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2022年02月03日15:13

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物語 アラビアの歴史 知られざる3000年の興亡 (中公新書) 蔀勇造 中央公論新社 2018年7月25日

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p.108
 しかし、サーサーン朝軍の攻撃を受けて滅ぼされた都市として最も重要なのはハトラである。一世紀以降、政治的にはパルティアの宗主権下に成立したアラブ系の小王国の首都として、経済的には中央アジアやメソポタミアからの隊商路とシリアやアナトリアからの隊商路の中継地として、また軍事的にはローマに対峙するパルティアの最前線の要塞都市として発展した。
p.111
この王国はアラビア北部出身のアラブ人またはナバテア人によって建てられたと考えられていて、王の多くが名乗った即位名を採ってアブガル朝と呼ばれる。
p.113
 ゴルディアヌス三世の後継者となったのは、親衛隊の長官として従軍していたフィリップス・アラブスであった。シリア生まれであったが先祖がアラビア半島出身者であったことがその名の由来である。
p.115
 しかし二六七年、カッパドキアに侵入したゴート族を迎え撃つべくエメサまで出陣した際に、長男のヘロデスともども、甥のマエオニウス(オダエナトゥスの早世した兄の息子と言われる)とその一味によって暗殺されてしまった。マエオニウスは自ら「王」であることを宣したが、オダエナトゥスの妃であったゼノビアの迅速な行動により、クーデターは直ちに鎮圧され、ここに古代オリエント史上クレオパトラと並び称される、女王ゼノビア登場の運びとなるのである。

 ゼノビアというのはラテン語における呼称で、パルミュラ語碑文ではバト・ザッバイ(ザッバイの娘)と呼ばれている。父のザッバイはシリアに勢力を持つアラブ系部族の族長で、母はギリシア人だったという説が有力である。しかしエジプト語に堪能であっただけでなく、クレオパトラやプトレマイオス朝の後裔であると誇称したことなどから見て、エジプト出身であったとの説もある。
p.121
 後のアラブの伝承ではキンダはサウルのラカブ(添え名・渾名)となっているが、右の呼称を見る限りサウル族はキンダの支配氏族で、その族長がキンダ族とおそらく隣接地に居住していたカフターン族を治めていたように読み取れる。カルヤの遺跡からは、これとほぼ同じか、やや早い時期の「カフターンとマズヒジュの王、[?]族でカフターン人の、ラビーアの息子ムアーウィヤ」の墓碑が出土している。
p.122
 カフターンは後にアラブの系譜学で、すべての南アラブ系部族の祖と位置づけられる。二世紀前半のプトレマイオスの『地理学』でナジュド高原中央部のマースィル、ハリバーンあたりに置かれているカタニタイという種族に同定できるのではないかと言われるが、碑文史料によれば三世紀の初めにはそれよりも南方にいたことになる。隊商交易のかつての主役たちが姿を消したあとのカルヤを治めていたが、二世紀の末近くにその座をキンダ系の首長に奪われ、やがて歴史の表舞台から姿を消したのであろう。ただ現在もカルヤから見て西南西のアスィール地方の山岳部に、その末裔であろうか、山羊の放牧を主な生業とするカフターンと称する部族が存在する。
 キンダ族については、シャァルにやや遅れてサバァの王位に即いた兄弟王イルシャラフとヤァズィルの一碑文に、北方の「キンダとマズヒジュとベドウィンの王、バッダーの息子マーリク」と「アスドの王、カァブの息子ハーリス」への遣使が記録されている。
p.124
これは決して偶然ではなく、おそらく三世紀後半にキンダ族の主力はカルヤ周辺の居住地を後にして南下し、サイハド砂漠の縁辺に移住したのではないかと推察される。
 ところで、伝承ではハドラマウトがキンダの故地とされているようであるが、紀元前からのハドラマウト関連の碑文にその名が一切現れないところから見て、恐らくその説は間違っている。ハドラマウトとの関係が生じるのは、この移動後のことであろう。
p.125
 すでに幾度か名の出てきたアスド族は、南アラビア碑文を見る限り三世紀にはアスィール方面にいたようである。…サラートはイエメンからアスィールにかけて南北に連なる山脈の分水嶺より西側の地域名なので、碑文で言及されているのはサラートのアズドのほうであろう。
p.126
一般にはこの伝説はアナクロニズムで、アズド族の先陣がオマーンに移住したのは一世紀か二世紀前半と言われているが、これもそれほど確かな根拠に基づく説ではない。
…サーサーン朝からこの一族に与えられたジュランダーという称号がやがてこの一族の名称となり、さらにはマーリク系のアズドもジュランダーと称するようになったという。…

