及ぼした被害については、米政府が地元住民に約1億8000万ドルの補償金を払って一応決着を見ている。が、双方は、新事実が明らかになった場合は、この決着を見直すことで合意している。今回、米政府が事実を隠していたことが濃厚になったことで、今後一層の補償措置が問題となる可能性が出てきた。(朝日新聞 1994/02/25)
核実験やその除染で100万人被ばくと推定
米国で1950年代に行われた核実験で被ばくした軍人は100万人にのぼる可能性があると、被ばく退役軍人協会のオスカー・ローゼン博士が23日、米議会から委任された委員会の調査に対して証言した。
米政府によると、広島、長崎への長崎投下のあと、235回の大気圏内核実験に約20万の部隊が参加、除染作業にも約20万が参加したという。これに対し、博士は被ばくした軍人は約100万人と推定。この中には、潜水艦の乗組員や核兵器取り扱い作業者、墜落機の救助参加者らが含まれるとしている。
別の証言では、638人の被ばく退役軍人へのアンケートで、重度の遺伝的障害とがんにかかっている子供がそれぞれ26%、骨の欠損障害を持っている子供が20%いることなどがわかったという。(AP)(朝日新聞 1995/01/25)

核実験後の爆心への軍事演習「恐怖克服のため」 米内部文書
【ワシントン1日河野俊史】1950年代、ネバダ州での核実験に合わせて行われた米軍の軍事演習は、広島・長崎の原爆投下で高まっていた放射能に対する恐怖を抑え込むのが目的だったことが、国防総省の内部文書で分かった。対ソ核戦争は避けられないとの認識を持っていた米軍指導部は被爆を恐れる下士官たちを「戦闘に好ましくない心理状態」と懸念、被爆承知の“ショック療法”を実行したという。
問題の軍事演習は51年から57年にかけて8回にわたり行われた「砂漠の岩」作戦。核実験場の爆心近くに部隊を配置、核爆発の直後に爆心に向けて進攻するもので、少なくとも4万人が参加していた。
今回明らかになった内部文書は当時の「米軍特別兵器計画」に関するもので、核人体実験を調査しているクリントン政権の大統領諮問委員会とAP通信が国立公文書館で入手した。
53年2月27日付の報告書は演習について「兵士の心理から、放射線被害など核爆発をめぐる迷信を取り除かなければならない」と指摘。対ソ核戦争を控えて「心理的操作」が不可欠だとの認識を明らかにしている。(毎日新聞 1995/06/02)

米が核の人体実験検討 51年に29項目 ビキニ関係者が文書入手
広島市で28日開幕した世界平和連帯都市市長会議・アジア・太平洋地域会議に出席したマーシャル諸島の関係者が、米国が太平洋で原水爆実験を繰り返していた1951−52年、核戦争の調査には人体実験が不可欠と米国政府内で考え、具体的に実験項目を検討したことを示す資料の存在を明らかにした。「米国公文書館から入手した」といい、最近、相次いで明るみに出ている米国の核人体実験の証拠の1つとしている。
明らかにしたのは、ビキニ・アトール市の代表に随行している米国人法律顧問、ジョナサン・ウェイスガル氏。米軍医療政策委員会が52年、国防省長官にあてたメモは「核及び生物化学戦争の調査は、人体実験なしにはデータを得られない時点まで到達している。委員会は、この種の調査に人体を利用することを満場一致で承認した」と記しているという。
ウェイスガル氏は、その前年に米国防省医療団が、29の放射能実験を提案した文書も入手。生存者体内の放射能汚染、核爆発のせん光の目への影響、核実験人員の体液の放射性同位体の測定などの項目があり、「将来の核兵器テストに、生物学者や医師の参加が必要と考えるべきだ」と結論付けているという。(毎日新聞 1995/06/29)
50−60年代の核実験 “死の灰”全米に拡散 国立がん研究所報告
【ワシントン25日時事】米ネバダ砂漠で1950年代から60年代初めにかけて行われた核実験の際、放射性同位体ヨウ素131が風に流され、全米各州に降雨などとともに降り注いでいたことが国立がん研究所の報告でこのほど明らかになった。
同報告では住民への健康被害の程度は明らかではないが、汚染された牧草を食べた牛のミルクを飲んだ当時の子供たちへの影響が懸念されるという。
同研究所がまとめた報告は、9月下旬にも正式に公表される。25日付の米紙USAトゥデーによると、核実験に伴う放射性物質の拡散はネバダ砂漠に近いネバダ、ユタ、アリゾナ3州にとどまらず、中西部穀倉地帯やロッキー山脈山岳地帯、遠くは東部のニューヨーク州にまで届いていた。
ネバダ州などの周辺住民は以前から核実験とがん発生について因果関係があるのではないかと主張しているが、同報告ではこの点について結論付けていない。しかし放射性物質が全米に広く拡散したことが明らかになったことで、核実験の人体への影響があらためて問題となりそうだ。(中日新聞 1997/07/26)

多数の子供に発がんの恐れ 50−60年代の米核実験被ばく
【ワシントン30日共同】米国が1950年代から60年代初めにかけてネバダ核実験場(ネバダ州)で実施した大気圏核実験の影響で放射性物質が大気に放出され、汚染した牛乳を飲んだ多数の子供が、発がんの危険があるとされる1グレイ(100ラド)を超える被ばくをしていた可能性が強いことが30日、米国立がん研究所がまとめた調査報告書案の概略で明らかになった。
過去の放射能実測、気象データを基に当時の米本土人口約1億6000万人を対象に甲状腺(せん)の推定被ばく線量を解析した結果、平均値は0.02グレイに達していた。自然放射線による甲状腺の被ばく量に比べて異常に高く、米国内に核実験による隠れた被ばく者が多数存在することを示唆する初の公的調査結果として注目される。
同研究所は年内の報告書公表に向け最後の作業を急いでいるが、共同通信が入手した報告書案概要や関係者によると、ネバダ核実験場で120回以上実施された大気圏核実験で放射性同位体ヨウ素131が風に流され拡散した。
これによる甲状腺の吸収放射線量の推定値は調査対象となった48州、3071郡で平均0.02グレイ。核実験場に近い地域や一部東部地域では0.05から0.16グレイだった。
特に汚染牛乳を多く飲んだとみられる3カ月から5歳の子供の被ばく線量はこの10倍に達するとの解析結果が出され、相当数の子供が最大1.6グレイも被ばくした可能性があると推測した。
日本の専門家によると、被ばく線量が1グレイを超せば、甲状腺のがんや機能低下症が起きても不思議はないという。
同研究所は州ごとの推定被ばく線量などは明らかにしていないが、関係者は、被ばくが多い州は実験場に近いユタ州などのほか、ニューヨーク、ノースカロライナ、マサチューセッツなど東部の州も含まれるとしている。
調査は米議会の議決により1983年に米厚生省が中心になって開始。国立がん研究所は51年から62年まで実施した大気圏核実験の際の全米95カ所の放射能観測データを基に、記録に残る実験時の風力や風向き、降水量データをコンピュータで解析し、住民の吸収被ばく線量を推定した。

甲状腺(せん)の被ばく
放射性物質のヨウ素131は、体内に取り込まれると甲状腺に蓄積され、被ばく線量が1グレイを超すとがんや機能低下症になりやすく、特に子供への影響が大きいとされる。チェルノブイリ原発事故では、被ばくから5−10年で、子供を中心に500人を超す甲状腺がんが発生した。グレイは物質が放射線から受け取るエネルギーを表す吸収線量の単位で、1グレイは100ラドに当たる。(中日新聞 1997/07/31)

7万5000人に発がんも 米核実験被ばく
【ワシントン1日共同】米国立がん研究所は1日、米国が1950年代から60年代にかけてネバダ核実験場(ネバダ州)で行った大気圏核実験の被ばく調査の中間報告書を公表。当時15歳以下の子供を中心に推定1万−7万5000人が、放射性物質や汚染牛乳の影響で甲状腺(せん)がんになった可能性があることを明らかにした。
同研究所はまた、放出された放射性同位体ヨウ素131の市民1人あたりの推定吸収線量を郡単位で分析した地図を発表。ネバダ州に近いアイダホ、モンタナ各州の一部地域で最大0.16グレイ(16ラド)と推定するなど、風による拡散や汚染牛乳による被ばくが、中西部を中心に米本土の広範囲な地域に及んでいることを示唆した。
同研究所は、ヨウ素131の吸収と発がんリスクの関係など「まだ不確定な要素が大きい」として、チェルノブイリ原発事故を経験したウクライナ、ベラルーシの研究者との共同研究など調査を続けるが、今年10月の最終報告書発表を前に、政府の責任追及や損害賠償を求める動きが広がることも予想される。
報告書は、生後3カ月から5歳以下の子供が牛乳を多量の飲む上、ヨウ素131が蓄積される甲状腺も小さいため、最も被ばくの危険が大きいと指摘。これらの子供たちは平均値の3−7倍も吸収する可能性があるとしている。この結果、子供は最高で、一般に発がんの可能性があるとされる1グレイ以上の線量を吸収したことになる。
報告書はまた、放射性物質の拡散に関連して発がんした可能性があるとされる最大7万5000人は、大部分が当時15歳以下の子供としその4分の3は5歳以下と推定。甲状腺の被ばく線量を地域別に示した地図によると、当時の米国の平均値である0.02グレイを上回るのは、モンタナ、アイダホ各州となっている。(中日新聞 1997/08/02)
ビキニ核実験「人体影響調査」意図か 前年の文書に研究項目列記
マーシャル政府、米に調査要求
【ワシントン4日=石合力】米国が冷戦さなかの1954年3月に太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で実施し、島民や日本のマグロ漁船 「第五福竜丸」乗組員らが被ばくした水爆実験「ブラボー」をめぐり、米エネルギー省がマーシャル諸島共和国政府にこのほど公開した当時の公文書に、島民らを対象に米軍が実施した「偶発的被ばく者」の研究の報告書と、この研究の事前計画の可能性を示唆する文書が含まれていることがわかった。マーシャル政府は米議会に事実関係の再調査を求めている。米国は被ばくは偶発的に起きた事故で、研究も「医療を目的としたもの」としているが、報告書は「動物、できれば人体でさらに研究を進める必要がある」と結論づけるなど、調査・研究色の濃い内容になっている。
米軍が行った研究は「放射性降下物で偶発的に被ばくした人間の反応の研究――プロジェクト4・1」。94年以降、マーシャル側に公開された計約2万ページの公文書に報告書が含まれていた。被ばくした妊婦12人を含む島民253人を対象に、白血球数など血液の変化のほか、放射能による皮膚のやけど、つめの変化などについて分析している。
エネルギー省の説明では、風向きなどで島民に予期しない放射能被害が生じたため、海軍医だったユージン・クロンカイト医師らを中心とする医学チームを緊急に組織し調査した。現在もブルックヘブン米国立研究所(ニューヨーク州)が、人体への長期的影響などの調査を続けている。
この研究の「事前計画を示唆する文書」としてマーシャル側が注目しているのは、前年の53年11月に軍などの合同任務部隊が、実験に必要なデータ収集の項目、担当者などを記した「科学プログラムの概要」。「爆発規模の測定」や「放射能の影響」など全19項目のうち、第4項目「生物医学研究」の第一の研究課題であることを示す「4・1」項に、「大規模兵器からの降下物によるベータ、ガンマ線に被ばくした人間の反応の研究」と記されている。
このためマーシャル側は、この研究課題の結果をまとめたのが「プロジェクト4・1」報告書だと主張、事前に計画があったとする根拠としている。
だが、53年文書の「4・1」の項目は文書に別紙をはり付けた形になっており、ブルックヘブン研究所は、議会に研究予算を承認させるため「実験後に追加されたものだ」と説明。エネルギー省は、だれがなぜ、いつ追加したかについては確認できないとしている。
一方、在米マーシャル外交筋は、すでに米上院エネルギー委員会、下院天然資源委員会などに事実関係の再調査を要請しているとした上で、「文書は、米国がマーシャル住民らを対象に放射能の人体への影響を計画的に調べようとしていたとの疑いを強く抱かせるものだ」と述べ、「人体実験」への疑念を示した。
「事前計画」の可能性をめぐっては、同研究文書が公開される前の94年、マーシャル政府が米議会で「米軍は実験場の風向きの変化を事前に予測できたのに、住民を避難させなかった」などと証言した。

ビキニ核実験
米国が信託統治領だったマーシャル諸島で実施した核実験は1946年から58年まで計67回。ブラボーは広島原爆の約1000倍にあたる15メガトン級で最大規模だった。エネルギー省の前身の原子力委員会(AEC)と、各軍で構成する合同任務部隊(JTF7)が実施。科学、軍事両面からデータ収集を進めた。(朝日新聞 1998/01/05)

