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2019年09月09日21:21

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朝妻湊

滋賀県へ適当にドライブ

琵琶湖にあった朝妻湊は古代より米原と大津を結ぶ渡し舟で東山道の一部でもあった。近くには東山道と北陸道の分岐点もあり、東海地方と北陸地方を結ぶ交通の要港で人や荷物の運搬が盛んであった。大津、坂本へは「朝妻船」と呼ばれた定期便が出ており、そこからは陸路で京を目指した。奈良時代、朝妻の隣にある筑摩地域は皇室の御厨(みくりや)であり、大膳職御厨(朝廷の台所)が置かれていた。北近江、美濃、飛騨、信濃からの献上品の輸送や役人の移動に使われていた。木曾義仲の上洛やそれに続く後続部隊もここから京へ向かっている。

その繁栄は千軒以上の家屋があったとされ「朝妻千軒」と呼ばれていたが14世紀、大地震により朝妻の集落が琵琶湖に沈んだとの説がありそれを示す尚江千軒遺跡が湖底にあって土器や瓦が発見されている。

織田信長もこの湊を利用して京都を目指し、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建立した際もここから尾張や美濃で切り出された木材を運搬している。しかし慶長8年(1603年)に彦根藩の井伊氏が米原湊を御用港として保護したため琵琶湖の湖上交通は制限されてしまい湊は衰退していった。

朝妻湊は遊女を乗せる事が多く、木曾路名所図会「朝妻舩」など様々な風刺画がある。遊女、朝妻船、柳の木が描かれたものでこの構図は様々な画家が描いているが中でも英一蝶(はなぶさいっちょう)が描いた「朝妻船図」が知られている。物悲しげな白拍子が琵琶湖畔に浮かべた朝妻船で客を待っている絵である。平家の都落ちにより身をやつした女房たちが朝妻の入江で客を求めて舟を流したという話を表現している。

しかし一蝶は同時に小唄を付けてもいた

「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、ああまたの日の誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」

である。これは小唄を装って4代将軍・徳川家綱と柳沢吉保の妻との情事を諷したものであると言われている。「とこの山」は近江の歌枕、犬上郡鳥籠山の「床の山」と掛けたものである。柳沢吉保に関しては出世のために実の娘を綱吉の側室に差し出したという噂があった。「朝妻船図」は吉保の妻を遊女、綱吉を客に見立てて描いたとされこの罪により一蝶は島流しの刑を受けている。

ただし一蝶が島流しされた罪状は諸説あり、表向きの罪状は武士以外は禁止(武士は修練の1つとして黙認されていた)であった魚釣りを行った事が生類憐れみの令に違反したためとされている。
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