 さてタヌーフはというと、タバリーの年代記によればペルシア湾近くで結成された大部族連合であった。プトレマイオスの『地理学』で、先に挙げたカタニタイのすぐ近くに置かれているタヌイタイ/タヌエイタイに同定できるのではないかと言われるが、もしそれが正しければ、最初は内陸にいたのがその後ペルシア湾岸に移動したのか、それとも内陸部から湾岸にかけての広い地域に散在する諸族が大連合を形成したかのいずれかであろう。
p.127
それを窺わせるのが、パルミュラの女王ゼノビアがタヌーフの王ジャズィーマを謀殺したという伝承である。このジャズィーマについては、南シリアのウンム・アルジマールで発見された碑文(ナバテア語とギリシア語の二語で記された墓誌)に名を残す「タヌーフ王ガディーマ」に比定され、歴史的に実在したことが確実視されている。伝承ではジャズィーマ自身は、タヌーフとともに北に移動したアズド族の出であったという。
p.128
 ジャズィーマの王位は彼の甥(姉妹の息子)のアムルが継承した。…サーサーン朝のナルセ一世の三世紀末の碑文に、同王の支持者(ただし臣下か同盟者かは不詳)の一人として挙がっている「ラフマーイ王アムル」がこれであろう。…よってラフム朝という通称はこの政体の実体を指すには不適当、正しくはナスル朝(Nasrids)と呼ぶべきという意見が専門家の間では強い。
p.130
 マアッドは半島中央部に広く展開する諸部族の連合体である。…

 要するにイムルルカイスはシリアから南アラビアに向かって遠征し、途中、進撃路に沿った地域の諸部族を従えつつ、ナジュラーンにまで達したのであろう。
p.131
ただナジュラーンを征服・占領したとは記されていないし、ヒムヤル側にこの件に触れた碑文は残されていないので、シャンマルの指揮するヒムヤル軍との本格的な戦闘は行われなかったのではないか。
 ナスル朝はアラブ諸族、とりわけタヌーフの覇権を握って以降はサーサーン朝との関係を深め、下賜金と引き換えに同王朝西部の砂漠地帯の警備を担うとともに、対ローマ/ビザンツ帝国戦においては先兵の役割を果たしたと言われている。…
 ラフム族が元来シリア南部に根を張った部族であり、父のアムルはローマのパルミュラ攻めに一役買ったらしいことも考え合せると、イムルルカイスがローマに協調的であったのはそれほど不思議ではないのかもしれない。
p.132
それをよいことに、アブドゥルカイス(アブド・アルカイス)族をはじめとするアラブ・ベドウィンがペルシア湾を渡って対岸のイラン側に侵入し、湾岸一帯を占拠したという。
p.133
 しかしやがて軍の指揮を執れる年齢に達したシャープール二世は、領内のアラブ勢力を一掃したのみならず、バハレーン・ハサー地方あたりからアラビアに攻め込んで、半島中央部の部族を殲滅しつつヤスリブの郊外にまで迫ったと伝えられる。…