ビキニ実験「人体研究」 「事故後の医療目的」強調
指揮のクロンカイト医師に聞く
【ワシントン4日=石合力】ビキニ環礁での水爆実験(1954年)で、人体研究「プロジェクト4・1」を指揮したユージン・クロンカイト医師(83)は昨年12月中旬、ニューヨーク州の自宅で朝日新聞記者のインタビューに応じた。主なやりとりは次の通り。

――この調査の目的は?
調査とは事前に計画したうえで実施するものだ。これは事故後に、被ばくした米兵とマーシャル人の手当てをするためのものだ。

――なぜ、「4・1」と命名されたのか。
その質問に私は答えられない。最初からそういう名前だったからだ。(核実験を統括した各軍の)合同任務部隊が決めたのではないかと思う。

――53年の文書をどうみるか。
単なる作りごとだと思う。陸軍によっていくつかの動物実験は事前に計画されていたが、その後、不必要と削除された。

――医療目的の研究というが、「勧告」では医療にほとんど触れていない。
これは、どのような情報がさらに必要かを勧告するより科学的な文書で、別にマーシャル人の生涯研究を勧告した文書がある。

――なぜ、研究対象を4島だけに絞ったのか。
その質問には答えられない。なぜ、彼らを避難させられなかったのか、知らない。軍が放射能を測定し、医学的に問題ないと結論づけたのだろう。

――その決定は、科学者として正当と思うか。
合理的だ。重要なのは、ソ連の恐怖から実験プログラムの実施が急務だったということだ。当時、彼らは我々より進んでいたのだ。

略歴
1942年に海軍入り。専門は血液学で46年にビキニ核実験の担当血液学者に任命される。54年に「4・1」を指揮。同年秋、ブルックヘブン国立研究所に移り、今もビキニ実験被ばく者の研究をしている。

島住民の疑念さらに強まる
<解説>米軍がビキ二水爆実験で被ばくしたマーシャル諸島の住民らを対象に実施した人体研究「プロジェクト4・1」は、全島が被ばくしたにもかかわらず、約250人だけを対象に選び、報告書が出た後も、現在に至るまで40年以上にわたり長期調査を続けてきた。米エネルギー省は「医療」と主張するが、報告書はデータを「被ばくした人間の最も完全なデータセット」と呼ぶ。事前に計画を示唆する米公文書の存在は、マーシャルの人々の「人体実験ではないか」との疑念を強めた。
この被ばくが「意図的」だったとの疑惑は、これまでも示されてきた。米政府文書によれば、被ばくが判明した後、米兵はシェルターに退避し、34時間以内に全員救出されたが、地元住民は、最も早い環礁で50時間も放置された。
研究を指揮したクロン力イト医師も「ビキ二実験では、それまで行われていた住民の事前避難が、予算上の理由で実施されなかった」ことを明らかにしている。「偶発的」の根拠とされている「風向きの変化」についても、マーシャル側は、米政府が気象学者らの事前の警告を無視して実験を強行したと指摘してきた。
ビキ二核実験にたずさわった原子力委や軍部の当局者の多くは亡くなり、生存者が「研究は後で追加されたもの」と口をそろえるなか、「事前計画」の立証は難しい。カギを握るのはやはり「情報公闇」だろう。
今回の文書公開のきっかけともなったオリアリー前長官の「公開政策」が復活すれぱ、エネルギー省が自らの公文書でそれを証明する時代が来るかもしれない。(ワシントン=石合 力)

<報告書要旨>
4日明らかになった米エネルギー省のプロジェクト4・1最終報告書「放射性降下物に偶発的に被ばくした人間の反応の研究」の抜粋は次の通り。

【目的】(1)放射性降下物で被ばくした程度の調査(2)被ばく者への治療提供(3)放射線による負傷の科学的研究を行う。
【被ばく者の状況】最大の被ばくをした現地住民は、ヤシの葉で簡単に造った家に住み比較的原始的な生活をしていた。
米軍の要員は放射性降下物の危険性を知っており、皮膚を守るため即座に重ね着をした。軍の任務に差し支えない限り、アルミ製シェルターに避難し続けた。現地住民でも降下時に泳ぎに行っていた子どもらは、水の中で多量の放射性物質が皮膚から洗い落とされた。
【爪(つめ)の変色】被ばく後23日目に、指の爪が青茶に変わる現象が観察された。変色が全体に及ぶと爪がはがれる現象が数例、観察された。変色は白人にはなかったことから、放射綜に対する有色人種に特有の反応とみられる。
【結論】(放射線の)べー夕線による皮膚の損傷について次の結論が導き出される。(1)核爆発地点から相当の距離があっても、放射性降下物による深刻な皮膚損傷が起きる可能性がある(2)広い範囲の皮膚損傷があっても、体内や血液への影響はほとんど見られない(3)迅速な皮膚の汚染除去が必要(4)皮膚損傷の兆候が見られる前の潜伏期間が数日から3、4週間ある(5)重ね着またはシェルターヘの避難により皮膚はほほ完全に防護される。
【放射能による体内汚染】現地住民と米国人グループの各体内の平均的なベータ線の状況を比較すると、ほぼ同じ被ばく量であるにもかかわらず米国人のほうが体内汚染の程度がやや低い。この違いは、現地住民が避難するまで汚染された食べ物や飲み物をとり続けたためとみられる。
【勧告】次の分類に従って実験室で追加データを得るための措置がとられるべきである。(1)ガンマ線に被ばくした大きな動物、できれば人体の血液反応。通常の被ばく後30日間を過ぎた、できれば最低1年経過後のデータが必要(2)ベータ線のエネルギーを変えるなどした際の人間の皮膚の反応。(朝日新聞 1998/01/05)

ビキニ核実験 致死放射線量を推定 「広島・長崎」と比較 元軍医ら認める
【ワシントン5日=石合力】米国が太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で1954年3月に行った水爆実験の際、被ばくした島民らを対象にした米軍の人体研究「プロジェクト4・1」で、広島、長崎の被ばく者のデータと比較して、核兵器使用を想定した作戦立案に欠かせない人間の致死放射線量を導き出していたことが、研究報告書や担当した元軍医の証言で明らかになった。この研究については、実験の前年から計画していた可能性を示唆する別の米軍文書が見つかっており、マーシャル政府は「人体実験の疑いがある」と米議会に調査を求めている。被ばく者のデータは、米国が広島、長崎につくった原爆傷害調査委員会(ABCC)=現・財団法人放射線影響研究所=によるもので、それが「灰色」の研究で軍事目的に使われていた。
米政府がマーシャル側に公開した研究報告書によると、広島・長崎で死亡した人の多くは、白血球の一種で殺菌機能を持つ好中球数が、1立方ミリ当たり1000以下と正常値を大きく下回っていた。動物実験では球数が1000以下に減る放射線の線量は50―100ラド(当時の単位でリンコン)と出ていたため、人間では100―200ラドと推定し、島民が浴びた線量と球数との関係を比較研究した。
最も被ばくの程度が大きかったロンゲラップ環礁住民の約4割が球数1000―2000だったが、病気の兆候はなく健康だった。このため、付近の空気中の線量約175ラドより50―100ラド高ければ死者が出ていたと推定し、人間が死に至る放射線の量を示す「最小致死吸収線量(MLD)」を約225ラドとしている。
当時軍医として研究を指揮したユージン・クロンカイト氏(現・ブルックヘブン米国立研究所)は朝日新聞記者に、「この推定値を得られるかが軍部が指示した研究の主要課題の1つだった」と語り、医療だけでなく軍事目的が含まれていたことを認めた。
MLDは「4・1」研究以前から推定されてはいたが、極めて高い数値となっており、「この研究で放射能の危険性への懸念が強まった」という。
ABCCは、原爆放射線被ばくの健康に及ぼす影響に関する長期的調査を目的にエネルギー省の前身、米原子力委員会(AEC)の資金提供で47年に設立された。翌年に調査を始めたが、被爆者から「検査ばかりで治療しない」との批判が相次いだ。ABCCの活動を引き継いで75年に日米合同でつくった放影研は、設立目的に「平和目的の下に、放射線の人に及ぼす医学的影響を調査研究」するとうたっている。

「偶発」説明 強まる疑念
<解説>ソ連との核軍拡競争のさなかだったビキニ実験当時、米軍がどうしてもほしかったデータがMLDだった。研究を指揮した医師は、このデータを得ることが軍が命じた主要課題の1つだったと明かしている。「主目的はあくまで医療」(米エネルギー省)と説明される研究に軍事目的もあったことは、マーシャル政府の疑念を強めるものといえる。
報告書を見ると、MLDは動物実験と「広島・長崎」に「ビキニ」が加わることで、初めて有効な推定が可能になったことがわかる。被ばくが「偶発的事故」だったならば、米軍にとって、これほど絶妙の事故はなかっただろう。
同時に報告書は、広島や長崎で被ばくした人たちが抱いてきた「検査ばかりで治療しない」というABCCに対する批判が的を射ていたことも示している。
ABCCが集めたデータは、原発事故の被害者治療や放射線を扱う職場の安全基準作りなどでも役立った。だが、ビキニ「核実験」は、そこで生活する人々にとっては、まさに「核戦争」だったことも忘れるわけにはいかない。(ワシントン=石合 力)(朝日新聞 1998/01/06)

米核実験のマーシャル諸島 財源細る被ばく補償
若年層にも被害が拡大 米からの基金支払い膨らむ
米国が冷戦期に実施した核実験の放射能汚染に苦しむマーシャル諸島共和国で、被害補償のため米政府からの基金をもとに設立された核損害賠償裁判所(本部・マジュロ)が、深刻な財源不足に陥っている。健康に障害を訴える人々が予想以上に増えたためで、支払いが追いつかないだけでなく、全額を受け取る前に亡くなる高齢者も目立つ。この裁判所の財源難は、マーシャル政府が、核の「人体実験」疑惑を理由にして米国に追加補償を求める動きの背景にもなっている。(マジュロ〈マーシャル諸島共和国〉=石合 力)

甲状せん7割
「ロンゲラップにいた人なら珍しいことではない」。避難先のマジュロに住むハリー・ボアズさん(51)は、首もとの手術跡を見せた。6歳で被ばくし、30歳を過ぎてから甲状せんがんの手術を受けた。心臓発作で昨年倒れ、伝道者の職を失った。
1946年から58年まで続いた核実験から長年を経た今、特に目立つのは甲状せんの異常だ。88年から補償の支給を始めた裁判所に対し、放射線に起因する病気にかかって補償を申請した計1500人の約7割を占める。実験後に生まれた若年層にも被害が広がっているという。
被害補償を盛り込んだ自由連合協定を締結した82年、米国は、被ばくの範囲をロンゲラップなど実験場周辺の環礁に限定していた。裁判所は米の公文書などから91年、マーシャル諸島全体を申請の対象に拡大した。米国は95年になって大統領諮問委員会の報告書で全島への被害を公式に認めたが、基金1億5000万ドルは増額されなかった。基金による「医療ケア」は4つの環礁だけが対象だ。
マーシャルに住む米国人で裁判所の広報担当ビル・グラハムさん(51)は、「米国がケアの対象にしていない島で93年から東北大の医療チームの協力で健康調査を実施したところ、甲状せんの異常が相次いで見つかった。これも申請急増の理由だ」と話す。

「米と不公平」
申請の増加に伴い、支払額も増えた。97年までの支払総額は6300万ドルを超え、協定が発効した86年から2001年までの15年間に見込まれていた運用益約4500万ドルを大きく上回っている。
この結果、病名ごとに定めた規定額の半分以上を申請時に受け取っていたのが、96年からは25%に減額された。97年以降、規定額の数パーセントしか支給できない。いま発病して2年で亡くなれば、本人の受取額は3割だけだ。
規定額は、米国が実験場の風下にあたるネバダ、ユタ、アリゾナ州の当時の住民らを対象にした「被ばく補償法」に準じて定めている。が、米国市民は申請時に全額を受け取れるのに比べて違いは大きい。同諸島のミュラー外相は「核実験でモルモット扱いされたうえ、米国の被害者よりも受取額が少ないのは不公平だ」と話す。
基金は、マーシャル政府が米民間投資会社などに委託して運用している。87年秋の株価大暴落で大きく目減りしたこともあり、今は1億ドル弱まで落ち込んだ。米国経済が好調を維持しても、十分な運用益を出すのは難しい状況だ。

協定に反対も
裁判所は、健康被害の補償のほか、死の灰で汚染され使えなくなった土地の賠償も扱うことになっている。当面、被害の大きいビキニ、エニウェトク、ロンゲラップの3環礁を優先して進めている。被害総額は、少なくとも数億ドル。
「ほとんど算定不可能でだれも分からない」(グラハム氏)のが実態だ。
これらの環礁の人々は協定発効前、米連邦地裁に損害賠償を申し立てていた。ところが、協定は核損害賠償裁判所が「唯一の窓口」と定めているため、独立後に訴えは門前払いされた。
ビキ二環礁の代理人、ジャック・ニーデンタールさん(40)は、「ビキニの人々は、補償が不十分だとして、8割以上が協定を結ぶのに反対していた。追加補償を求める動きは遅すぎる」と政府を批判する。
「核実験に関する過去、現在、将来のあらゆる請求権の完全な解決として制定」した、とうたう協定と、マーシャルが抱える現実との差は余りにも大きい。

