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心の道場 I love 御書コミュの唯授一人の血脈相承の幻

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 退席痔派は、自分たちの存在意義の根拠として「唯授一人の血脈相承」という大ウソを振り回していますが、歴史的事実として、そのケツ脈相伝を受けて、呆水寫瓶とやらをしてからも、生涯にわたって邪義を主張し続けた17世日精(大石寺では後年に18世と変更)の邪義を示して、日犬宗には存在意義が無いことを一つずつ証明しましょう。

 まず、日精が大石寺に入院(病人が住む場所の大将だからではなく、ゲイ座に就くことを言う)して1年後に花押入りで書き残した「随宜論」での邪義を示します。
 この書は、表紙に29世日東師が、花押入りで、日寛上人の言葉である

「精師且述日辰義也(精師はしばらく(法主になってから死ぬまでの約40年間)日辰の義を述べている。)」

と書いており、宗門内でも非常に問題のある書として取り扱われてきました。

 日精は、この「随宜論」を書いた目的について、

「門徒の眞俗疑難を致す故に、矇霧を散ぜんが為、廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり」
「要用の文を集めて愚が廢忘を助くるのみ」
(通解:重要な文章を集めて、私自身が忘れないように助けるためである。)

と、自分が釈迦像を造立したことを大石寺の僧俗から厳しく批判されたため、迷いを打ち消し、自分自身が忘れないように、という目的で、邪義「随宜論」を書き残したとしているばかりか、

「願くば後来の学者二義を和會せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期すのみ。」
(通解:願うならば将来の学者たちよ、未だ広布が来るまでは不造、広布の時には造像という二つの義を調和して理解すれば、釈迦像の造像も不造も対立することはなく、長く謗法をとどめて自他共の成仏を目指すのみである。)

と、将来の国主帰依の時の造仏(要法寺の邪義)を正義(自身の間違った信念)として後世の学者たちに託しているのである。

 さらに日精は、「随宜論」の中で凄まじい本音を書き残しています。

「久遠元初自受用身は即日蓮の事なりとは、此の一段甚だ以て不審なり。」
(通解:久遠元初の自受用身が即日蓮のことであるというのは、この一段の文章は非常にはっきりせず、疑わしい。)
「諸文悉く日蓮は名字即と判じて未だ凡夫に仏名を付くるを見ず。』
(通解:いろいろな文章はすべて日蓮のことを名字即の凡夫と判断していて、私はまだ凡夫に仏の名を付けたのを見たことが無い。)

等と、大聖人を御本仏どころか「仏」としても信じられないという趣旨の言葉が書かれているのです。

要するに、大石寺派の「唯授一人の別しての法体の血脈」とやらを受けたところで、全く大聖人の仏法の本質が理解出来ていなかったという歴史的な事実が存在するのです。この事実で、すでに大石寺派の血脈相承の幻想などは完全に崩壊しているのです!

 各地の支店の坊主やホッケコッコーに対しては、
「相伝を受けて1年も経ってから、こんな根本的な邪義を自分の花押入りで書き残しているのだ!「相承を受けても法主は絶対ではない」どころか、邪宗のまま変わっていなかった厳然たる証拠である!こんな邪義の法主が存在していて何が僧宝か!何が血脈相承か!」
と言ってあげましょう。

 日精が釈迦像を正しいと主張する言葉の数々は以下のとおりです。「答えて云く」とは、当時の大石寺の僧俗の主張を「質問」とし、それへの反論です。

「戒壇成就の日は仏像を造立すること分明なり。」
(通解:戒壇成就の日には仏像を造立することは明らかである。)
「是れ即ち還て久遠の釈迦造立の明文にして敢えて不造の証文には非らざるなり。」
(通解:これはつまり、逆に久遠実成の釈迦像を造立することの明らかな文章であって、あえて釈迦像を造立しないことを証明する文章ではないのである。)
「答えて云く、力有らば、魔王堤婆をも作るべし。」
(通解:答えて言えば、力があれば第六天の魔王や提婆達多の像も造るべきである。)
「答えて云く、古来より多義有りと雖も、愚意に任せば造仏を許すべきか。」
(通解:答えて言えば、昔から多くの考え方があるけれども、私の意見に任せれば、造仏を許すべきであろう。)
「答えて云く、聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居所の定まらざる所以なり。」
(通解:答えて言えば、(日蓮)聖人が在世に仏像を安置しなかったのは、まだ住所が定まらなかったからである。)

等と、何度も何度も繰り返し、「釈迦像を造立することは正しい」、「造立の時とは、国主が帰依して戒壇成就の時である」、「釈迦像、多宝像、四菩薩像、第六天の魔王像、提婆達多像等を御本尊の図のように建立するのが正しい」という狂気の邪義を主張しているのです。