 ハドラマウト西部と言われるが、実際にはかつてのアウサーン王国のやや南方に位置するアバダーンというところで、ここを本拠地として四世紀以降大きな勢力に発展するヤズアン族(イスラーム期の文献ではズー・ヤザン)の主張が残した長文の摩崖碑文が発見された。
p.134
 唐初この一族を脅かしていたのはすぐ東隣のハドラマウトであったが、これを圧倒して後は、近隣諸族のベドウィン部隊を率いて半島中央部への遠征を繰り返した。ちなみにヤズアン族自身はベドウィンではなく、南アラビア土着の集団である。…ヤブリーンはリヤードの南東およそ二八〇キロに位置するオアシスで、マハラから北上するにはルブゥ・アルハーリー砂漠を越えて行かねばならない。また八度目の遠征では、リヤードとヤブリーンの間に位置するジャッウとハルジュまで進軍し、マアッド部族連合の諸族と交戦している。
p.135
 最後の一二度目の遠征にはキンダ族やマズヒジュ族も加わり、二〇〇〇人の戦士と一六〇騎の騎兵からなる部隊が、メッカ北東のスィジャーの井戸のあたりでマアッドに属すアブドゥルカイス族の支族と戦った。そこはニザール族とガッサーン族の領地の境界に当たると記されている。
p.136
この施設は同時にアスド族やニザール族の許へも行っているので、当時のガッサーン族の居住地もアスィールからヒジャーズあたりではないか、との見当はつく。
…ここから四世紀前後にガッサーン族はスィジャーを挟んでニザール族の北に位置し、そこからウラーあたりにかけてのヒジャーズ地方にいたらしいと推察がつく。なおナバテア語にはアラビア語のガインに当たる子音がないので、ガッサーンはアッサーンと表記される。さらに三六三年、ユリアヌス帝のペルシア遠征に従ったアンミアヌス・マルケリヌスが、ユーフラテス河畔でアッサーン族のサラセンの族長から待伏せ攻撃を受けたと、著書に記している
p.137
そこで早速マヴィアは一族を率いて、シリア南部からエジプト北東部へかけてローマ領の町や村を次々に襲い、宼掠をほしいままにした。
p.142
このうち、四世紀末から次世紀の半ば近くまでおよそ半世紀の長きにわたって王位にあったアビーカリブ・アスマドは、後世の伝承でイラクに遠征したと語り継がれるほど強力な支配者であった。
p.144
前章で見たヤズアン族の遠征と異なり、この度はヒムヤル王アビーカリブが息子のハッサーン・ユハァミンとともに陣頭に立ち、キンダ等のアラブ諸族も率いた本格的な軍事行動であった。…
 碑文に欠損があるために戦いの相手の全容は判明しないが、タヌーフの族長たちと戦って勝利を収めたことは確かなようである。そこから見てこの遠征は、イムルルカイスの遠征以来、次項で見るように自らの支配下に置くことを目的としていたと判断してよいであろう。…
…「高地のアラブ」は、おそらく半島中央部のナジュド高原一帯に勢力を張るマアッド部族連合のことであろう。…「低地」の原語は「ティハーマ」で、文字どおりにはヒジャーズよりも西の紅海沿岸部一帯の地名であるが、ここで「低地のアラブ」と呼ばれているのは、ヒジャーズ北方のムダル部族連合ではないかと言われる。
p.145
 というのもアラブの伝承では、キンダ王国の建国がアスアド・アルカーミル(アスアド・アブーカリブとも呼ばれ、碑文のアビーカリブ・アスアドに比定される)の遠征と結びつけて語られているのである。それによれば、アスアドによって征服されたアラビア中央部にキンダ王国が建てられたが、その王には、アスアドの息子ハッサーンの異父兄弟との説もあるフジュル・アーキル・アルムラールが立てられたという。…またフジュルについては、ナジュラーンの北東に位置するカウカブの近くに残されている碑文の「キンダ王、アムルの息子フジュル」がこれに相当するのではないかと言われている。
p.146
その政体を従来はキンダ王国と呼びならわしてきたが、キンダ族の主体はハドラマウトの北辺に留まったままで、北へ移動したのは一部にすぎない点から見るとこの通称は不適当、フジュル朝(Hujrids)と呼ぶほうが実情に合っているのではないかという意見が最近では強い。
…伝承によればフジュルは半島北東部のラビーア族にも影響力を有しており、彼らを率いてペルシア湾岸のハサー地方や、ナスル朝の支配領域であるイラク近辺にまで遠征して略奪を働いたという。また半島北西部においては、当時ローマと同盟関係にあり、下賜金の支給と引き換えに南部国境をベドウィンの襲撃から警護する任を追っていたサリーフ族の首長と戦い、これを破ったという伝承もある。
p.147
 このフジュル朝の勢力が最も大きくなったのが、フジュルの孫ハーリス・アルマリクの時代である。
p.148
 なお後者によると、ムンズィルは宗主であったサーサーン朝のカワード一世(在位四八八〜四九六年、四九八/九〜五三一年)から、当時この王が肩入れしていたマズダク教を受容するよう求められたが、これを拒否したためヒーラを追われ、代わって要求に応じたハーリスがヒーラとその周辺の支配を認められるようになった。しかしカワードの息子のホスロー一世(在位五三一〜五七九年)の即位とともに情況は一変、ムンズィルが復権し、ハーリスは家族や財産を残したままヒーラからカルブ族の領域に逃れたものの、そこで死を迎えたという。…
…ヒンドは熱心なキリスト教徒でヒーラに修道院を建設し、生家と婚家の諍いにもかかわらず妃としての地位を保持して、ヒーラの人々から篤く尊敬されていたという。
p.149
それによると、皇帝アナスタシウス一世(在位四九一〜五一八年)がこのハーリスの許へ使者を送って同盟の協約を結んだという。ところがパレスティナ州の総督であったディオメデスとハーリスとの間に不和が生じ、身の危険を感じたハーリスは砂漠に逃れた。
p.151
西暦五二一年に相当する年紀のあるこの碑文は、ヒムヤル王マァディーカリブ・ヤァフルが、ムンズィルに支援されたアラブ諸族の反乱を鎮定するために遠征してきたことを記録した碑文で、キンダとマズヒジュのベドウィン部隊のほかにバヌー・サァラバとムダルの部隊も従軍したと記されている。…
 後述するようにマァディーカリブは、アクスム王によってヒムヤルの王位に即けられたキリスト教徒の王であった。…またこの當時ムダル部族連合を率いていたと思われるバヌー・サァラバはガッサーンの支族で、別の史料の中で「ローマ人たちのアラブ」と呼ばれているところから見て、ビザンツと同盟関係にあったことは明らかである。
p.152
そもそもの発端は、ムンズィルがビザンツ領のオスロエネを攻めて、軍の指揮官二名を捕虜にしたことであった。…会談はムンズィルが滞在していたヒーラ南東のラムラという場所で行われ、結果的には二名の捕虜は解放され、ムンズィルとの間に和平協定も結ばれた。
 しかしこの会見が歴史上注目されるのは、その場に前年領内のキリスト教徒の虐殺を行ったユダヤ教徒のヒムヤル王からの使節が到来し、会見の参加者の前で披露されたムンズィル宛の書簡の中で、この王が自らの反キリスト教運動への支持を求めるとともに、ムンズィルにも領内のキリスト教徒の弾圧を勧めたことによる。
p.154
テオファネスの年代記によると、五〇二年ごろにアナスタシウス帝が、ガッサーン族の首長としては初めてサァラバの息子ハーリスと同盟の協約を結んだ。…なお、先に見たヒムヤル王の遠征軍にムダルを率いて加わったバヌー・サァラバとは、この一族のことであろう。

