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2022年12月23日17:37

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映画レビュー「ケイコ 目を澄ませて」

(字数の関係で少し長いレビューをこちらに載せておきます)

これはボクシング映画でありながら、ミュージカルのようなダンスの映画だ。三浦友和と岸井ゆきのの二人の動きがシンクロし、心が重なり合う。高速ミット打ちはトレーナーと岸井ゆきのの呼吸がピッタリと一致する動きの美しさがある。足を交差させる二人のステップはもうダンスそのものだ。岸井ゆきのと三浦友和の大鏡の前でのシャドーボクシングの動作のシンクロが感動的なのは、言葉で伝わる以上のものがこの無言のシーンに凝縮されているからだ。初めの方の河原での二人の体操の動作から、動きのシンクロは始まっていて、最後は三浦友和会長愛用のピンクの帽子を彼女に手渡し、帽子をかぶる身振りのやり取りによって、三浦友和の思いはしっかりと岸井ゆきのに受け継がれた。三浦友和が彼女のボクシングの試合のビデオを見返している後姿を彼女は偶然に見る。「ひと休みしたい」という彼女の停滞する心を、その後姿が励ます。これは言葉を超えた動きによる二人の愛の物語ともいえるし、二人の心が動きによって共振する物語なのだ。動作のシンクロは、弟の彼女のダンスを夜の団地で3人で踊るシーンでも繰り返される。

思えば三宅唱という映像作家は、<動き=運動>にこだわってきた。『やくたたず』では、若者たちのフレームの外と内を車や自転車を使って出入りさせながら空虚な日常を描いていたし、『Pleyback』はスケートボードを使いながら空間と時間を移動させていた。時代劇の『密使と番人』では、ひたすら森を歩かせていた。函館を舞台にした3人の若者たちを描いた『きみの鳥はうたえる』もまた、3人の街を歩く姿が印象的だった。

この映画が魅力的で愛すべき作品だと思えるのは、聴覚障害のボクシングをしている一人の女性ケイコが、ただそこにいるだけの映画だからだ。特別にドラマチックなことが起きるわけではない。聴覚障害ということを特別に悲劇として強調している訳でもないし、障害にもかかわらずボクシングに挑むという姿が感動的なわけでもない。ボクシングジムが閉鎖されることになり、会長が視力を失いつつある中で病に倒れるというアクシデントはあるが、それが劇的なわけでもない。プロになって2勝するも、ボクシングへのモチベーションが薄れつつあるケイコの日常がただ描かれるのだ。ジム閉鎖決定後の最後の試合で、劇的に逆転勝利するわけでもない。ドラマは特に何も起きないのだ。ただそこにケイコがいるだけ、その佇まいが感動的なのだ。会長に少し惹かれ、会長と動作をシンクロさせつつ、日記にトレーニングの日常を記録し続ける毎日。朝は目覚まし時計ではなく扇風機の風で起き、河原まで走ってトレーニング、昼はホテルでベッドメイクの仕事をし、ジムでミット打ちをする。彼女の部屋、橋桁の下の河原、仕事をするホテルの部屋や廊下、そして路地へと降りていく階段、ボクシングジム。限定された場所=空間が何度も映し出され、日常が繰り返される。だから新しく都会的なボクシングジムは、映画の映像の中で異質なものとして映る。ケイコが受け入れられない風景。

番組オープニングでノートに文字を書く音、氷をかみ砕く音、縄跳びの音やサンドバッグをパンチする音、古いジムの金具の音などの音が強調される。聴覚障害のあるケイコは、これらの音を聴くことは出来ない。そんなことを思いながら、観客はこの強調された生活音に耳を傾ける。劇伴の音楽は一切使われず、弟の弾くギターの音が時々画面に流れてくる。あとはボクシングの練習の音が音楽のようにリズムを刻み、三浦友和の声と日記を朗読する妻の仙道敦子の声があるぐらいだ。ろう者同士の会話は字幕も入れず無音のまま。静かな映画なのだけれど、決してそれが物足りないわけではない。逆にさまざまな音が溢れ、役者たちの動きの一つ一つに目が離せなくなる。観客もまた「目を澄ませる」ことになるのだ。

鏡が何度も使われ、ケイコは鏡に映った自分を見る。一日に何度も着替え、階段を上り下りしながら日常を繰り返す。黒い夜の川を走る列車の光が美しい。あるいは高架下の列車の光の明滅。ケイコはこの光の明滅を感じながら日々を過ごしているのだろか。川と高速道路の高架と列車が複雑に交差する場面が何度も使われ、印象に残る。昼に歩道橋を歩く遠景の岸井ゆきのと中島ひろ子の画面前に列車が突然通り過ぎる場面も驚かされた。

映画を観終わって、ふと気づいたのだが、なぜボクシングジムを閉鎖する場面で会長の三浦友和の姿がなかったのだろうか。まだ病院に入っているということなのかとも思うが、ジム閉鎖でみんなで撮る記念写真に会長の姿がないというのも不自然な気もした。ひょっとしたら会長の三浦友和は死んでしまったのか?ピンクの帽子は形見なのか?そんなことは何一つ語られないまま、映画では、川べりの土手にいる岸井ゆきのに事務所閉鎖の写真が送られてくる。三浦友和は、病院で岸井ゆきのの試合を見ながら、前向きな何かを感じて、車椅子で廊下を去って行った。岸井ゆきのは、仕事中の作業着姿の対戦相手だった女性に突然挨拶されて、何かを受け取り、土手の上を走りだす。そのシルエットで映画は終わる。人には様々な顔がある。それぞれの姿で生きているのだ。特別な言葉や特別なドラマがなくても、人は何かをキッカケに前に進み出す。何も起きなくても、やる気を失い停滞することもある。そんな日常の姿のありようが、しっかりと16ミリフィルムに焼き付けられているのがいい。決して美しいわけでもなく、背も低く、少し不器用にのさっと立つケイコの佇まい。ケイコを温かく見つめる会長の視線。それは、あの路地の佇まいや列車が交差する河原や古いジムと同じように、愛おしいのだ。
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