 さらに日精が非常に面白い主張をしているので、併せて示しておきます。

「板本尊を以て不造仏の現証と為すは甚だ非なり。」

と、板本尊があるからと言って、釈迦像を造立しないというのは間違いだと断定した上で、本門寺建立の時は通常の三堂伽藍ではなく、以下のような四堂伽藍という新しい教義まで主張しているのです。

「本堂には本尊の如く仏像を安置すべし。祖師堂には日蓮聖人の御影、垂迹堂には天照八幡の尊像之有るべし。其の上に戒壇堂を建立して中に法華経一部を納め戒壇を築き板本尊を安置し奉る。是れ即ち法華本門の大戒たるべきか。」

 つまり、国主帰依の時には、本堂には久遠実成の釈迦牟尼仏の仏像を安置し、板本尊は別に戒壇堂を建立して安置する、というのです。
 実は、堀上人が富士宗学大全(研究教学書)として残された膨大な文献の中に、この日精が法主の座を降りた後に自筆で書き残した家中抄があるのですが、その中で日精は、国主帰依の時に安置する本尊について、

「万年救護御本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:戒壇堂に安置するのは万年救護御本尊の事である。今、房州の妙本寺にある。)

と、板本尊についても明らかに日蓮大聖人の出世の本懐とは考えていなかったことを証明する箇所があるのです。
 富士宗学大全(研究教学書)では、その文を二本線で消して、

「板御本尊の事也、今当山に在る也」

と書き直した形跡があり、それを堀上人は厳しく見抜かれていて、

「当山の二字は全く因師(31世)なり。又二か所の消し方は精師の例にあらず。又師に万年救護の説あるは年譜(死ぬ数年前に書いた本)には弘安二年に懸とかいたり。(日精が住職だった)常在寺には万年救護本尊を本堂に安したり」

と、大聖人の出世の本懐は板本尊ではなく、弘安二年の大本尊とは万年救護本尊だと死ぬまで信じていた法主の存在を明らかにされているのです。
 この板本尊が日禅授与本尊の模刻本尊だという分析は、別のトピで証明していますが、まあとにかく退席痔にはいろんな「僧宝」がいたもんだ!(爆笑)

 次に、日精がゲイ座を降りて10年以上も後に書き残し、登座後30年も経ってまとめあげた「富士門家中見聞」(家中抄、1662年完成)における邪義を示します。
 日精は家中抄において、執拗に随宜論で主張した邪義を繰り返しているのです。

「上寿長年なるが故に御弟子衆御遷化して師独り久住し給ふ、是の故に未決の義有れば日代に問ひ奉り決定せり(日印造仏の義日代に問ひ奉る日の返状之有り日印の下に至り其状とも之を出す往て見るべし)。」(家中抄中5−205)

 つまり日精は、日代が大石寺で未決の義があれば決定するような実権を持っていたとした上で、日精自身が添え書きを書いて、日印が造仏について日代に質問した返事を家中抄の下に載せているので見なさい、と指示しているのです。

 このことからも理解出来るように、日尊、日印、日大に関する記述は、日辰の三師の伝からの引用としているが、明らかに三師の伝とは異なる箇所や、日精の見解を述べた箇所が随所に見られることから、日精の本意を延々と書き連ねたものであることが明らかなのです。
 ところが、退席痔の呆義研鑽委員会の坊主(ただのハゲ)などは、とにかく誤魔化して逃げようと言う魂胆で、

「日精上人は、機械的に引用した「三師の伝」について「日辰祖師伝は多くは西山の説を記して御筆に違する事あり」と誤りのあることを指摘されているのです。ここに、『家中抄』の「三師の伝」をもって日精上人の真意とすることができないことは明らかです」

などと、寝呆けた主張をしていたようですが、読めば読むほど三師の伝と家中抄とは違いが明らかです。

 家中抄の三師の伝引用部分で、祖師伝には無い箇所を少々挙げて、邪宗の坊主どもの大嘘を明らかにしておきます。

「此の文章に就いて不審有り正和元より暦応元までは廿七年なり、然るに此の文に王城の開山云云信じ難き第一なり、日尊勘気は正安元年なり是より十四年めなる故に赦免の後の付属なり」(富要5−230)
「故に難信難解の第一なり、若し○機の語なれば有り難し程無く符合を為す権者の所作凡慮の及ばざる所なり」(富要5−230)
「御逆修の石塔を立てらる、首題は自筆に書写し給ふ。日尊御遷化は貞和元乙酉五月八日寅刻なり御年八十一歳なり、興師滅後十三年在世なり。」(富要5−231)
「予寛永四丁卯十月十日下総国幸島下向の節之を書写す文字損落之れ多し視ん仁之を計れ。祖師伝の中に伊豆六ケ寺の事、日尊直の建立にはあらず」云云(富要5−233〜234)