自由連合協定
米国の信託統治領だったマーシャル諸島共和国が、内政と外交は自国で行う一方、安全保障を米国にゆだねて基地を提供する代わりに、経済援助を得ることを取り決めた。 86年10月の協定発効でマーシャル諸島は事実上独立した。協定のうち経済援助を得る条項は2001年に見直される。核被害補償に関しては、新事実が明らかになった場合、見直しできる規定がある。ミクロネシア連邦、パラオ(ベラウ)共和国も同様の協定を米国と結んでいる。(朝日新聞1998/01/14)


ビキニ核実験
マーシャル諸島への「医療ケア」
人体実験 消えぬ疑惑

1954年のビキ二核実験による放射性降下物で被ばくした南太平洋マーシャル諸島の住民らを対象に米国が実施した「人体研究プロジェクト」は、事前計画の可能性を示唆する公文書の存在が明らかになっただけでなく、研究内容自体に「人体実験的」な要素を否定できない事実が次第に明るみに出つつある。にもかかわらず、プロジェクトにかかわった元軍医や軍から研究を引き継いだ米エネルギー省は「医療ケアを目的としたもの」との姿勢を変えていない。米国は冷戦時代、核戦争に備えたデータ収集のため、市民へのプルトニウム注射など、一連の放射能人体実験を実施しており、軍のプロジェクトだった同研究の意味もこうした文脈のなかで位置づける必要がある。人体、環境への被害算定の見直しや、研究の対象となった住民への情報公開にもとづく真の「医療ケア」の実施も急務だ。(アメリカ総局=石合 力)


人種差別的要素指摘も

マーシャル住民らに実施した人体研究「プロジェクト4・1」は、これまで「医療ケア」プログラムとして知られていた。同研究の存在が明るみに出たことで、「ケア」の裏側で「放射能が人体に長期的に及ぼす影響」についての徹底的なデータ収集を進めていたことが判明した。現在も研究はエネルギー省の手で続けられており、特定の被ばく者集団を対象に40年以上にわたって追跡調査されたデータは、原爆傷害調査委員会(ABCC、放射線影響研究所の前身)が集めた広島、長崎の被爆者データとともに同省健康研究室で一括して管理されている。
セリグマン同省次官補代理(同室長)は、一連の資料を「完全なデータセット」と呼び、放射能の人体への影響を調べるうえでの基本資料であることを隠さない。マーシャル側が「モルモット扱いだ」と批判してきたのも調査目的の「2面性」とかかわる。
これまでの調査から、「医療ケア」では説明できない事例も判明している。赤血球の追跡調査目的で、放射性クロムを注射した事例と、主として被ばく直後に放射性物質の除去のために使われるエチレンジアミン4酢酸(EDTA)という物質を被ばくから7週間たってから投与した例だ。米軍による一連の「放射能人体実験」について調査した米大統領諮問委員会は95年、「全体が人体実験だったとはいえない」としながらも、2例は患者の治療目的を逸脱した研究だったと結論づけた。
こうした事例について、米政府は当時、マーシャル住民への説明や同意を得ずに実施したうえ、現在も「担当医師のプライバシー」などを理由に、対象にした住民らの氏名公表に応じていない。
マーシャル側は、独自調査で少なくとも20人以上が放射性物質を注射されたことを突き止め、うち生存者5人も特定した。ロンゲラップ環礁の議員ナビ・クンさんの母アトミネさん(58)もその1人で、乳がんや脳しゅように苦しんでいる。クン議員は、「本人への情報開示がないため、『実験』との因果関係を調べることが難しい」と話す。これに対し、研究にかかわった医師らは現在でも「ケアのために必要な措置だった」と強弁する。エネルギー省当局者はマーシャル側に「注射は、X線検査のようなもので害はない」と説明したという。
放射能実験にかかわる人権問題に詳しい米国人弁護士クーパー・ブラウン氏によると、米側が実施した被ばく者の甲状せん摘出手術についても、「摘出する必要がないのに、放射能以外の原因のがんや肥大との比較研究のために摘出された疑いがある」という。ブラウン氏は同時に、当時の米原子力委について、「(マーシャル住民は)文明化されていないが、ネズミよりは我々に近いと公言する幹部もいた」と述べ、人体実験の対象になったアラスカ先住民らと同様、「人種差別的」な要素が合まれていた疑いを提起する。


「意図的被ばく」傍証次々

被ばくについて、「爆発規模や気象の変化を予測できなかったための事故」と説明する米側に対し、マーシャル側は「意図的な被ばく」だったとする様々な傍証を提示している。
(1)米側は、気象変化について気象学者らの警告を事前に受けながら無視し、実験を強行した。
(2)死の灰が出ることが予測されていたうえ、過去の実験から居住地域に向かうことがわかっていた。
(3)ロンゲラップなど風下の4環礁の住民に対し、意図的に事前警告をせず、避難措置もとらなかった。
(4)米兵は34時間以内に救出されたのに、住民の救出には最大4日かかった。同程度被ばくしたアイルック環礁には避難措置はなく汚染した水や食料でさらに被ばくした。
(5)汚染の残るロンゲラップ環礁に対する安全宣言を出して避難した住民を帰還させ、人体への放射能の長期的影響を調べた。
(6)全島が被ばくしたにもかかわらず、人体研究の対象となった環礁以外では、医療援助や総合的な検診がない──などだ。
事前の避難や警告がなく、被ばく後も数日間、放置されたことについて、米側は「予算上の理由」から、「事前の避難が実施できず、避難に必要な船舶も十分用意できなかった」と説明する。4環礁だけを研究対象にしたことについて、担当医師らは「命令を受けた時点で、ほかの環礁の汚染は低いとの報告を受けていた」と話す。「研究はケア目的」と主張する医師が、軍の報告だけをもとにほかの島の住民のケアを無視したとの説明はあまりにも非科学的だ。
被害がマーシャル全体に広がっていることが確認された後も、プロジェクトの対象範囲は拡大されず、その内容も年に2回、医師団が訪れて血液や尿などのデータを収集する程度だった。


ネバダの100倍規模

興味深い地図がある=図(※江原注:割愛)。米ネバダ核実験場とその風下の被ばく地域をマーシャル諸島に重ねたものだ。実験が同規模なら、ほぼマーシャル全域に被害が及んでいたことになる。米国はマーシャルの被ばく地域を限定し、「医療ケア」の対象も特定の環礁にいた住民だけに絞ってきた。一方で国内では、88年にネバダ実験に参加し、被ばくした軍人らへの健康補償法を制定したのに続き、90年にいわゆる「風下法」(被ばく補償法)を制定し、ネバダ実験場の風下にあたるネバダ、ユタ、アリゾナ州の当時の住民らも補償の対象に含めてきた。
ところが、爆発規模を比べるとマーシャルはネバダと「同規模」どころか、はるかに大きい。マーシャル住民への健康補償に応じる核損害賠償裁判所が入手した資料によると、ネバダでの大気圏核実験は51年から62年まで計87回。1回当たり最大の爆発で100キロトン。全実験の合計は1096キロトンだった。
これに対し、マーシャル住民らが被ばくした54年3月のビキ二核実験ブラボーの爆発規模は、1回でネバダの全実験の合計を14倍以上も上回る15メガトン(1メガトンは1000キロトン)。全67回の合計は108メガトンで約100倍に達する。
ネバダ実験では、空中や、地表に穴を開けたうえで爆発させたものが多く、放射性降下物の多くは、兵器自体だったのに対し、マーシャルでは多くが海面付近で実施されたために大量の海水や砂が放射能を帯びて巻き上げられた。「そのことを考慮すれば、被ばくの範囲は100倍以上になるはずだ」と同裁判所の関係者は指摘する。
昨年、米国立がん研究所は、ネバダ核実験で大気中に放出された放射性のヨウ素131の過剰摂取などから、当時15歳以下の子どもを中心に推定1万人から7万5000人が甲状せんがんになった可能性がある、と発表した。同調査の推定では、米本土全域の平均値は、胸部レントゲン約5回分にあたる2ラド、特に、ネバダ州に近い一部の州では、最大16ラドだった。これに対し、「4・1」報告書は、ビキ二実験によるロンゲラップ環礁の被ばくについて、約175ラドと推定している。


第3者調査求める声も

マーシャルでは、米国に対し、「真の意味での医療ケアの拡大」を求める一方で、日本など第3国による健康調査を求める声も高まっている。
米国人弁護士で現在、マーシャル政府から核損害賠償裁判事に任命されているグレゴリー・ダンツ氏は「47年に米国がマーシャルを信託統治領にした際の協定で定めた、信託領の住民の健康を保持するという規定を冒して核実験を強行した法的責任だけでなく、実験の被害の実態を認めようとしないのは道徳的責任でもある」と指摘。そのうえで、マーシャル政府が近く米政府に求める自由連合協定の経済補償規定の見直しが不調に終われば、「米政府を相手取る裁判の動きも出かねないだろう」と予測している。
1998年1月20日(共同通信)
各国指導者は核もてあそぶ 第五福竜丸の大石さん批判
太平洋ビキニ環礁で1954年、米国の水爆実験で被ばくした第五福竜丸の元乗組員の大石又七さん(69)は4日、広島市で開かれた原水爆禁止日本協議会(原水協)などの主催する国際会議に出席し「この半世紀、水爆実験のために人生を変えられた」と被ばく者としての苦しみを訴えた。
大石さんは「乗組員23人のうち半数の12人が亡くなり、わたしも肝臓がんになった。最初の子どもは死産だったが日本政府は『被ばくとは関係ない』と言って認めていない」と批判。
さらに「核兵器は人類の敵として反対運動が続けられてきたのに、なくなるどころかますます造られ、各国指導者たちがもてあそんでいる」とした上で「死を選ぶか、生きることを選ぶかは指導者ではなく、わたしたち1人ひとりの行動にかかっている」と力説した。(共同通信 2003/08/04)

CIA、水爆実験偵察疑い第五福竜丸調査 証拠なし
54年のビキニ水爆実験で、米国が設定した危険区域近くで操業中に被災したマグロ漁船・第五福竜丸に対し、米中央情報局(CIA)が実験を偵察していた「スパイ船」の疑いをかけ、調査報告書を米原子力委員会に出していたことが分かった。報告書の結論は「証拠なし」だったが、冷戦下、核開発にしのぎを削った米ソ対立の一端を示している。
CIA報告書(覚書)の表題は「水爆実験における福竜丸の被曝(ひばく)状況調査」(全文3ページ)。54年4月29日付で、秘密工作担当部局の責任者が、核実験を管理していた米原子力委員会の委員長あてに作成した。90年代後半に機密解除された米公文書の中から広島平和研究所の高橋博子研究員(34)が見つけた。
報告書によると、調査の主目的は「核爆発偵察のために危険区域に近づいた形跡はないか」「帰港前にソ連側の船と接触したのか」など。1カ月余り調査し、「正当な漁業目的があり、スパイ活動の証拠はない」と結論付けている。
一方、朝日新聞社が入手した米国務省作成のビキニ事件記録によると、54年4月3日、日本の外務省は乗組員の政治思想などを在日米大使館に提供。米の調査に協力していたこともわかった。
米国は当時、ビキニ環礁を囲む東西630キロ、南北280キロを危険区域とし、警戒していた。第五福竜丸は同区域の東方約30キロで被災した。米国は核情報の手がかりとなる死の灰がソ連側に渡ることと、反米宣伝の広がりを警戒しており、米原子力委がCIAに調査を指示したとみられる。(朝日新聞 2003/11/16)

