女性が抱く「男性嫌悪」と男性が抱く「女性嫌悪」。
本作において監督は男性の暴力性、権威性、性衝動 * 1 へ批判の旗を置くが、その視点もどこかいびつだ。 *2 ニュートラルな視点で見た場合、この作品は男女が一方へ抱く性差嫌悪を過剰に極大化して象徴化する。
いうところのフォークロア・ホラーにジャンルわけをされる本作。
教会の祭壇に見るグリーンマンやシーラ・ナ・ギグ、禁断の果実など、意味深長なものが登場する。だが結局ところそれは雰囲気だけだ。 *3
本質はやはり男女が抱く嫌悪の衝突。そういう意味ではフェミニスト・ホラーの意識が強く、最後の強烈もすぎる「単性生殖」の場面ならボディ・ホラーの匂いも香る。
良い意味なら多様的ホラー。悪い意味なら闇鍋的ホラー。これをまとめあげるものは赤と緑が基調の映像表現だ。
原初的で生命的な色の代表――血液の“赤”や自然の“緑”を選び出す監督のねらいは意図的だろう。この赤と緑の映像が、やや意味不明なホラーである本作の空気を醸成して最後まで運び切る車のエンジンだ。
繰り返すように本作の主題は男女双方が抱く“嫌悪”の対立にある。 *4
男が女を嫌い女が男を嫌う。だが2つは本来一体となって対立するべきではない。ホラー的文法における「ファイナル・ガール」となったヒロイン・ハーパーが疲れた顔で“彼”に問う。「どうしてほしいの?」と。
だが女にも男にも答えは“ない”。それこそ男女が誕生した瞬間から。
※1 有害な男性行動――つまりは「男性的優越性」だ。この「男性的優越性」は、敵対者や略奪者から女性を守る/得る意味で得た「本能」だ。だが成熟した文明では「男性的優越性」は個人ではなく社会が担保するようになった。このためあらゆる男性は必然「本能」を「抑圧」されることになる。ただ「抑圧」されているだけだ。そのためかならずしも「男性的優越性」を必要としなくなった近代の女性と対立する。
※2 とはいえ『エクス・マキナ』のころからそうですけど。
※3
https://w.wiki/6AAf。東欧から西欧に分布している再生のシンボル。生殖、性交、男性と結び付く。目や鼻や口といった、人体の開口部分から発芽して、増殖する逸話が存在する。ハーパーが作中に出会う男性はあきらかにグリーンマンだ。監督はグリーンマンの象徴――生殖、性交、男性をロリー・キニアへ担保させ、最後に究極の「自己増殖」へといたらせる。つまりは男性が持つ「女性嫌悪」が男から男へ伝播する暗示だ。
※4 チンパンジーといった類人猿のメスは嫌悪対象のオスをひっかいて追い払う。この攻撃性と威嚇性は女性の「本能」だ。だが近代社会となって「抑圧」をされているのは男性だけではなく女性も一緒だ。嫌悪する男性を、ところかまわずひっかくわけにもいくまい(とはいえやっぱり「本能」。人間の女性は嫌悪対象の男性を見た時に、どれほど訓練されようとも「本能」ゆえ表情をゆがめることを抑えることができない)。
ログインしてコメントを確認・投稿する