 以上、どれもが日尊のことについて書いた箇所ですが、日精から見た日尊の最大の過ちである「広布の時以前の造像」についても、日精の信念として日尊への疑念をしっかりと述べているのです。やはり、家中抄の執筆方針である

「其の後御筆併びに遺弟の書籍記文等を拝見するに諸伝相違の事甚だ多く亦諸書に載せざる行相幾許(いくばく)ぞや、ここを以て今御筆を先として遺弟の記文取るべきものは之を録し諸伝の善説には之に順し、善ならざるは頗るために改め易へ次第前後をただす」

という末文は、日精の生涯にわたる信念の表明なのです。
 さらに、家中抄の日道伝においては、日目上人からの相伝の目録として、

「日興御さく(作)の釈迦一そん一ふく」(富要5-129)

と首をかしげるような内容を書いていますが、これに対しても堀上人は、

「本師造像家なる故に此の疑文を依拠とするか (家中抄の)下に批するが如し」(通解:日精は造像家なのでこの疑わしい文を根拠としているようだ。家中抄の下で批判しておいたとおりである。)

と、明確に日精の造像への邪念から来る文献上の間違いを破折されています。

 次に、日精がゲイ座を降りて40年ほど経って、死ぬ数年前に書き残した「日蓮聖人年譜」においても相変わらず法華経一部読誦の邪義を主張しているのです。
 日蓮聖人年譜」で日精は、

「凡そ当家の意は要行を以て正行とすることは末代凡夫の機を勘へて行し易き故、然りと雖も読誦の助行を修することを妨ぐ可からず高開両師此の意なり(中略)一部受持読誦解説書写等を以て助業助行と為すなり、所詮七字口唱を以て正行と為し自余は皆助行なり」(富要5-129)

⇒ 堀上人の頭注「本師の正助の対判やや濫るが如し注意すべし」
「助行にいたりては或いは毎自作是念の文を唱へ或は自我ゲ或は寿量品或は略開三を誦し或は方便品の長行を誦し尚広くして一部読誦をなす、七字口唱を以て正行と為す外は皆助行に属するなり」(富要5-130)

⇒ 堀上人の頭注「此下所行又大に濫る用ゆべからず」

と、正行は題目であるものの、助行として法華経一部読誦にまで拡大解釈して、またまた日精は日辰の教えをそのまま受け売りした邪義を書き残し、堀上人が一つずつ破折されているのです。

「蓮祖我読誦を挙げて云く今日蓮法華経一部読んで候、一句一偈尚受記を蒙れり況や一部をやと弥々たのもし、是れ若自読なり乃至法蓮抄に云く、法華経読誦五部と蓮祖称歎の言を加へたまふ是れ又若教人読なり、若自読若教人読其の義此くの如し、亦高祖法華経一部書写の事多般なり、日興亦法花経一部書写したまふ当寺霊宝随一なり、若自書若教人書其の義斯くの如し。」(富要5-131)
(通解:大聖人は自らの読誦について、「今日蓮は法華経一部を読んでいる。一句一偈なお記別を受けているいわんや法華経一部をやといよいよたのもしい」と言われている。これは「若しや自ら読む」である。法蓮抄には、法華経を5回読誦と大聖人称歎の言葉を加えられている。これ又「若しや教えて人に読ませる」である。「若自読若教人読」という義はこのようなものである。また大聖人が法華経一部を書写したこともたくさんある。日興上人もまた法華経一部を書写されており大石寺の霊宝の随一である。「若しや自ら書き若しや教えて人に書かせる」という義はこのようなものである。)

等と、要法寺の化儀である法華経一部読誦の根拠をもっともらしく説明しているのです。知らないと騙されてしまうようなもっともらしさですが、これに対しても日亨上人は、やはり頭註において、

「助行を広くして遂に一部読誦に及ぶ 正く開山上人の特戒に背く 用ふべからず」(富要5-131)
(通解:助行を広くして遂に一部読誦に及んでいる。まさしく開山日興上人の特別な戒に背いている。用いてはならない。)

と、完璧に日精の見解は邪義だと破折されているのです。
 堀上人がここまで厳しく日精の邪義を破折されている理由は、邪宗要法寺の日辰と全く同じ主張だと御存知だからなのです。造像・読誦論者である日辰の「読誦論議」には、

「当門徒の有智無智一同に正業正行の一辺は、寿量本因の題目也、若し正業正行に於て余事を交へて別に正業正行有りと云はば、即此の文に違背する也」

とあり、実は日辰も全く同じく「題目を正業正行とする」と主張しているのです。まさかこれを退席痔派の正義だと言うのではあるまい?日精と日辰とは、造像のみならず読誦においても共通した主張をしているということが、妙観光のサル以外の方々には理解できたでしょう。
 これだけ一貫した邪義の主張をする時には、その邪義が「日精の真意」である判断するのが世間の常識です。可哀想なホッケコッコーの方々は、「日精50年の方便のみの説法」を信じて頑張るしかないのでしょうね?