ビキニ水爆実験:大学院生が被ばく者に聴き取り調査
1954年3月1日、現マーシャル諸島共和国のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験をめぐり、日本の大学院生が同環礁の南東約525キロにあるアイルック環礁の被ばく者48人に聴き取り調査を行った。被害実態が未解明で被ばく後の補償もないアイルック環礁での本格的な調査は初めて。日本の漁船「第五福竜丸」も被ばくしたこの実験から来年で50年。同国はアイルック環礁も含んだ補償を米議会に求めており、今後の動向が注目される。
調査したのは、早稲田大大学院アジア太平洋研究科の竹峰誠一郎さん(26)=千葉県松戸市。01年1〜7月の間、2回にわたりアイルック環礁に滞在し、48〜90歳の被ばく者48人から聴き取りをした。追加調査などを行い、今月8日、日本平和学会秋季全国研究集会で一部を発表した。
48人のうち、放射線被ばくの影響と見られる甲状腺腫瘍(しゅよう)があると答えたのは4人。「粉(死の灰)を浴びたところがかゆくなった」「夫と娘ががんで死んだ」など、自分や親しい人に被ばくによるとみられる健康被害を訴えたのも8人。流産や死産、障害を持った子どもが生まれたことを挙げた人は4人いた。竹峰さんは「答えなかった人の中にも、被害者はいるはず」と指摘する。
水爆実験の様子について、住民らは「空が黄色く光った」「“ボーム”という爆発音を聞いた」と表現。爆発の正体は分からず、危険な放射性降下物(死の灰)を触ってしまった人もいた。
実験の5日後、米特別調査隊が残留放射能調査のため到着し、この時初めて核実験だったことが分かった。しかし、住民たちは放射能汚染の重大さを知らず、避難しなかった。
マーシャル諸島共和国は86年に米国と自由連合協定を結び独立。協定の中で、ビキニ、エニウェトクなどの4環礁に対する核被害を認め、1億5000万ドルを拠出。しかし、アイルック環礁などの住民たちは追跡調査の対象にならず、補償もされていない。マーシャル政府は00年、4環礁以外の被ばく者への補償を米国に求めたが、回答はない。
竹峰さんは「ヒバクシャ自身が核実験をどう考えているかを明らかにしたかった。ヒバクシャの存在を忘れず、平和をどう取り戻していくかに目を向けてほしい」と話している。【中野彩子】(毎日新聞 2003/11/20)

病理標本、米側が独自調査 第五福竜丸事件から半世紀
【ラスベガス(米ネバダ州)8日共同】静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が1954年3月、中部太平洋・ビキニ環礁付近で米国の水爆実験による「死の灰」(放射性降下物)を浴びた事件で、半年後に死亡した無線長、久保山愛吉さん=当時(40)=の遺体の組織の一部が米国に渡り、病理標本となったことが8日、米ネバダ州のエネルギー省(DOE)核実験公文書館に保管されている内部文書で明らかになった。
それによると、久保山さんの組織は、ワシントンの米軍病理学研究所(AFIP)で標本にされ、同研究所と米原子力委員会(AEC、現DOE)の専門家が死因を調査したとされる。
久保山さんの死因をめぐっては当時、「放射能症」と発表した日本側と「輸血による黄疸(おうだん)」と主張する米国側との間で大きな食い違いがあった。(共同通信 2003/12/08)

米、マーシャル核実験被害者らへの医療援助打ち切りへ
太平洋マーシャル諸島で約半世紀前に実施された核実験の被害者らに米国が進めてきた医療援助などの健康管理事業が、今年末で打ち切られることがわかった。
米国はマーシャル諸島共和国の中で、1946年から58年にかけて核実験場にしたビキニ、エニウェトク両環礁と、風下で「死の灰」を浴びたロンゲラップ、ウトリック両環礁の計4環礁の島民とその子孫約1万6000人(同国の人口の約4分の1)を対象に、86年から毎年総額200万ドルを出資し、定期検診や巡回医療を実施してきた。
しかし本国の財政難や、被曝(ひばく)者ら核実験の直接被害者には既に1.5億ドルを拠出してがんなどの病気ごとに補償金を支払ってきたことから、健康管理事業については数年前から打ち切りの意向を表明してきた。
同事業の継続を米国側に求めてきたロンゲラップ環礁出身のアバッカ・マジソン上院議員が、朝日新聞記者の国際電話に、今年末で打ち切られることを明らかにした。同議員は「打ち切り決定でヒバクシャらは大きな衝撃を受けている。核実験による島民への健康被害は半世紀近くを経た今も続いており、米国には今後ともその責任を果たすよう再交渉していく」と話している。(朝日新聞 2003/12/08)

「計算ミス大量被ばくに」 ビキニ水爆目撃の米教授
【メンドシーノ(米カリフォルニア州)11日共同】ビキニ環礁で1954年3月に行われた米国の水爆実験を艦船上で目撃、その後住民の医学調査に携わったカリフォルニア大ロサンゼルス校のドナルド・パリヤ名誉教授(72)=病理学=が12日までに、共同通信の取材に応じ「北西の水平線いっぱいに太陽のような火の玉が上がった」と半世紀前の惨事を振り返った。
静岡県焼津市の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人やロンゲラップ環礁などの住民らが「死の灰」(放射性降下物)を浴びた水爆実験をめぐっては、当初5、6メガトンと予定された威力が、実際には15メガトンに上ったほか、想定外の東向きの風が吹いたとされる。
パリヤ教授は「威力の計算ミスや風向きの変化が重なり、大量被ばくにつながった」と指摘した。(共同通信 2003/12/12)
ビキニ被災50年 「死の灰」の危機再びか
米国が「ブラボー」と呼んだ水爆実験で、中部太平洋マーシャル諸島の住民や、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員たちが被曝(ひばく)した。この「ビキニ被災」から3月1日で、ちょうど半世紀を迎える。
広島原爆の1000倍という巨大な威力。その衝撃は、原水爆禁止運動がうねりのように全国に広がり、ヒロシマ・ナガサキの原爆被害をあらためて世界に広める契機ともなった。しかし、21世紀を迎えた今、核保有国は拡散を続ける。小型核兵器の開発の動きもある。人類と地球に再び、「死の灰」を降らせるのか―。(森田裕美)

実験名は「ブラボー」。15メガトンの水爆が爆発し、放射性物質が降り注ぐ。漁船「第五福竜丸」の23人が操業中だった。
1954年3月1日、米国は当時、国連信託統治領だった中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験「ブラボー」を実施した。威力は、当時としては史上最大の15メガトン、広島型原爆の1000倍に上った。爆発で巻き上げられた砂やサンゴは、放射性降下物(死の灰)となって降り注いだ。風下にいた島民、米軍の観測兵、そして近海で操業していたマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員たちが被曝した。
第五福竜丸は、ビキニ環礁の東160キロ付近で操業中だった。乗組員23人が全員被曝した。2週間後の3月14日、母港の静岡・焼津に帰港。その年の9月、最年長だった無線長久保山愛吉さんが40歳で死亡。現在までに12人が亡くなっている。
日本政府は、日本の漁船の被災船数は856隻と発表している。これらの船の乗組員の汚染については不明のまま。水揚げされたマグロは放射能で汚染され、大量に廃棄された。
事件は、目に見えない放射線の恐怖を国民に突きつけた。広島、長崎の被害をあらためて感じさせた。こうして、東京・杉並の女性たちが署名運動に立ち上がるなど、原水爆禁止運動が盛り上がる。しかし、大衆運動として出発した運動はその後、政党色を強め、旧ソ連の核実験の評価をめぐり、分裂へと至る。
事件は翌年1月、米国が日本政府に200万ドルの慰謝料を支払うことで政治決着し、第五福竜丸の乗組員には1人平均200万円が支払われた。福竜丸はその後、数奇な運命をたどったが、現在は東京・夢の島で保存・展示されている。 「人類の平和のため」と住民は島を追われた。繰り返される移住。 放射能の除去作業は一部で今も続く。
マーシャル諸島は日本の東南約4000キロに位置し、29の環礁と5つの島からなる。
54年3月1日、水爆実験「ブラボー」は、風下のロンゲラップ環礁で86人、さらに東のウトリック環礁で166人(いずれも胎児を含む)の頭上に「死の灰」を降らせた。
被曝者は、この人数ではとどまらないとされる。米国は46―58年にかけ、マーシャル諸島北部のビキニ環礁とエニウェトク環礁で計67回の核実験を繰り返した。周辺の島民が、その放射性降下物を浴びたり、残留放射能で内部被曝したりした可能性は否定できない。
ビキニ環礁の住民は実験場となった当時、「人類の平和のため」との理由で島を強制退去させられた。ロンゲリック環礁、クワジェリン環礁、キリ島などを転々と移住。米国は68年にいったん安全宣言を出し、島民は帰ったが、ヤシの実から放射性物質が検出されるなどして、78年に環礁を閉鎖。島民は再び、キリ島に移住した。
現在は、短期間の滞在には問題のない汚染レベルとされ、ダイビングツアーもある。
ロンゲラップ環礁の住民たちは、「ブラボー」から丸2日以上が経過した後、米軍が避難させた。57年、米国の安全宣言によりいったん帰島したものの、放射線被曝の急性症状と似た症状が表れ、住民たちは85年、再び島から脱出した。
米国は98年から再定住計画を進め、今も放射性物質の除去作業が続く。住民たちは現在、無人島メジャトのほか、首都マジュロ、イバイなど人口密集地に暮らしている。
もう1つの実験場だったエニウェトク環礁は80年、米国の資金で環境整備され、移住させられていた住民たちは環礁の南部に帰島した。
米国はビキニなど4つの環礁での核被害を認め、1億5000万ドルを拠出。基金により住民への無料医療などが実施されてきたが、米側は追加補償には応じず、財源不足に。昨年末でとうとう事業打ち切りが決まった。
「ブラボー」実験では島によって避難措置などが異なることから、「人体実験」だったとの見方もある。(中国新聞 2004/01/01)

被ばく島民840人死ぬ 米実験で白血病など後遺症
日本に医療面で協力訴え ビキニ事件から半世紀
【マジュロ(マーシャル諸島)13日共同=和田茂樹】太平洋ビキニ環礁で米国が1946年から58年にかけ実施した原水爆実験で、白血病やがんなどの健康障害を負ったと認定された島民が1865人もおり、このうち約840人が死亡していたことが13日、マーシャル諸島共和国のまとめで明らかになった。
静岡県焼津市の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が死の灰を浴びたビキニ事件から、3月1日で半世紀。放射能に汚染されたビキニの島民は強制移住後の避難生活が今も続き、地元関係者は「同じ被ばく国の日本に医療面での積極的な協力をお願いしたい」と訴えている。
米国は46年から13年間にマーシャル共和国のビキニ、エニウェトク環礁で67回にわたり計約11万キロトンの核実験を実施した。
その当時から広い範囲で島民とその子供に放射線障害が表れ、米国は86年発効の自由連合協定の中で「核実験による被害賠償について責任を負う」と明言。91年から症状が認められる島民に対し健康被害補償の支払いを始めた。
白血病やがん、腫瘍(しゅよう)など35種類が対象で、症状により1万2500−12万5000ドルが支給され、総額約8300万ドル(約88億4000万円)が計上された。
同協定に基づき島民は地元の医療機関で個別の治療を受けているが、無料診断については財政難などを理由に今月末で打ち切られる予定。
島民の被害を審査する「核実験被害補償法廷」のビル・グレアム氏によると、昨年末までに約7000人が申請。このうち1865人が認定されたが、約4200人が却下された。「広島・長崎の放射線影響研究所の資料などを参考に認定を進めているが、ビキニ被ばくは甲状腺がんが多いのが特徴」という。
米国の核実験のうち、広島原爆の約1000倍に相当する「ブラボー水爆」は54年3月に実験が行われ、近くを航行中の第五福竜丸が死の灰をかぶり、乗組員23人が被ばく、12人が肝臓がんなどで亡くなっている。(共同通信 2004/01/13)

「第五福竜丸」死の灰運ぶ風、前夜から観測…米公文書
【ワシントン=笹沢教一】50年前の1954年3月1日、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」やマーシャル諸島の住民が被ばくしたビキニ環礁の水爆実験で、米国が前夜から当日朝にかけ、気象条件の悪化をめぐって実験の可否を何度も協議していたことが分かった。
本紙が米エネルギー省の核実験公文書館から入手した当時の資料から判明した。風向きが悪いことを知りながら実験に踏み切ったことは10年前に被害者側の弁護士の米議会証言で明らかにされたが、悲劇を招いた詳しい経緯が分かったのは初めて。
本紙が入手したのは、前夜の2月28日から実験直前まで数時間おきに行われた協議の記録や米軍の気象観測データなど。協議の記録には実験を行った米統合特別部隊のクラークソン司令官や米ロスアラモス研究所のグレイブズ博士ら責任者の名が記されている。
それによると、28日午前まで上空は風向・風速とも安定し、ビキニ環礁の南東に並ぶマーシャル諸島や、福竜丸が操業していた東方160キロの海域に被害が及ぶ恐れはないと判断された。午前11時の記録には「(実験に)好ましい」と明記されている。
しかし、同日午後、上空約2000―5000メートルの風向きが不安定になったことが判明。東のロンゲラップ島やロンゲリク島に死の灰を運ぶ恐れのある、主に西方からの風が上空に出てきた。午後6時の記録では「あまり好ましくない兆候がある」と短く記されている。
さらに1日午前零時には両島の汚染の可能性が検討されたが、「島に死の灰が到達するほど風は強くない」と住民の被害の恐れは軽視。一方、ビキニ東沖の米軍艦艇には万全の措置を取り、風下を避けて約80キロ南への移動を勧告した。
風の影響は実験直前の午前4時半にも協議されたが、米軍艦艇の退避措置を確認するにとどまった。
実験直前の気象データでは、上空2000―1万メートルで依然として北西―西からの風速2―13メートルの風が観測されている。しかし、延期の判断はなく、現地時間の午前6時45分、実験は決行された。
ビキニ環礁住民の法律顧問を務め、94年2月の米下院天然資源調査小委員会で実験は強行されたと証言したジョナサン・ワイスゴール弁護士は「明らかに実験に適さない条件だった。風向きの検討は行われたが、島の人たちのためではなく、米国側の安全のためだった」と批判している。(読売新聞 2004/02/23)

