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2023年09月27日23:03

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読書レビュー『街とその不確かな壁』村上春樹

村上春樹は自ら本書の「あとがき」に書いているように、「同じ物語」を書いているのだ。本作もまたこれまで書いてきたものの繰り返しである。
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 ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ――――と言ってしまっていいのかもしれない。
 要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。僕はそのように考えているのだが。 (P661「あとがき」より)
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こちら側とあちら側、パラレル・ワールド、異世界…。この現実の向こう側にもう一つの別世界があり、その壁抜け、異世界への入り口は様々だ。「首都高速の緊急避難用の非常階段」(『1Q84』)だったり、井戸の底だったり、屋根裏と石室の穴(『騎士団長殺し』)だったり、さまざまな現実の裂け目、落とし穴、出入り口がある。本書もまた、「ぼくときみ」との想像で作り出した壁のある街に「わたし」は入り込む。門衛が死んだ単角獣を埋めるために掘った穴の底に、眠っていたのだ。

壁に囲まれた街の図書館でわたしは「夢読み」をする役割を課せられている。そばには、現実世界で突然消えてしまった「きみ」がいるのだが、「きみ」は自らの影を失い、現実世界で出会った「ぼく」のことを全く覚えていない。感情などの喜怒哀楽も時間も音楽も余計なものは何一つない「壁のある街」では、淡々と日常が経過する。過去の人びとの感情を鎮めるために、閉じ込められた「古い夢」を読むのだ。この「壁に囲まれた街」と「図書館」と「夢読み」は、村上春樹が随分と前に書いた原典がある。

『街と、その不確かな壁』(1980年「文學界」)という「、」があるだけの似たような題名の中編で、「文學界」で発表されただけで書籍化されていないものだ。「生煮えのまま世に出してしまった」とあとがきで書いている。それを長編『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』(1985年)という二つの物語がパラレルに進行するうちの『世界の終り』で同じようなシチュエーションで書かれている。「壁に囲まれた街」、「図書館」、「夢読み」、「単角獣」などほぼ同じだ。村上春樹はそれでも納得できず、2020年、コロナ禍で再度この物語を長編として書き直した。それぐらいこの「壁に囲まれた街」のことがずっと気になっていたのだ。そして現実世界に影を帰還させた第二部と、イエロー・サブマリンの黄色いパーカーを着た少年と入れ替わる「壁に囲まれた街」の第三部の物語を付け加えた。

「壁」というと私は村上春樹がエルサレム賞授賞式のスピーチで使った「壁と卵」の話を思い出す。
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「高く、堅い壁と、それに当たって砕ける卵があれば、私は常に卵の側に立つ」

「こんなふうに考えてみてください。私たちのそれぞれが、多かれ少なかれ、1個の卵なのだと。私たちのそれぞれは、脆い殻の中に閉じ込められた、ユニークでかけがえのない魂です。これは、私にとっても当てはまりますし、皆さん方のそれぞれにとってもあてはまります。そして、私たちそれぞれは、程度の差こそあれ、高く堅い壁に直面しているのです。壁には名前があります。「システム」です。システムは、私たちを守るべきものです。しかし、時には、それ自身が生命を帯び、私たちを殺し、私たちに他者を殺させることがあります。冷たく、効率的に、システマティックに。」
(出典「Haaretz」 というイスラエルの新聞のサイトより)
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「壁」とは「システム」だとここでは言っている。この小説の「壁に囲まれた街」は、歓びも哀しみも、音楽も本も映画も芸術もない。人々はそれぞれが街を維持するために与えられた役割をこなしているように思える。争いもない代わりに、幸福も感じられない。時間は積み重ならず、記憶も残らない。システムを維持するための現在が続くだけである。そのシステムを維持するために犠牲となるのは、生命力の弱い単角獣たちだけである。影を奪われた人間たちは、闇を抱えない代わりに喜びを見出せない。そんな街で大好きな「きみ」がそばにいても、一緒に川べりの道を毎晩歩いても、幸福にはなれない。平和で静かな秩序のある街。自分の役割がはっきりしていて居心地がいい街。トラブルもなく、システムを牛耳る悪役も登場しなければ、怪しい人物も現れない。「幻想としての壁」が行く手を遮るだけなのだ。そんな平和な日常の罠に落ち込んでいく主人公。それはAIが支配する管理された世界=ディストピアのようでもある。

この小説でわたしが「壁のある街」に行きたいと思ったのは、かけがえのない存在の「きみ」が突然消失し、「本物のわたし」こそがその街にいるのだと言われたからだ。ここで「本物のわたし」とは何かというテーマが浮上する。私自身も影と自分とどちらか本物なのか分からなくなる。「きみ」もまた同じだ。きみは公園で、自分のことを影法師だと言った。
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「ここにいるわたしには実体なんかなく、私の実体はどこか別のところにある。ここにいるこのわたしは、一見わたしのようではあるけど、実は地面やら壁に投影された影法師に過ぎない・・・・・そんな風に思えてならない」
「わたしの実体は――――本物のわたしは――――ずっと遠くの街で、まったく別の生活を送っている。街には高い壁に周囲はかこまれていて、名前も持たない。壁には門がひとつしかなく、頑丈な門衛に護られている。そこにいるわたしは夢も見ないし、涙も流さない」(P93)
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軍隊で負傷して温泉宿で美しい女性の幽霊を見た老人は、女性の片側だけの顔しか見なかった。それが気になってしょうがない。誰もが心の中に隠している闇。それを見ないことにして、人はやり過ごしている。

