吉本隆明の『読書の方法』をパラパラと読んでいる。
その中で、太宰治の『駆け込み訴え』がでてきててさ。キリスト教理解として、あれこそが、という話になっていた。教会で牧師の話を聞いても「ちがうだろう」と。
「だめなのだ。彼らは、『新約聖書』の理解を、まったく、まちがっているとしかおもえなかった。綺麗事じゃないか。『新約聖書』なんて、そんなものあないよ、とうい抗議を、心の中で何度もあげた。」
という言葉が、ひどく迫ってきた。
正直なところ、俺も似た気持ちを神父さんたちの話に対して感じたことがあったから。ちがうのは、俺はそこまで聖書とか宗教に対して、強い感情は持っていないことでね。
この人たちは聖書とか、キリスト教というものがほんとに好きなんだろうな、と思ったものの、自分とは遠い、というか、あんまり自分に関係ない話だな、なんて思ったものだから(苦笑)。
吉本氏はそこで太宰治の『駆け込み訴へ』をあげたのだった。
そういえば昔、NHKの朗読番組であってさ。
香川照之の朗読で、映像部分は女子高生らしき子たちのグループ内の葛藤がでてきてたっけ。
録画したはずだけど、DVDに焼いたかなぁなんて思いながら検索したら、某所でみることができた(苦笑)。
太宰治の文章をめで追いつつ、動画をみていると、映像に合わせてちょっとずつかえてあるものの、お話と映像の対比がすごく迫ってきて引き込まれる。
これはすごいなぁ、と思った。
と、同時にここまでドロドロした愛憎というものを、吉本隆明や太宰治はキリスト教に対して観ていたんだね、と(苦笑)。
人間理解の複雑さという面で、なるほどなぁ、と思う。
同時に、ここまでのドロドロは俺はちょっと引くなぁ、とも(苦笑)。
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