 このような邪義の法主が出現した時に、極悪とどのように戦うべきかは、日精と大ゲンカした女性信徒の敬台院が大石寺宛てに出した手紙に明快です。

「弥々あくま(悪魔)げだう(外道)のまわう(魔王)を仏の御はからひ(計)にてことごとく(悉)打はらひ、是さき(先)ゑは内外とも一筋にしんぢん(信心)はげま(励)しだうしん(道心)もふかく成り申し候様にとをもひ(思)候て、我等ぢぶつだう(持仏堂)にはかいさん(開山)様のまんだらをかけ置申し候、此(注:日精の)まんだらは見申す度毎にあくしん(悪心)もまし候まま衆中の内に帰し申し候」(富要8-58)
(通解:いよいよ悪魔・外道の魔王を、仏の御はからいによってことごとく打ちはらい、これからは内外とも一筋に信心を励まし、道心も深くなるようにと思って、我々は持仏堂には日興上人の御本尊をかけ置きます。日精の本尊は見るたびごとに悪心が増すので、大石寺の僧侶たちに返却します。)

と、日精の本尊は気色が悪いから突っ返して、日興上人の御本尊を安置したというのです。
 さらに後任の法主を日舜と決めて、入院させたりもしています。この敬台院の墓は、数百年にわたって御影堂の後ろの三烈士の墓の隣にあったのですが、これぐらいやらないと大檀那として歴史に残らないのです。全世界の学会員も、もっともっと激しく邪義の坊主どもを責めるべきなのです。

 そこまで敬台院が日精を嫌った理由を、大白法では敬台院が釈迦像を飾っていたからだろう、と何の根拠もなく勝手に推測していますが、敬台院の手紙の中の、

「むしぼし(虫干)など御座候とてもいつかど(一廉)の儀に御座候に、今五人も御くわゑ成されたく御思召し候へば御出家衆も之無き様に御座候へば其儀なく候、各々打より候て万事御取出し成され候や様子重ねて御申越成さるべく候、かく(斯)か様に仰せられ候もこれさきにたうしゅ(当主)のままに重物ものは成されまじく候」(富要8-60)

等の敬台院の手紙について註釈を加えられた日亨上人が、

「虫払の日は七月の初に定めて準備を怠らぬやう等数々の注意が為されてある其文の底には暗に精師の住職としての物質的取扱ひぶりの不満が洩らされてる」(富要8-59)

と書かれているとおり、敬台院は日精の金銭管理や行事の遂行の杜撰さ等に怒りを覚えていたことが記録されているのです。
 邪宗門としては、日精をかばうために、敬台院にすべての責任を背負わせて、造像の執着があった敬台院を化導するために方便を説いたとか、全く歴史を知らないウソ八白のホラを吹いて、おバカな法華講員を騙すことに懸命ですが、恥を知れ!と言いたい。
 そもそも家中抄が完成したのは1662年ですが、すでに日精にとって目の上のたんこぶのような存在であった敬台院は徳島に法詔寺を移転させて、直接の縁が無くなったのは1645年であり、縁が切れて17年も経っているのです。邪宗門は言い訳をするのなら、バレないようにしたらどうだ?(爆笑)

 敬台院の死ぬ(1666年)わずか数年前の著作が家中抄であり、さらに言えば、すでに敬台院が死んで10年以上も経ってから書いた「日蓮聖人年譜」の中にまで、なぜ要法寺日辰の造像や読誦の邪義を書き残したのか。それは敬台院とは何の関係も無く、単に造像も読誦も日精の信念であった、というのが歴史の真実なのです。

 それにしても、一女性信徒が日精を大石寺から追放した後、邪宗要法寺系の末寺の坊主であった日感に相談して大石寺の後任法主を決めて、貫主に着任させていたのですから、日犬宗がどんな言い訳をしても血脈相伝や僧宝などに全く説得力などないことが理解できます。

 こうした歴史的な事実に基づくならば、「唯授一人の血脈相承」など、単なる希望的観測どころか、狂信者の幻想・幻覚でしかないのです!

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