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2022年04月10日00:57

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当たり前










思考の範囲内で引き寄せるより、望外のできごとが巻き起こる方が吸引力は凄くないか。







画像はその1つ。婚活はしなかったがキャラ活(キャラメルシロップを探す旅)をしてきた。当然目的のブツは手に入れる。もっと甘いイメージだったが、思いの外純粋なキャラメルビターで素晴らしい。







1週間早くプレゼントをいただく。送り手は意志と行動の間隔がとても短くて凄い。午前中に届くとのことだったが、9時前に届くとか、配達の方もとても早かった。本とボールペンがお香の残り香で梱包されて、上にチョコレート3粒と、ミニチュアの黄色い造花の花束がまぶされている。




もしかしたら、花にも花言葉としてのメッセージがあるのかもしれない。見たことある花だが、花言葉には疎い。でも、好きな感じの花だった。ボールペンの色味も良き。




そうして、メッセージ性を読む。本は高村幸太郎の「さよならは仮のことば」と横光利一の岩波文庫緑本。緑本自体初めてかもしれない。高村さんの方は、タイトルだけ読めば別れ話みたいだな。




タイトルは全く気にならず、買ったと思しきしおりが挟んであることが分かる。別に意識として認識した訳ではないが、たぶん意図があって挟んだのだろうなという無意識レーダーが働く。曰く、「コカ・コーラレッスン」。ある少年が言葉の反乱(氾濫)を実感するお話。なるほど。ヘレンケラーが水を実感した話とか、聖書の「光(という言葉)あれ」が想起される。




本の話はまた後にして。




そういえば、まだ土曜日なのか。

時間が遅行している。




キャラ活。カルディか成城石井にあるとのことで、梅田に行くことに。カルディがどこにあるかと思ったら、お気に入りのジュンク堂の向かいの建物だった。しかし、何周かしてみたがそれらしいものはなかった。ハーブティーに入れるようなシロップとかワインはあったが。そのまま向かいのジュンク堂にも寄ってみたが、何も呼んで来ない。一応、今度大きい本屋に行った時に買わねばと思っていた本をぱらぱらしてみたのだが、この内容だったら今持っている専門書で事足りそうという感じになった。




求めるものと、巡り合うものにはずれがあるらしい。




そうして、さらに中心に向かう。

人がゴ〇のようだと、眼鏡の大佐が言いそうなくらいごちゃごちゃしているが、一昔前の僕なら気疲れしていたはずなのになんともない。影響を受けるかどうかってコントロールできるものなのだな。自発的にしているというより、素朴にやっている。




阪急三番街の成城石井でお目当てをげっと。

オリーブオイルも切れていたからげっと。







ここからちょっと大変。




出かける前にkindle読み放題本を散策していて巡り合った本。引き寄せの法則が上手くいかなかった人向けの世界線の移動の仕方みたいな話。




世界線の移動って、世界を客観とするから壮大なことになる。時間移動のパラドックスみたいなやつ。ただ、素朴に認知できる世界は容易く移動しうるものでしかなく。




この本曰く、変わる前と変わった後には境界がないとのこと。なんか分かる。この移動できる境地になるためには、まず自分1人で充分であるように生きるみたいな話があって、うわ、進行形でやっている。あと、人間関係がリセットさせて層が変わる。あぁまさに。創作系の人ばかり居る。




なんであんな感じだったのだって過去の自分に対して想うという話もあった。

たしかに、昨日からも移動している。




こういう微々たる移動を認識できるのは、生活を言葉として括っていないからで、「海辺のカフカ」の大嶋さんがいうところの「経験する何か」を実体験に留めていない。




「チ。」という漫画で、天体の移動の相対性を認識することで世界観が革命されるという下りがあったが、そうやって容易く移動できる存在でしかない。だれもかれも。




個人的に鳥取で生きるようになるのではという予感が勝手にある。

なんじゃろな。まだ接したい友人が住んでいるからなのか、砂丘が良かったのか。







どうでも良いが、帰り道でもっとも長く過ごした恋人さんの浮気相手さんの名前を想い出して、「あーあ」となった。この「あーあ」はその時間軸に流されるという訳でもないし、距離が離れたから俯瞰できるでもなく、ただその時の自分が見た世界を眺めることに対して。実感があることが実体を持っている訳でもない。




Kindle読み放題本に、世界線の移動先の自分を当たり前だと思うこと、パートナーも普通の人だと思うことというのがあったが、そんな感じ。




たぶん、時間軸における自分に嫉妬しないことが大事。

というところで、美学の小説にエドガー・アラン・ポーのウィリアムウィルソンが出てくる。自分の存在を時間で細分化していくと、無数の自分が居ることになり、全盛期があったり今の方が過去の自分より優れているということになったり。




僕はいまの自分が一番自分だとしているが、別に曇っていた時の自分のことも馬鹿にしていないし、本質は全然変わっていないと思う。ただ、可動できなかっただけ。嫉妬もないし、卑下もない。




たぶん人をこういう風に捉えられる人って、自分の中に闘争があるだけではないかという感じ。だから、人間関係が変わったところで同じことになる。でも、僕はそこで生きることが悪いとも思わない。だって、それが尊重というもの。




人の世界観を修正できるほど正しく生きていない。







で、冒頭辺りに戻ってきて。







高村幸太郎氏の「理想的な詩の初歩的な説明」がとても美味だった。

詩は言葉だが言葉ではないし、稲光のようなものであって匂うもの。僕としては言葉は味ですが、感覚的にしているという意味では近くて。




あと横光さんの味(文体)、何処かで読んだことがある気がするデジャブ。少し調べると現代文の教科書に載っていたとか。もしかしたら模試にもあったのかも。




世界って結局そういうもの。

身の丈に合わないことを想ったところで仕方がない。身の丈に合わないことを考えるのであれば、ちゃんと自分から離れないと。




はい、おやすみなさい。




良い夢を。



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