ビキニ水爆実験:被曝後遺症、50年経った今も
太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で米国が水爆実験をした「3・1ビキニデー」から50年。同環礁の東方海域で調査操業中だったマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が「死の灰」を浴び、無線長の久保山愛吉さん(40)が亡くなった事件は、日本の原水爆禁止運動の出発点となった。しかし、背後にあるマーシャル諸島共和国で大量の死の灰を浴びた島民の実情は、一般にはあまり知られていない。島民の現況と課題を探った。【沢田猛】

■残る放射能
「まだ多くの人たちが、被曝(ひばく)後遺症のがんなどに苦しんでいる。ロンゲラップの旧島民は避難先の島々に散在し、帰島にはまだ多くの時間がかかる」。2月13日、ロンゲラップ環礁選出の国会議員、アバッカ・アンジャイン・マディソンさん(37)は現地で語った。
同月21日、東京都内で開かれた「ビキニ水爆被災50周年研究集会」(日本平和学会関東地区研究会など共催)のため来日したマーシャル諸島短大核問題研究所のメアリ・L・シルク所長も、「ロンゲラップ環礁では水爆実験による死の灰が事前に告げられず、島民は被害をまともに受けた。残存放射能が一掃され、帰島できる日を心待ちにしている」と報告した。
米国の67回に及ぶ核実験は、核にむしばまれたマーシャル半世紀の元凶となった。残留放射能の影響で帰島できないロンゲラップ島の旧島民らは「放射能難民」として、別の島々に転々と移住を繰り返している。こうした「もう1つのヒバクシャ」の実情が日本に知られるようになったのは、70年代に入ってからだった。
首都マジュロにある「核被害補償法廷」(NCT)の核実験被害補償金受給者リストによると、認定被曝島民は93年で既に572人に達
し、米政府が従来報告してきた認定数の2倍を上回った。また、受給者がクワジェリンやマジュロのほか、ビキニから800キロ南にあるエボン島にも及び、マーシャルの全有人島に分布していることが明らかになった。

■島民への償い
米国の統治下にあったマーシャルは86年、独立した。米国はマーシャルに軍事的分野以外の外交と内政権を認める代わりに、米国が防衛権を維持し、15年間財政支援をする「自由連合協定」を締結し、マーシャルの独立を認めた。
協定の第177項で、米国はビキニ、ロンゲラップ環礁など4つの環礁への核被害とその補償責任を認めた。米国はマーシャルに1億5000万ドルを拠出し、これが原資となって「マーシャル諸島核賠償基金」が設立された。
同基金からは▽4環礁の地方自治体への補償金▽4環礁の島民への無料診療を含む健康管理措置▽米政府とは独立したNCTの運営による島民の疾病や土地被害に対する補償受け付け、認定、支払いの査定機関──が設けられた。しかし、同基金は現在、原資をほとんど使い尽くしている。
協定は昨年9月に失効し、新自由連合協定が同10月にスタートしたが、追加補償措置は盛り込まれなかった。

■帰島はいつ
ロンゲラップ環礁の本島・ロンゲラップでは98年以来、放射能汚染除去を含めた再定住計画が進められている。その費用は核賠償基金とは別に、4環礁の自治体がアメリカと個別交渉して得た補償金などを基にしている。
計画は帰島を図るステップが3段階に分かれ、滑走路拡張や主要道路の舗装化などインフラ整備は既に完了した。第1段階は米国から4500万ドルの提供を受けた。現在は第2段階で、第3段階は旧島民が帰島してから着手される。
計画によると、第2段階の施設費のうち、島民用住宅には250戸分、3910万ドルが用意されている。日本円にして1戸当たり約1700万円の勘定だ。
しかし、再定住計画の実施は、環礁全体で約60に及ぶ島々のうち本島だけに限られる。放射線被曝地調査でも、本島の残留放射能値は帰島しても安全な数値だったが、環礁北部は本島より高い汚染を示す数値が検出されている。環礁全域の再生は計画の中にはない。

◎ことば=ビキニ水爆実験
太平洋戦争後、米国はビキニとエニウェトック環礁で12年間に計67回の核実験を行った。広島型に換算して約7000発分に当たり、がんや白血病、甲状腺障害が島民に多発した。特に、1954年3月1日のビキニ水爆実験では、ロンゲラップをはじめ4つの環礁に暮らしていた島民239人に、放射能を帯びた「死の灰」が降り注いだ。(毎日新聞 2004/03/01)

“死の灰”はハワイまで届いていた…ビキニ核実験
【ワシントン=笹沢教一】50年前の1954年3月1日、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」やマーシャル諸島の住民が被ばくしたビキニ環礁の水爆実験で、実験直後に飛散した放射性降下物(死の灰)がハワイ諸島にまで及んでいたことが、読売新聞が米エネルギー省核実験公文書館から入手した秘密解除文書で明らかになった。
米国政府は1973年、死の灰による被ばく被害がマーシャル諸島の南側までを含めて計13の環礁にまで及んでいたことを認めていた
が、死の灰が微量ながらハワイ諸島にまで飛散していたことは公表していなかった。
今回の文書は54年4月19日に作成されたもので、実験当日から5日間に、米軍統合特別部隊が行った地上と上空からの1時間あたりの放射線量データが記載されている。それによると、ハワイ諸島のカウアイ島で毎時0.002ミリ・シーベルト(一般人の年間許容限度1ミリ・シーベルト)だったほか、ハワイ島、オアフ島などでも弱い線量が検出されていた。(読売新聞 2004/03/01)

ビキニ水爆実験から50年 第五福竜丸元船員 大石さん訴え 長崎市で講演
【長崎】太平洋ビキニ環礁での米国の水爆実験から50年たった節目として、原水爆禁止県民会議などは5日、被曝(ひばく)した第五福竜丸元船員、大石又七さん(70)=東京都=の講演会を長崎市筑後町の県教育文化会館で開いた。大石さんは800隻以上の日本の漁船が被曝したにもかかわらず、日米政府間の政治決着で調査されなかったことに触れ、「真相は隠され、忘れ去られた。私たち漁師は人柱だった」と怒りを込めて訴えた。
第五福竜丸は1954年3月1日に被曝し、23人の乗組員のうち、既に12人が死亡。「甲板に足跡ができるほど白い灰が積もった。白血球が激減し、大量の輸血で肝臓障害になり、1年2カ月入院した」と当時の状況を生々しく説明した。
被曝から9カ月後、政府は米国の責任を問わないまま、慰謝料を受け取って決着。ビキニ事件を発端にした原水禁運動がきっかけで成立した原爆医療法(現被爆者援護法)も、ビキニ被曝者は対象外になった。大石さんは「補償を求め声を挙げる人は少なく、大半は口をつぐんだ。自分が被曝者と知られることの方が怖く、私も東京に逃げ出した」と地元静岡で差別や偏見に苦しんだ体験を振り返った。
肝臓がん摘出後も各地で講演活動をしていることについて、「つらくて、公の場で恨み言を言ったことが始まりだった」と打ち明け、「人生半ばで死んでいった仲間の悔しさを、元気な私が伝え続けなければと思っている」と語った。(西日本新聞 2004/03/08)

50年代のビキニ核実験 日本近海に今も放射能
第五福竜丸が被ばくした水爆実験をはじめ、1950年代の一連のビキニ核実験で周囲にまき散らされたプルトニウムが、日本近海に堆積(たいせき)していることを、放射線医学総合研究所の山田正俊防護体系構築研究グループチームリーダーと鄭建研究員が31日までに確認した。
人体や環境に悪影響を与えるレベルではないが、この核実験によるプルトニウムの汚染が日本周辺で確認されたのは初めて。半世紀経た今も海流で運ばれてきているとみられ、過去の大気圏核実験で発生した降下物の海洋での動きを示すデータとして注目される。
山田リーダーは「プルトニウムが地球規模でどのような動きをしているかが分かれば、核事故の際の影響予測にも役立つ」としている。
原爆などに使われる核物質の組成は微妙に異なっており、放射性降下物の由来も、含まれるプルトニウム239に対する同240の割合を調べることで特定できる。
ビキニで発生した降下物の比率は約0.30だが、成層圏まで達し、さまざまな核実験によるものが混ざった降下物では約0.18となる。
研究グループは、相模灘などで90−91年に採取した海底泥試料を計測。50年代の層で0.28とピークになり、大半がビキニ実験の降下物と結論づけた。年代が新しいほど比率は低くなるが、80年代後半でも0.24前後で、詳しい分析の結果、ビキニ実験の降下物が含まれていた。放射能量は試料1グラム当たり最大13ミリベクレルで、米西海岸の10ミリベクレル、ペルー沖の24ミリベクレルに比べ特に高くはなかった。
プルトニウムはビキニ環礁付近から北赤道海流と黒潮で運ばれ、日本近海でプランクトンの死骸(しがい)や土の粒子などに付着して沈降しているとみられるという。(中日新聞 2004/08/01)

仏核実験:退役軍人らの提訴受け健康調査
フランスの核実験に従事し、がんや白血病に苦しむ退役軍人らの提訴を受け、パリの予審判事がこのほど実験が健康に及ぼした影響について調査を開始した。実験と健康被害の因果関係に司直のメスが入るのは初めて。
フランスは米国の「核の傘」に頼らない独自核開発路線を取り、1960年から96年までの間にサハラ砂漠と南太平洋ポリネシアで計210回の核実験を実施した。
退役軍人らで構成する原告団は昨年末、「仏当局は実験による被ばくの危険を知っていたのに防護措置を取らなかった」と国の過失責任を問い、損害賠償などを求める訴訟を起こした。
退役軍人団体が実施した独自調査によると、実験に携わった元軍人のがん発症率は同年代平均の2倍近い。パリの予審判事2人が今後、発症と実験の因果関係について調査を行う。
仏政府は「実験は防護基準を順守して実施された」として健康への影響はなかったとの立場を取っている。【パリ支局】(毎日新聞 2004/09/30)
50年前のビキニ実験 被ばく異常 機密扱い
第五福竜丸乗員の生殖機能低下
【ワシントン=共同】1954年3月1日、太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験の後、「死の灰」を浴びた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」乗組員の生殖機能が一時的に低下し、放射能との関連が強く疑われるとの情報を日米両国の関係機関が共有しながら「機密扱い」とし、患者の乗組員にも知らせていなかったことが、米公文書や当事者の証言から明らかになった。
当時は第五福竜丸事件を機に原水爆禁止運動が全国的な盛り上がりを見せていた。こうした情報が明るみに出れば、日本人の反米・反核感情に火を付け、東西冷戦の真っただ中で核軍拡を進める米国の軍事政策や日米の補償交渉に影響を与える可能性があった。日本側の関係機関が広島、長崎の被爆者に配慮したとの指摘もある。
公文書は、在日米大使館から、事件の医学調査を進めていた米原子力委員会(AEC、後のエネルギー省)のビューワー生物医学部長に送られた54年12月27日付の書簡や同年8月31日付の別のAEC文書。広島市立大広島平和研究所の高橋博子研究員や共同通信が米情報公開法などを通じて入手した。
8月31日付文書によると、被ばくした第五福竜丸乗組員23人のうち18人は54年3月から8月に日本で24回にわたり検査を受け、一時的な精子数減少などが確認された。
12月27日付書簡は、「東京の病院の医師3人」が9月に「検査の重大な結果」を機密扱いにするよう在日米大使館に打診、米側も了解した経緯を説明。医師の氏名などは記していない。
書簡は、東京で11月に開かれた非公開の日米放射能会議を日米双方が「傷口」を癒やす機会と位置付け、足並みをそろえて放射線被害に関する情報を封印しようとした動きを示唆している。

第五福竜丸の元乗組員、大石又七さんの話 自分も精子を検査されたが、結果は医師から一切知らされなかった。精子数の低下や、検査結果が告知されなかった事情は今回、初めて聞いた。当時は(医師の)先生方を全面的に信頼しており、悪いことがあっても言ってくれるだろうと考えていたし、嫌なことを聞き出したくないという思いもあった。しかし、今になってみると、なぜあの時に知らせてくれなかったのかと思う。当時は普通の患者と先生という関係を超えて、(日米の)政治という大きな枠があった。先生の方にも自由の利かない部分があったのだろう。政治に左右されたという憤りを感じる。

