ポピュラー音楽とクラシック音楽・現代音楽のジャンルの境界を、自由と知性のパスポートを手に、やすやすと飛び越え駆け抜けていった、私の精神的師匠、坂本龍一。
今年、天に召されて輝く星となってしまった彼は、私を導いてくれた師にして、ヒーローだった。
私が、彼から学んだ大切なこと。
ポピュラー音楽とクラシック音楽
サブカルチャーとハイカルチャー
芸術性とポピュラリティ
西洋と東洋
過去と未来
人文学と自然科学
感性と論理性
ロゴスとパトス
現実と夢想
創造と想像
視覚と聴覚
見えるものと見えないもの
音楽と、音楽にまとわりつく音楽以外のもの
そして
人の手の作りし、永遠の存在を宿された「もの」と、
その「もの」を作りし人の限りある命
これら互いに相反する観点の双方から複眼的に見なくては、物事の真の姿は捉えられない。
互いに相反する視点は、両立困難で矛盾する関係なのではなく、車輪の両軸のように同じ方向に進むための関係。
そのことを、彼の音楽と向き合う真摯な姿勢を通して学んだ。
師がいなくなっても、まだまだ学ぶべきものは残されている。
彼が残してくれた遺産、レガシーある限り、それを糧として、私はこれからも生きて行けそうな気がする。
彼から学んだもうひとつ大切なこと。
彼の楽曲を真似て演奏することから芽生えた疑問。
風が空間を吹き抜け届くように、彼の音楽の和声の響きが、空気の振動となり、なぜこんなにも心を共振させ響かせるのか。
その「和声の響きの仕組み、構成を知りたい」という疑問は、和声法・コード理論の学びに、
「旋律の音の上がり下がりや音程関係の秘密を知りたい」という疑問は旋法・モードの学びへと、自然と導かれていった。
真似び:「まねび」はいつか学び:「まなび」となり、そして、観賞すること、学ぶこと、楽しむことは、分かちがたく一つのものとなる。
そう教えてくれた。
観賞すること、学ぶこと、楽しむこと。
その3つだけで十分なのに、そのたった3つのことをせず、つい快楽のままに身を任せてしまうのもまた、彼の音楽の持つ、私を惹きつけてやまない妖しい魅力であることもまた事実。
学びも真似びもなく、ただ彼の創造した美しい響きの世界の快楽に身を委ね
音の中へと落ちて行く悦楽。
時間が音の中へ落ちて、溶けていく。
2時間の映画で描かれる世界は100年に及ぶ出来事もあれば、ほんの数日の出来事もある。
5分の楽曲が表現する世界もまた、5分で完結する物語ではないように。
ダリの溶けてゆがんだ時計のように。
まどろむかのように時間を無駄にする、あの背徳感にも似た快楽もまた禁断の果実のように抗いがたい魅力に満ちている。
そういう時間もまた、多様に伸縮する時間の一部、弛緩の部分なのだろう。
弛緩と緊張。
そのどちらか一方に偏ることなく、双方を行き交う振れ幅の広さこそが人生の豊かさに繋がっていくようにも思える。
これもまた、彼の音楽から、そして彼の生き様から学んだ「複眼的視点で物事を見る」こ
と。
「音楽はいつまでたっても思い出にならない
この今を未来へと谺(こだま)させるから
きみもいつまでもいなくならない」
〜谷川俊太郎
ログインしてコメントを確認・投稿する