元図書館長であり、霊的存在でもある子易さんは『聖書』の「詩編」の言葉を語る。

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「「人は吐息のごときもの。その人生はただの過ぎゆく影に過ぎない」。ああ、おわかりになりますか?人間なんてものは吐く息のような儚い存在であり、その人間が生きる日々の営みなど、移ろう影法師のごときものに過ぎないんです。(P303)

「本体と影とは表裏一体のものです」「本体と影とは、状況に応じて役割を入れ替えたりもします。そうすることによって人は苦境を乗り越え、生き延びていけるのです。何かをなぞることも、何かのふりをすることもときには大事なことかもしれません。気になさることはありません。なんといっても、今ここにいるあなたが、あなた自身なのですから」(P383)
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第二部の現実の世界で図書館長になったわたしは、半地下の部屋で死んでいる霊的存在、元図書館長の子易さんと接触する。
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私にかろうじてわかるのは、自分が現在おそらくは「あちら側」と「こっち側」の世界の境界線に近いところに位置しているらしい、ということぐらいだった。ちょうどこの半地下の部屋と同じだ。それは地上でもないし、かといって地下でもない。そこに差し込む光は淡く、くぐもっている。私はおそらくはそのような薄暮の世界に置かれているのだろう。どちら側ともはっきりとは判じられない微妙な場所に。そして私はなんとか見定めようとしている。自分が本当はどちら側にいるのか。そして自分が自分という人間のいったいどちら側であるのかを。(P420)
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「こちら側」と「あちら側」の境界的な場所としての「半地下」。現実と虚構の「壁のある街」を影と表裏一体で行き来しながら、自分の心の底を見つめていく。

村上春樹は「究極的な恋愛」とその存在の消失、欠損からいつも物語を始めている。失われることを運命づけられた愛。『ノルウェイの森』の直子の死がそうだったように、ほとんどの村上春樹の小説は「愛の欠損」「消失」を物語の駆動力にしている。異世界への冒険は、いつもそのようにして始まる。その欠損を埋めるための旅。

「100パーセントの女の子」が出てくる短編が初期のものにある(『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』)。美人でないけれど、完璧な女の子。それは自分の「片割れ」のような幻想の女の子なのかもしれない。現実世界には存在しえない完璧な異性。大昔の両性具有だったころの「片割れ」。そんな幻想としての女の子の存在があって、その大切な女の子を失ったところから始まる物語をずっと書いているような気もする。そしてその女の子に再び会っても、彼女は何も覚えていない。愛は永遠に失われ、そこからしか何も始まらない。異世界を潜り抜けて、再び現実に戻ったとき、どう折り合いをつけながら新たな自分を見出せるのか。自分でも知らない自分が心の奥底にある。影法師に過ぎないあやふやな自分という存在。その先に進むには、新たな自分に出会うしかない。そのためには、自分を信じるしかないのだ。

「恐れてはいけません。前に向けて走るんです。疑いを捨て、自分の心を信じて」
と影はわたしに言った。
イエロー・サブマリンの少年も言った。
「信じることです」「何を信じるんだろう」「誰かが地面であなたを受け止めてこれることをです。心の底からそれを信じることです。留保なく、まったく無条件で」(P639)

本書には、騎士団長も免色さんもリトルピープルたちも、やみくろも羊男も登場しない。変わって登場するのが、元図書館長の子易さん。紺色のベレー帽をかぶり、スカートを履いたおじさんの子易さんは、なんだかとてもいい人だ。子易さんも突然、愛する家族を失った主人公と同じ欠損を抱えている。失われた大切なもの、傷のようなものを抱えている。コーヒーショップの女性も何らかの性的なトラウマを抱えている。それでも前を向いて、自分を信じて、生きていかなければならない。子易さんは死んでしまったけれど。時には影と本体を入れ替わりながら、こちらと向こう側を行き来しながら、現実と虚構を横断しながら。「真実はひとつの定まった静止の中にはない」、「不断の移行=移動する相の中にある」のだから。コーヒーショップの女性との現実の世界での恋に、この小説は希望を示した。二人で時間を積み重ねるという行為によって。物語の力は、現実を動かすのだ。
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ガルシア・マルケス、生者と死者との分け隔てを必要としなかったコロンビアの小説家。何が現実であり、何が現実ではないのか?いや、そもそも現実と非現実を隔てるようなものは、この世界に実際に存在しているのだろうか?壁は存在しているかもしれない、と私は思う。いや、間違いなく存在しているはずだ。でもそれはどこまでも不確かな壁なのだs。場合に応じて相手に応じて堅さを変え、形状を変えていく。まるで生き物のように。(P587)

現実はおそらくひとつだけではない。現実とはいくつかの選択肢の中から、自分で選び取らなくてはならないものなのだ。(P623)
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コロナ禍に書かれた物語なだけに、登場人物も少なく、とても内省的な物語になっている。冒険も活劇も邪悪なる暴力もセックスもカルト教団も出て来ない。だから物語の展開は単調で物足りない。シンプルに内省的に淡々と進む。いつもの村上春樹に比べて、物語の起伏が足りないような気がする。静かに自分というものに向き合った小説だ。
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