【第五福竜丸事件】1954年3月1日、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で、米国が行った水爆実験「ブラボー」により、静岡県焼津市のマグロ漁船第五福竜丸が「死の灰」を浴び、乗組員23人が被ばく、無線長の久保山愛吉さんが死亡した。事件を機に反核世論が高まり、55年には核廃絶に積極的役割を果たすよう世界の知識人に訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出され、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれた。(中日新聞 2005/02/28)

第五福竜丸事件関連の米公文書の要旨
【ワシントン27日共同】第五福竜丸事件に関する米公文書要旨は次の通り。

▽1954年8月31日付の米原子力委員会(AEC)文書
一、被ばくした第五福竜丸乗組員(のうちの)18人は54年3月29日から8月3日にかけ、日本で24回にわたり検査を受け、一時的な精子数減少などが確認された。

▽ビューワーAEC生物医学部長あての54年12月27日付書簡
一、54年9月、在日米大使館は東京の病院の3人の医師から、検査の重大な結果を機密扱いにしたいとの意見を添えた書類を受け取った。
一、それなのに、12月に非常に扇情的な記事が「TOKYO・MAINICHI」(毎日新聞)に掲載された。信頼できる筋によると、(乗組員の診療に当たった)都築正男博士が(情報を流した)張本人だ。
一、都築博士はこの問題を大衆に喚起しようとしている。彼は(11月に東京で開かれた日米の)放射能会議で癒やされることを期待した傷口をまた開こうとしているかのようだ。
一、日本側は(精子数の一時的減少などは)被ばくの結果で、他の身体機能が正常に戻るにつれて、ほぼ疑いなく通常の精子生成が再開されるとみているようだ。
一、米ロスアラモス研究所で深刻な事故に遭った男性は、第五福竜丸乗組員を大幅に上回る放射線量にさらされた。1年以上も病気だったが、今では完全に回復し、以来、2児の父親となっている。(共同通信 2005/02/28)

ビキニが核廃絶の原点 福竜丸の「灰」で解明
【ロンドン1日共同=上西川原淳】米国による1954年のビキニ水爆実験について、英国の物理学者でノーベル平和賞受賞者のジョゼフ・ロートブラット氏(96)は1日までに、当時を振り返り日本人科学者から託されたマグロ漁船・第五福竜丸の「死の灰」のデー タを分析し、ビキニ型水爆が原爆よりはるかに大量の放射性物質をまき散らす「汚い爆弾」であることを解明できたと強調。「死の 灰」をあまり出さないとの定説が覆されたことで恐怖が世界を覆い、国際的な核兵器廃絶運動の原点になったと証言した。
1日のビキニ51年を機に共同通信のインタビューに応じた。
証言によると、ロートブラット氏は実験後の54年、ベルギーで開催された国際会議で大阪市立大医学部助教授だった西脇安氏(88)=現ウィーン大名誉教授=と出会い、第五福竜丸で測定した放射能などに関する「自分の知らない」データを受け取った。
分析の結果、ビキニ型水爆が2段階の爆発構造しか持たず「死の灰」もあまり出ないという定説との矛盾を発見。同水爆が「核分裂 ・核融合・核分裂」という3段階の爆発構造を持つ新兵器(3F爆弾)だったことを突き止め、翌55年3月に論文で発表した。
最高機密とされた「死の灰」のデータ。それを封印しようとする米国などの圧力をはねのけ、日英の科学者が暴き出した水爆の非人道性は世界に衝撃を与え、知識人を動かし、反核のうねりを巻き起こした。
同7月、核戦争の危険を訴える「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表され、ロートブラット氏は署名者に名を連ねた。57年に「パグウォッシュ会議」を創設、科学者らによる核廃絶運動の先駆けとなり、95年に同会議とともにノーベル平和賞を受賞した。
ロートブラット氏は「ビキニからパグウォッシュに至る出来事はつながっており、段階的に発展した。西脇氏から提供された『死の灰』のデータは全人類の将来に貢献した」と評価した。(中国新聞 2005/03/01)

ロートブラット氏証言要旨
【ロンドン1日共同】英国の物理学者ロートブラット氏の共同通信に対する証言要旨は次の通り。

一、ビキニ水爆実験で使われた爆弾は2段階の爆発構造しか持たず、「死の灰」はあまり出さない「きれいな爆弾」と考えられていた。

一、1954年にベルギーで開かれた放射線生物学に関する会議などで西脇安氏から、第五福竜丸で測定した放射能などのデータの提供を受けた。分析の結果、「きれいな爆弾」という定説と大きく矛盾することに気付いた。大量の放射性物質をまき散らし「核分裂・核融合・核分裂」の3段階の爆発構造を持つ新兵器(3F爆弾)との結論に達した。

一、当時の英原子力当局トップで(51年の)ノーベル物理学賞受賞者のジョン・コッククロフト氏から、東側のスパイと見なされる可能性があることや英米関係を傷つけかねないとの懸念から、研究結果を公表しないよう強く警告された。

一、米政府は水爆実験による被ばく放射線量は少ないとの声明を出した。私が研究結果を発表すると、人々は核実験が危険だと気付き、英国は大騒ぎとなった。

一、日本への原爆投下を受け反核運動を始めたが、第五福竜丸事件で怒りを感じた。何かしなければと強く感じ、核廃絶運動により力を入れた。

一、西脇氏のデータは私が知らないものだった。西脇氏がいなければ、私がデータを発表することはできなかった。

一、データ発表後、大きな反核運動が始まった。「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出され、パグウォッシュ会議が創設された。ビキニからパグウォッシュに至る出来事はつながっており、段階的に発展した。

一、西脇氏のデータにより汚い爆弾の構造をより早く分析でき、強い世論で実験を止めることができた。そういう意味で、西脇氏から提供された「死の灰」のデータは全人類の将来に貢献した。(共同通信 2005/03/01)

住民のがん530例増やす マーシャルの原水爆実験
半数 これから発症 米国立研予測
米国が1946−58年に中部太平洋・マーシャル諸島で実施した計66回の原水爆実験をめぐり、当時の住民約1万4000人で、がんの発生は放射性降下物(フォールアウト)被ばくの影響で9%増え、放射線起因のがんが約530例と見積もられることが、米国立がん研究所が米上院エネルギー委員会に提出した報告書で判明した。
約530例の半数近くは既に発生し、残りは、10歳未満で被ばくし現在50−60代を迎えた住民を中心にこれから発生すると予測しており、今後の医療体制充実を促す内容となっている。
被ばく線量推定などの不確実さを理由に、予測を「おおまかな上限値」と見なすよう求めているが、マーシャル諸島は、住民の健康被害や土地汚染をめぐり、米国に追加補償を請願しており、補償問題の行方にも影響を与えそうだ。
一連の核実験の大半は大気圏内で実施。このうち54年3月にビキニ環礁で行った水爆実験「ブラボー」では、ロンゲラップ環礁などの島民や静岡県焼津市のマグロ漁船第五福竜丸の乗組員らが「死の灰」に被ばく、「ビキニ事件」として知られている。
共同通信が入手した報告書によると、予測の対象は、54年の水爆実験当時、マーシャル諸島全域にいた住民1万3940人。
マーシャル諸島にはがん発生の正確な統計がないため、ハワイ先住民のデータを使い、核実験場に最も近いロンゲラップ環礁のほか、北部、南部の環礁などの住民の被ばく線量を再評価。広島、長崎の被爆者のデータも参考に解析し、がんの発生状況を見積もった。
その結果、生涯にわたるがんの発生は、被ばくがない場合には約5600例だが、被ばくの影響によって9%増え、約530例が過剰に発生するとみられることが分かった。中でも、ヨウ素131などの影響とみられる甲状腺がんはほぼ半数の約260例と推定。このうち40%は今後、発生するという。
同研究所は昨年6月、上院エネルギー委員会から諮問を受け、同10月に報告した。

【マーシャル諸島での核実験】 米国は広島、長崎へ原爆を投下した翌年の1946年から58年にかけて、マーシャル諸島のビキニ、エニウェトク両環礁で計66回、エニウェトク環礁付近の上空で1回の核実験を実施。爆発の総出力は広島原爆の約7000発分に上った。中でも54年3月1日にビキニ環礁で行った水爆実験は15メガトンの巨大爆発となり、大量の放射性降下物をまき散らした。日本のマグロ漁船第五福竜丸の乗組員23人が被ばく、久保山愛吉さんが半年後に死亡。多くの島民も事前の非難勧告なしに被ばくした。(中日新聞 2005/05/24)

第五福竜丸事件、米の意向で放射能調査中止…文書発見
太平洋ビキニ環礁で1954年3月、米国の水爆実験でマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばくした事件に絡み、当時の厚生省がマグロの放射能汚染調査を事件から9か月後、突然打ち切った背景に米政府の意向があったことを示す文書が、米国立公文書館に残されていることが18日、広島市立大広島平和研究所の高橋博子助手(アメリカ史)の調査で分かった。
文書は、米マグロ調査協会が55年1月5日、米原子力委員会生物医学部のW・R・ボス博士にあてた書簡。A4サイズ1枚で、同委の科学者と日本の学者らが54年11月に東京で開いた「放射性物質の影響と利用に関する日米会議」に触れ、「会議は明らかに、マグロの被ばく検査を中止するよう(日本)政府に影響を与えた。(中略)検査中止は55年1月1日に実行される。この実現に寄与したあなたたちに祝福の言葉を贈る」と記していた。
厚生省は事件直後から調査を始め、福竜丸から水揚げされたマグロの放射能汚染を確認、廃棄処分にした。現場周辺調査でも広範囲での汚染を把握。しかし、日米会議の約1か月後には「放射能が多く含まれるのは内臓で、肉部分は安全」として急きょ、調査を打ち切った。その後、米国が慰謝料200万ドルを払うことで政治決着。福竜丸無線長の久保山愛吉さんの死と被ばくの因果関係もあいまいにされた。
石井修・一橋大名誉教授(国際関係史)は「米国にとって汚染調査結果は、同盟国・日本の反米感情を高めかねず、放射能データを東側に漏らしかねないものだった。原子力委がそれを阻止したことを、書簡は裏付けている」としている。
高橋助手は、この書簡を、他の研究者と共に今月刊行する「隠されたヒバクシャ」(凱風社)で公表する。(読売新聞 2005/06/18)

第五福竜丸:「発症原因は放射能ではない」 米公文書で判明
1954年3月、米国が行ったビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸(乗組員23人)の被ばくが発覚した直後の同年4月から、米・国家安全保障会議の作戦調整委員会(OCB)が、放射能による乗組員の発症の原因を「サンゴのちりの化学的影響」などとする情報操作を画策していたことが22日、分かった。情報公開された米公文書で判明。日本での反核反米運動の高まりを恐れた米政府高官の発議で、同委員会が検討していた。専門家は、真相隠ぺいの対日工作が極めて早期に本格化していたことに注目している。
文書は、東京工業大大学院の山崎正勝教授(科学史)が米国のアイゼンハワー図書館で入手。国務省や国防総省、CIA(米中央情報局)の高官で構成され、米国の対外心理戦略を扱う協議機関であるOCBが54年4月22日付で起草したもので、「水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト」と題されている。
それによると、科学的対策として、「日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴのちりの化学的影響とする」と明記。「放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、日米合同の病理解剖や死因についての共同声明の発表の準備も含め、非常事態対策案を練る」としている。
第五福竜丸は3月1日に被ばくし、同16日の新聞報道で発覚した。同22日には早くも、アースキン国防長官補佐官(当時)がOCBに対し、反核運動が高揚しつつある中、事件がソ連の反米運動の扇動に利用されることへの危機感を示す書簡を送っている。
この事件では同年9月、無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)が死亡。日本人医師団は死因を「放射能症」と発表したが、米国は現在まで、「放射線が直接の原因ではない」との見解を取り続けている。
山崎教授は「早い段階から、船員への賠償を言いながら、放射線の被害を小さく見せようとした米国の二枚舌を示す文書。米国はさらにその後、原子力の平和利用は価値の高いものと宣伝する工作を日本で進めており、背景には、日本人の反核反米意識をそぐ意図もあった」と話している。【遠藤孝康】

▽広島平和研究所の高橋博子研究員(アメリカ史)の話 米国がビキニ事件後、放射能の影響を小さく見せようとしていたことは知られていたが、4月の段階で乗組員の死を想定し、対策を練っていたのは驚きだ。そして久保山さんの死後、被ばくの直接的影響を即座に否定した姿勢を考え合わせると、予定通りに計画を実行したという印象だ。(毎日新聞 2005/07/23)
中国新聞ニュース
J・ロートブラット氏死去 反核運動で平和賞 '05/9/2

