【百尺竿頭】5446
藤尾秀昭
「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)、一歩(いっぽ)を進(すす)む」
百尺の竿の上をさらに進んだら落ちるのみと思われます。
しかし、そうではありません。
上求菩提(じょうぐぼだい)というさとりを求めて向上の道を進んでいくと、 「孤峰頂上(こほうちょうじょう)」という絶対境(ぜったいきょう)に到達する。
しかし、ここに停(とま)ってはいけない。
「孤峰頂上」でいい子になったり、いい気持ちになっていないで、 泥んこの社会に戻る。
百尺竿頭からなお前進するとは、向上から向下へ転進するのです。
向上の努力がそのまま人に尽くす向下への努力となって初めて進むという、と百一歳で旅立たれた高僧松原泰道師より教わりました。
いい気にならず、さらに努力精進する。
そしてそのことがそのまま「運のいい人」、「幸せな人」を たくさん作っていくことにつながる。
そういう世界をめざして一朝もおろそかにせず 歩み続けたいと思っています。
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「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)、一歩(いっぽ)を進(すす)む」
「無門関」に出てくる、唐代の禅僧、長沙景岑(ちょうさ けいしん)の言葉。
1尺は33センチだから、33メートルの長さの竿。
百尺の修行をしたとしても、そこに安住してるのなら、それは悟ったとは言えない。
更に一歩を踏み出し、身を投げ出すことだ。
自らを投げ出したその先が、世のため人のためという世界。
「末路晩年(まつろばんねん)、君子宜しく精神百倍すべし」
菜根譚の中の言葉だ。
晩年に差し掛かってからこそ、君子(立派な人、人格者)たるものは精神を百倍にして、気力を振り絞って、生きていかなければならない。
それを森信三師は、「人間はおっくうがる心を刻々に切り捨てねばならぬ。そして齢をとるほどそれが凄まじ くならねばなるまい」と言った。
齢をとるほど、さらに精神を鼓舞し、気力を奮い立たせ、学び続ける。
いくつになっても、更にもう一歩、精進努力する人でありたい。
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