桜満開の週末。来週にはもう散ってしまうだろう夜桜を見納めに、万博記念公園へ行った。さくらまつりが開催されるのは3年ぶりらしい。案の定見物客や夜店の屋台で下界はごちゃごちゃとにぎわっていたが、上空を見上げると春の月。そして太陽の塔が桜並木から顔を出して、逝く春にさよならと言っているようで・・一抹の淋しさを覚えた。
芸術は長く、人生は短し
Ars longa, vita brevis
坂本龍一が好きだった言葉だそうだ。
願わくば花の下にて春死なむ
その如月の望月の頃
思わずこの西行の辞世の歌と彼の辞世の心象を重ねてしまった。
ペルシャの詩人、オマル・ハイヤーム(1048〜1131年)は『ルバイヤート』(四行詩集)の中で春の情感をこんなふうに詠んでいる。
酒を飲め、それこそ永遠の生命だ、
また青春の唯一(ゆいつ)の効果(しるし)だ。
花と酒、君も浮かれる春の季節に、
たのしめ一瞬(ひととき)を、それこそ真の人生だ
(小川亮作訳)
春に花と酒を楽しむ、季節に人生を投影するというのは古今東西共通なのだろう。
オマル・ハイヤームの上記の歌をみていると、井伏鱒二由来の以下の歌とも共通点を覚える。
この盃を受けてくれ
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが人生だ
これは、井伏鱒二が、8世紀(晩唐)の漢詩人、干武陵(ウブリョウ)の漢詩 「歓酒」を意訳したものの一部(結句)でとても有名だ。
映画監督の川島雄三がこの歌を好んでいたらしく彼の著作に「花に嵐の映画もあるぞ」という本があったり、川島の一番弟子、今村昌平が「さよならだけが人生だ 映画監督川島雄三の生涯」という追悼禄を書いたりしている。
元の漢詩は
勧君金屈巵 君ニ勧ム金屈巵(キンクツシ・金の盃)
満酌不須辞 満酌辞スルヲ須(モチ)イズ
花発多風雨 花発(ヒラ)ケバ風雨オオシ
人生別離足 人生別離足(オオ)シ
オマル・ハイヤームは、セルジューク朝の宮廷につかえた天文学者、数学者、詩人であった。高次方程式を解き、正確なジャラーリー暦を作成した。
「ルバイヤート」はペルシャの「四行詩」の形態だが、その代表がハイヤームの作品である。
明日のことは誰にもわからぬ、
明日のことを思うは無益なこと。
心が覚めているのなら、この一瞬を無駄にするな、
命の残りは限りあるものなのだから。
オマル・ハイヤーム/岡田恵美子訳『ルバイヤート』
作家の陳舜臣がオマル・ハイヤームの『ルバイヤート』(集英社2004年)を翻訳したことはあまり知られていないのではないか。序文で下のように書いている。
「ルバイヤートは私の青春とともにあった。(中略)戦時中の仕事なので、とくに忘れられない。
死生観について、日常のことなのでいつも考えていた。同級生たちは大部分がすでに戦地へ行っていた。そのような状況のなかで私はルバイヤートを、辞書を片手に、それこそ精読していたのである。(後略)」
世間も常にしあらねばやどにある桜の花の散れるころかも
(世の中も無常であるがごとく、桜の花もこうして散っていくものだ。)
全米NO1ヒットとなったバーズの楽曲「ターン、ターン、ターン」は旧約聖書の「伝道の書(コレヘトの言葉)」3章の一節からの出典で
ピート・シーガーがメロディーをつけたものだった。
愛するための時があり、憎しむための時がある
戦争の時があり、平和な時がある
抱擁するときがあり 抱擁を拒む時がある
平和のための時
それはまだ遅すぎではないのだと
私は声を大にして言うのだ
http://www.tapthepop.net/roots/49548
「ターン、ターン、ターン(変わる、変わる、変わる)」という表現は仏教の無常観にも通じるものがあるようだ。
人間が苦を脱却するための哲理として無常観があるならば戦争も常ではない。
日本の古典「平家物語」などに表現されている戦争も無常観を通じて平和を祈るものだと解することができるだろう。
坂本龍一さん死去、71歳 YMOで一世風靡 戦メリなど映画音楽多数手掛けた「教授」
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=7360807
ログインしてコメントを確認・投稿する