 【ロンドン1日共同】核兵器廃絶を求める科学者組織「パグウォッシュ会議」を創立するなど、反核運動に生涯をささげ、核管理の国際的枠組みの基礎づくりにも影響を与えたノーベル平和賞受賞者の英国の物理学者ジョゼフ・ロートブラット氏が八月三十一日、ロンドンで死去した。九十六歳。 一九三七年から二年間ポーランド自由大学の原子物理研究所副所長を務めた後、核抑止の考えから原爆を開発した米国の「マンハッタン計画」に参加した。しかし、ナチス・ドイツに原爆製造能力はないと判断し計画から離脱。広島、長崎への原爆投下に衝撃を受け、反核運動に尽力した。 第五福竜丸の乗員が被ばくした一九五四年のビキニ水爆実験で大量の放射性物質を放出する「汚い爆弾」が使われたことを、大阪市立大医学部助教授だった西脇安氏のデータを基に解明し発表、欧米を中心に反核運動が巻き起こるきっかけをつくった。 核戦争の危険性を訴えた五五年の「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名した十一人の世界的著名人の中で生存する最後の一人だった。五七年に「パグウォッシュ会議」を創立、九五年に同会議とともにノーベル平和賞を受賞した。○八年にワルシャワで生まれ、四六年に英市民権を取得した。同会議のスワミナサン会長は「ロートブラット氏の高潔さと着想はパグウォッシュ会議を導いてきたし、今後も導き続けるだろう」とたたえた。
河北新報ニュース
2005年09月03日土曜日

元祖ゴジラを英初上映へ 原爆投下60年で企画


 【ロンドン3日共同】核実験で太古の眠りを覚まされた怪獣を描く日本の代表的な特撮映画「ゴジラ」(東宝、1954年)が10月14日からロンドンの一部映画館で上映されることになった。
 広島、長崎への原爆投下から60年に合わせた公開で、企画した英国映画協会(BFI)によると、米国で再編集された「怪獣王ゴジラ」(56年)が知られていた英国で、日本の“オリジナル版”が一般公開されるのは今回が初めて。
 世界的な人気怪獣映画としてシリーズ化したゴジラの第1作は、54年に米国がビキニ環礁で行った水爆実験で日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が被ばくする事件が起きたことをきっかけに制作された。作品は「原爆の恐怖や核実験への不安感を反映している」(英BBCテレビ)と評されてきた。
中国新聞地域ニュース
「明日の神話」制作時の内面に光 '05/9/12

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 ■「完成への道」展 25日まで川崎市岡本太郎美術館で開催

 芸術家岡本太郎(一九一一〜九六年)がメキシコで描いた壁画「明日の神話」。愛媛県東温市で現在、修復が進められている。原爆をテーマにしたこの超大作はいかにして生まれたのか。四枚の原画など多彩な資料でたどる「『明日の神話』完成への道」展が、川崎市岡本太郎美術館(同市多摩区)で開かれている。(道面雅量)

 美術館の展示としては異色というべきだろう。ケースに並べられた「死の灰」(複製)や被爆マグロのうろこ、放射線を測るガイガーカウンター…。岡本の内面で原爆のモチーフがどう育っていったかに迫る「核の時代」と題したコーナーの展示だ。

 これらは一九五四年、太平洋ビキニ環礁で米国の水爆実験に被災した第五福竜丸の関連資料。この事件は岡本を強く触発した。壁面には、その衝撃から生まれた代表作の一つ「燃える人」(五五年)や、原水爆禁止世界大会の冊子に寄せたカットが並ぶ。

 このほか、岡本が戦時中に中国で描いたスケッチや、デモ隊に死者が出た五二年の「血のメーデー」事件をモチーフにした「青空」(五四年)などもある。

 テレビに露出したイメージが強すぎて見えにくい岡本芸術の「社会性」。歴史資料と作品を効果的に組み合わせた本展は、時代の伴走者としての岡本をドキュメント的に描き出し、その社会性に光を当てる。テレビへの露出自体、岡本流の「社会性」であったのだ、と思い当たりもする。


 「明日の神話」は、岡本がメキシコのホテルオーナーから依頼を受け、六〇年代末に現地で制作した。高さ五・五メートル、幅三十メートル。中央に「核に焼かれる人間」を表現したとされる、火を噴くがい骨が描かれている。

 ホテルの倒産によって行方不明になっていたが、一昨年発見され、日本に移送して修復が行われている。注目度が高まっている好機をとらえた展覧会である。

 順路の最後、四枚ある「明日の神話」の原画が勢ぞろいした一室は圧巻だ。岡本太郎美術館のほか、名古屋市美術館、富山県立近代美術館、東京の岡本太郎記念館がそれぞれ所蔵する。原画とはいえ、最大のものは幅十メートルを超え、圧倒的な迫力がある。

 同展は二十五日まで(十二、二十日は休館)。壁画は修復後の来年夏、東京・汐留のイベント会場で初公開される。

【写真説明】上=「明日の神話」の原画が壁面を占める展示室。白い立体は同じメキシコのホテルオーナーから依頼されたが制作が実現しなかったモニュメント「五大陸」の模型
下=第五福竜丸が浴びた「死の灰」(複製)などが並ぶ展示ケース。後方の油彩画は「燃える人」
「第五福竜丸」久保山さんの追悼 焼津で墓参行進

 一九五四年に太平洋ビキニ環礁で米国が行った水爆実験により被ばくした焼津市の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」の無線長、故久保山愛吉さん=当時(40)=の五十一回目の命日に当たる二十三日、同市内で久保山さんの追悼行動が行われた。

 原水爆禁止県協議会や県労働組合評議会などで組織する「2005年3・1ビキニデー県実行委員会」の主催。労組や生活協同組合、一般市民ら約二百人が参加、JR焼津駅南口から久保山さんが眠る同市浜当目の弘徳院まで、白い菊の花を手に墓参行進した。

 同院広場で開いた「墓前の誓いのつどい」で各界代表が核兵器廃絶と平和への思いを訴えた後、参加者は墓前に献花し、手を合わせて久保山さんの冥福を祈った。

 続いて、参加者は市役所会議室に移動し「9・23焼津のつどい」を開催。立命館大国際平和ミュージアム館長の安斎育郎さんが「核兵器廃絶への展望」と題して講演したほか、「草の根からの運動と共同・連帯をさらに大きく広げ、2006年3・1ビキニデーの歴史的な成功を勝ち取ろう」などとする9・23焼津アピールを採択した。 (土屋祐二)
第五福竜丸事件企画展:死の灰や乗組員の写真も−−来月4日から原爆資料館 /長崎

2005年9月28日朝刊(毎日新聞)


 ◇米国の水爆実験で23人が急性放射能症
 長崎原爆資料館(長崎市平野町)は10月4日から、原爆投下以外の被爆として日本の原水爆禁止運動の出発点にもなった「第五福竜丸」事件の企画展を同館で開く。事件を巡る企画展は同館で初めて。船から採取された「死の灰」をはじめ、当時の貴重な資料を展示する。12月25日まで。
 第五福竜丸は静岡県焼津市を母港としたマグロ漁船。1954年3月1日、米国が南太平洋のビキニ環礁で水爆「ブラボー」による核実験を実施したのに伴い、約160キロ離れた海域で放射能を帯びた死の灰を浴びた。乗組員23人が急性放射能症に。うち無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)が9月に死亡した。
 企画展は「第五福竜丸展示館」(東京都江東区)を運営する第五福竜丸平和協会との共催。事件の経過を説明するパネルや被ばくした人々の写真、死の灰をはじめ、福竜丸で当時使用されていた日用品などを展示する。
 初日の4日は午後1〜2時、同協会の安田和也事務局長による講演会もあり、マーシャル諸島に住む水爆実験の被害者などを含めて報告する。
 入館料は大人200円、小中高校生が100円(市内在住者は無料)。講演会は無料だが、資料館へ事前申し込みが必要。申し込み、問い合わせは同館電話095・844・1231。【横田信行】
谷本清平和賞に新藤兼人氏

 財団法人ヒロシマ・ピース・センター(鶴衛理事長)は13日、平和運動や被爆者援護などに尽くした個人や団体に贈る「第17回谷本清平和賞」に映画監督の新藤兼人氏(93)を選んだと発表した。

 授賞理由として、映画「原爆の子」などの作品を通じて戦争の悲惨さや被爆者の無念を伝え、今も現役の映画監督として核廃絶、平和の実現を願い活動している点を挙げている。

 新藤氏は広島市出身。徴兵のため被爆を免れた。1952年の「原爆の子」をはじめ被爆後の広島の姿を記録。「第五福竜丸」など広島、長崎に続く核被害に迫る作品も手掛けた。

 同賞は、原爆の悲惨さを米国各地で訴えた故谷本清牧師を記念して創設された。これまでにルポ「ヒロシマ」で知られる米ジャーナリストの故ジョン・ハーシー氏や女優の吉永小百合らが受賞している。

 ▼新藤兼人氏の話 思ってもみなかった受賞で、大変ありがたい。なぜ原爆が落とされ、あの瞬間に何が起きたのかを伝えることが、広島に生まれた者の務めだ。過去への嘆きではなく、未来への挑戦として、これからも仕事を続ける。
[ 2005年10月13日 17:53 速報記事 ] スポーツニッポン
谷本清平和賞の新藤兼人さん 一貫して原水爆告発
'05/10/17 中国新聞 社説

谷本清平和賞の新藤兼人さん 映画を通じ原水爆を告発し続けている新藤兼人さんに第十七回谷本清平和賞が贈られることになった。

 この賞は、被爆の惨状と平和の尊さを米国で訴えた故谷本清牧師の遺志を継承するために創設(一九八七年)された。財団法人ヒロシマ・ピース・センター(鶴衛理事長)が毎年、平和のために尽力する個人や団体に贈っている。

 「半世紀以上にわたり、鋭い視線で一貫して被爆者の無念さを伝え、戦争の実態をあばき、今なお精力的に挑戦される姿は被爆六十年の重さを象徴している」「反核平和実現に向けて命をかけて闘ってこられた」

 これが新藤さんの受賞理由である。文化功労者(九七年)や文化勲章(二〇〇二年)を受章している新藤さんではあっても、格別な思いがありそうだ。

 新藤さんは広島市佐伯区出身。日本映画界の重鎮で著書も多い。九十三歳の今も映画づくりに挑戦を続けている。例えば、原爆の爆発の瞬間を描く新作「ヒロシマ」の制作を目指している一方で、映画「陸(おか)に上がった軍艦」は来年完成の予定という。「陸に―」は新藤さんの戦争体験を描いたもので、自身が出演し、脚本を手掛けている。この衰えを知らない情熱、迫力には圧倒される。

 原水爆を告発し続ける新藤さん。中でも被爆後のヒロシマを描いた「原爆の子」(一九五二年)と、米国の水爆実験でマグロ漁船が死の灰を浴びた事件を追った「第五福竜丸」(五八年)はよく知られている。前者はチェコスロバキア国際映画祭で平和賞、英国アカデミーによる国連賞を受賞。後者もチェコ映画祭で平和賞を受賞している。

 原水爆に対する新藤さんの強い思いは、今回の受賞に寄せた次のコメントに凝縮されている。「なぜ原子爆弾が落とされ、あの瞬間に何が起きたのかを明らかにしなければ、人類に未来はありません。それを人々に伝えることが、広島に生まれた者の務めだと思っています」。重い課題から逃げず挑み続けてきた新藤さんが、われわれに突きつけるメッセージでもある。正面から受け止めたい。

 谷本清平和賞の第一回受賞者は、被爆の惨状を訴え原爆孤児を精神養子にする運動などを展開したノーマン・カズンズ氏。第二回は「ヒロシマの家」を建てた森林学者のフロイド・シュモー氏。最近では、八六年以来原爆詩の朗読を続ける俳優の吉永小百合さんや、新聞記者や広島市長時代を通じて核兵器廃絶と世界恒久平和を訴えている平岡敬氏が受賞している。

 新藤さんは「過去への嘆きではなく、未来への挑戦として、これからも仕事を続けます」と決意を語っている。胸に刻みつけたい言葉だ。
第五福竜丸展示館(東京)が30周年 来月、講座も

 ビキニ事件で被災した木造マグロ漁船「第五福竜丸」を保存展示する東京都立第五福竜丸展示館(江東区夢の島)が今年、開設30周年を迎える。記念企画の第一弾として「3・1ビキニ事件記念の集い―被災52周年 あらためて核兵器問題を考える市民講座」が2月18日午後2時から、夢の島マリーナ会議室で開かれる。
 第五福竜丸は戦後9年目の1954年(昭和29年)3月1日、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で行われた米国の核実験に巻き込まれた。同島民や米兵、日本の遠洋漁船多数が被災し、第五福竜丸はその象徴とされた。
 事件後、再利用されて廃船になったが、後にごみ捨て場だった夢の島で発見され、平和の象徴として保存運動でよみがえった。都は戦後の遠洋漁船を実物で伝えるとともに、原水爆の惨事が再び起こらないようにという願いを込めて、76年(同51年)6月、夢の島公園内に展示館を開設した。
 同館は同船1隻を覆う鉄骨建造物。館内には当時の面影を残す同船(全長約30メートル、高さ15メートル、幅6メートル)と多数の事件関連資料が保存展示され、年間400校以上の小中高校などの団体見学がある。
 市民講座(参加費500円)では中央大の奥山修平教授(科学技術史)の「マンハッタン計画からビキニ水爆へ―科学技術史をたどりながら」と題する講演、広島市立大平和研究所の高橋博子研究員の「ビキニ事件にみる日米関係―被災50年で明らかになったこと」の報告が予定されている。

※写真= 開設30周年を迎える東京都立第五福竜丸展示館=東京都江東区夢の島

【静岡新聞】2006年1月28日
「ベン・シャーン展」

1930年代から60年代までのアメリカ美術を代表する画家の1人であるベン・シャーン(1898-1969)の展覧会である。アメリカの公民権運動や、被爆した日本の漁船「第五福竜丸事件」を題材にしたシリーズを描くなど、一貫して迫害や差別、貧困などの社会問題をテーマにしてきたシャーンであるが、その作品は声高に正義を叫ぶというよりも、静かに語りかけてくるかのようである。また、そのまるで震えるような独特の線の魅力は、世界中の多くのグラフィック・アーティストにも影響を与えたといわれる。本展では、埼玉県朝霞市にある「丸沼芸術の森」の所蔵作品によって、ベン・シャーンの世界を紹介する。

会 場: 埼玉県立近代美術館
会 期: 2006年2月11日(土)〜2006年3月26日(日)
開場時間: 10:00〜17:30(入館は17:00まで)
休館日: 月曜日、祝日の翌日(3月22日)
観覧料: 一般=700(560)円
大高生=560(450)円
中学生以下、65歳以上、障害者手帳をお持ちの方は無料
*( )内は20名以上の団体料金
問い合わせ: 048-824-0111(埼玉県立近代美術館)
関連URL: http://www.momas.jp/

【ART FLASH NEWS】 2006年2月1日号
2006年02月14日 高知新聞

ビキニ被ばく 室戸で調査 本県市民団体2年ぶり

 ビキニ環礁での水爆実験に巻き込まれ、被ばくした本県漁船の実態を追っている市民団体「県太平洋核実験被災支援センター」(和田忠明センター長)が12日、室戸市での調査を再開した。これまで実態が明らかになっていなかった船の船員の証言や健康状態を聞き取る。メンバーたちは「被ばくから52年。多くの元船員が亡くなっており、時間との闘いだ」と話している。
 太平洋中西部のマーシャル諸島ビキニ環礁で、アメリカは1954(昭和29)年3―5月に6回の水爆実験を実施。当時の水産庁調査では第五福竜丸をはじめ、近くにいた日本のマグロ漁船延べ856隻が被ばくしている。
 うち270隻が本県漁船。同センターの前身、県ビキニ水爆実験被災調査団が85―92年、25隻、187人の被ばく船員の証言を採取。さらに一昨年、2隻の追跡調査で多くの元船員の「若い死」を突き止め、その後も幡多地区で健康調査を進めてきた。
 室戸では2年ぶり。54年に行った東京都や大阪府の放射線検査結果に名前が挙がりながら、同センターが未調査だった船員名が記された室戸、安田町船籍の5隻の資料を昨年末に入手。調査を再開することにした。
 この日は同センターの13人が室戸市入り。3つのグループに分かれ、かつて調査した元船員らを訪問。「亡くなっておらんねえ」などと言われ、目的の5隻の元船員にはたどり着くことはできなかった。
 同センターの山下正寿事務局長(61)は「今後も丁寧に調査していく。室戸での世話役になってくれる人を探すことが第一。3月、4月ごろに2回目を行いたい」と話している。

 【写真説明】元船員の家族から話を聞く山下さん=右から3人目=たち(室戸市室戸岬町)
死の灰の影響、米が極秘調査…死産胎児の骨入手?
【2006年3月8日15時37分 読売新聞】

 1950年代、米政府が、核実験の死の灰による日本人への影響を極秘に調査していたことが明らかになった。本紙記者が、米エネルギー省核実験公文書館で、機密指定を解除された当時の文書を入手した。

 文書は、米原子力委員会のダドリー博士から、政府の計画にかかわっていた米ロチェスター大のスコット博士にあてられたもので、53年12月9日の日付がある。日本の漁船員がビキニ環礁での水爆実験の犠牲となった第五福竜丸事件の約3か月前にあたる。

 調査の目的は、当時すでに50回を超えていた核実験で生じる死の灰の成分で、長く骨に蓄積する「ストロンチウム90」を測定するため。本来の目的は隠ぺいされ、表向きは「(自然界に存在する)ラジウムの分析」とされていた。

 この極秘調査の存在は、1995年に放射能人体実験に関する米大統領諮問委員会の調査で初めて明るみに出た。過去の欧米の報道では、インドや豪州も調査対象になったことがわかっているが、今回入手した文書には、冒頭から「日本での(試料)入手に関心がある」と明記され、当時、広島・長崎の原爆による影響を調べていた「原爆傷害調査委員会(ABCC)」と在日米大使館の協力に言及するなど、日本に調査の重点を置いたことを示唆している。

 日本が対象となったのは、ABCCの存在が隠れみのになるだけでなく、太平洋の核実験場に比較的近い地理関係にあることが重視されたとみられる。

 文書は、死産した胎児だけでなく、死亡した乳幼児も対象に、日本からは「6〜8体を分析に使う」としており、日本から死の灰が蓄積しやすい胎児や乳幼児の骨を入手する極秘任務に着手していたことがうかがえる。
核廃絶へ長い航跡【東京新聞】


都立第五福竜丸展示館開館30年

半世紀余り前、太平洋で操業中に米国の水爆実験に遭遇し、放射能を含んだ“死の灰”を浴びた木造マグロ漁船「第五福竜丸」。その姿を今に残す都立第五福竜丸展示館(江東区・夢の島公園内)が十日、開館三十年を迎える。建造から保存展示されるまで三十年近くにわたり、福竜丸は数奇な運命をたどった。その航跡を振り返り、核のない世界への願いを新たにしようとする記念イベントが、都内で開催される。 (佐藤敦)

 戦後日本の原水爆禁止運動の原点となった福竜丸の被ばく。その建造は一九四七年にさかのぼる。和歌山県で当初、カツオ漁船として造られた福竜丸は、マグロ漁船として改造された後、静岡・焼津を母港として遠洋漁業に出るようになった。

 被ばくしたのは、太平洋マーシャル諸島近海で操業中だった五四年三月一日。ビキニ環礁で行われた米国の水爆実験に遭遇し、数時間にわたって“死の灰”を浴びた。二十三人の乗組員全員が急性放射能症で入院し、無線長だった久保山愛吉さんが半年後に死亡した。

 “死の灰”の分析のために文部省(現・文部科学省)に買い上げられた福竜丸は、検査と放射能除去が終わった後、次に航海の練習船として生まれ変わる。老朽化による廃船処分となる六七年まで、「はやぶさ丸」という名で港区の東京水産大(現・東京海洋大)で使われた。

 解体業者に売却された福竜丸は、使用可能な部品が抜き取られた後に、夢の島の埋め立て地に打ち捨てられる。それを見つけたのは都の職員たちだった。その事実が広まると、市民の間から「核の恐ろしさを伝える遺産として残そう」という呼びかけが起こり、七六年に現在の展示館に保存されることになった。

 全長約三十メートル、高さ十五メートル、幅六メートル。館内にはその大きな船体がそのままに置かれている。乗組員の病状や太平洋の核汚染状況、「原爆マグロ」が全国で巻き起こしたマグロの廃棄騒動の経緯をまとめたパネルなども展示。また、福竜丸の航海日記、瓶詰めにされた“死の灰”を見ることもできる。

 展示館には毎年四百校以上の小中学校、高校からの団体見学があるが、年間の来館者は九〇年の三十万人をピークに、現在は十一万−十二万人に減っているという。

 「ヒロシマ、ナガサキに続く、核兵器による第三の犠牲となった第五福竜丸事件を、私たちは忘れていいはずがない。世界が核の恐怖から逃れられない今を考えるきっかけとして福竜丸はある」と、展示館学芸員の安田和也さんは言う。

 開館三十年の記念イベントは、十日午後一時半から神保町の学士会館(千代田区神田錦町)で。六九年にNHKが放映したドキュメンタリー作品「廃船」の上映と、この作品のカメラマン葛城哲郎氏らによる座談会が予定されている。参加無料。問い合わせは、同展示館=電(3521)8494=へ。

※写真
第五福竜丸と展示館学芸員の安田和也さん(右から2人目)=江東区で
「二重被爆」の遺影登録・長崎とビキニ
 原爆死没者約5500人の遺影を保存し、来館者に公開している長崎市の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に、長崎とビキニで被爆した元船員藤井節弥さん(故人)の遺影が22日までに登録された。二つの地で核被害に遭った「二重被爆者」の写真が登録されるのは珍しい。

 節弥さんの姉山下清子さん(81)=神奈川県横須賀市=によると、藤井さんは1945年8月9日、母の馬さん、山下さんと当時住んでいた長崎市で被爆。その後3人で高知県宿毛市に移り、藤井さんはマグロ漁船で働き始めた。

 46年以降、米国は太平洋のビキニ環礁などで核実験をし、54年の実験では、放射性降下物を浴びた近隣の島民や第五福竜丸など船の乗組員が被ばくした。

 藤井さんも核実験が行われた近くの海域で操業した船に乗っていたとみられ、母に不安を訴えていたという。体調を崩し入院中の60年、27歳で自殺。山下さんは「二回の被爆を苦にした」と考えている。〔共同〕 (00:21)
東京新聞 2007.1.15

補償進まぬマーシャル諸島
 第二次世界大戦後、米国の核実験が繰り返された中部太平洋のマーシャル諸島。昨年、住民が米国政府に補償の追加を求める集団訴訟を起こした。実験から半世紀を経た今、彼らは何を訴えているのか。現地の調査を続け、昨年十月に共著「いまに問う ヒバクシャと戦後補償」を編集した早稲田大大学院生、竹峰誠一郎さん(29)らに、被害の現状や訴訟の背景を聞いた。 (橋本誠)

 以下、記事全文は、http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20070115/mng_____tokuho__000.shtml 参照。
今年も3月1日焼津でビキニ集会があるそうですね。
焼津文化大ホールで。
調べて初めて参加してみよう。と思います。
私もビキニデー初参加です。
それまでにいろいろ勉強しようと思います。
2008年5月15日 読売新聞・千葉地方面

練習船になった第五福竜丸

館山時代の資料、専門家収集へ

 1954年3月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁で米国の水爆実験に遭遇した遠洋マグロ船「第五福竜丸」の保存に取り組む財団法人「第五福竜丸平和協会」評議員の日塔(にっとう)和彦・東京芸大客員教授(61)(船橋市在住)が14日、館山市役所で記者会見し、第五福竜丸は、かつて館山港を母港にした東京水産大(現・東京海洋大)の練習船「はやぶさ丸」の前身で、館山時代の歴史が空白になっているとして、「学生を指導した漁業関係者などから証言、写真を集めたい」と協力を呼びかけた。


 第五福竜丸から改造され、航海したという「はやぶさ丸」 日塔さんによると、「はやぶさ丸」の前身が第五福竜丸だと知っていたのは一部の関係者だけで、館山では第五福竜丸の歴史は長く“封印”されていたという。

 第五福竜丸は水爆実験遭遇により船体が放射能で汚染され、再びマグロ船としては使用されなかった。その後、政府が引き取り、同大で残留放射能検査を約2年間実施。1956年春に安全宣言が出され、同年5月、同大の練習船に改造され、「はやぶさ丸」と命名。約10年航海した。老朽化し、67年3月、廃船処分となって解体業者に払い下げられた。いったん夢の島に打ち捨てられたが、保存の機運が高まり、76年、夢の島公園造成とあわせ、都立第五福竜丸展示館が建設された。

 日塔さんは「学生たちは、前身を『第五福竜丸』と認識していたようだ。当時を知る人たちから状況を聞きたい」と話している。連絡先は同展示館(03・3521・8494、ファクス03・3521・2900、月曜休館)。

 第五福竜丸 静岡・焼津港所属の木造の遠洋マグロ船で、140トン。水爆実験で「死の灰」を浴び3月14日に帰港。同16日付の読売新聞が被ばくをスクープした。23人の乗組員全員が急性放射線障害となり、半年後、無線長久保山愛吉さんが死亡した。
12月31日中日新聞に三谷水産高校の山本さんの記事が掲載されてました。
彼も60歳で急死。
今日は親父の命日。6年は経過。風化されていくな。福竜丸。
親父は53歳で、甲状腺ガンに。
私は今年54歳て前立腺がんになりました。
親父の被曝が影響したのか単に遺伝か?
因果関係はわからんが、自分がガンになったのは運命だよな。
昨日はビキニデーでしたね。

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