 そこでユスティニアヌス帝は、バヌー・サァラバとは別の一族に属するジャフナ家のジャバラの息子ハーリス(在位五二八/九〜五六九/七〇年)を取り立てて、ビザンツと同盟関係にあるすべてのアラブの統率者に任命し「王」としての権威を授けた。
p.155
ビザンツ皇帝の権威を後ろ盾に、下賜金を軍資金にしたハーリスとその一族が、ジャフナ家の幕営地であったゴラン高原のジャービヤを拠点にシリア周辺のアラブ諸族を糾合し、ムンズィル率いるペルシア側のアラブに対抗するというのがこの政体の本質であった。したがってガッサーン朝という通称は適当ではなく、ジャフナ朝(Jafnids)と呼ぶべきではないかというのが専門家たちの最近の見解である。
p.162
教会史家のフィロストルギウスが伝えるところによると、皇帝は南アラビアの異教徒たちの間にも正しい侵攻を広めることと、海路彼の地方を訪れるローマ商人のために教会建設の許可を得ることを目的に、アリウス派のテオフィルスに率いられた使節団をヒムヤル王の許に派遣した。
p.163
というのも、前述のアッワーム神殿の碑文に残されている王名から判断して、この神殿が使用されたのは、四世紀中葉に在位したサァラーン・ユハンイムと息子のマルキーカリブ・ユハァミンの共同統治時代までで、それより後にここでアルマカー神の祭儀が執り行われた形跡はない。一方、ザファール近郊で発見された西暦三八四年に当たる年紀のある碑文は右記のマルキーカリブと二人の息子の共同統治時代のものであるが、その末尾の祈願文に記されている「彼らの主たる天の主」が一神教徒の神である言は、後の時代のユダヤ教徒やキリスト教徒によって記された祈願文に照らして疑いない。…
 ただ後代のアラビア語史料は一致して、五世紀前半のヒムヤル王がユダヤ教徒であったと伝えている。また近年徐々に増加しつつある碑文史料や考古資料に拠って、南アラビアでは少なくとも五世紀中ごろまではユダヤ教が支配的で、キリスト教の影響が及ぶのはそれ以降と説く者が現れる一方で、この地方の一神教徒の多くは特定の宗教や教団に属さないハニーフと呼ばれる人々であったと主張する者もいて、他の諸問題同様、この問題に関しても専門家の意見は割れている。

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■中東、かつてない危険な状況…日本の原油輸入量の4分の1占めるUAEが情勢不安
(Business Journal - 01月28日 05:31)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=175&from=diary&id=6829237

 米WTI原油先物価格はこのところ1バレル=80ドル台半ばで推移している。約7年ぶりの高値だ。「ウクライナや中東地域の情勢が悪化すれば、原油の供給に支障が出る」との観測から投資家は強気の姿勢を維持している。


 国際社会は昨年末からウクライナ情勢について注視しているが、ウクライナ自体は産油国ではない。「ウクライナに脅威を与えている」と批判される大産油国ロシアについても、天然ガスの供給は問題になっているが、原油は議論の俎上に上っていない。「天然ガスの需要が原油にシフトする」との憶測が出ているにすぎない。


 これに対し、中東地域の地政学リスクへの世界の関心はそれほど高くないが、筆者は「これまでになく危険な状態になりつつある」と感じている。中東地域で「安全」と見なされていたアラブ首長国連邦(UAE)が深刻な攻撃を受けたからだ。


 UAEの首都アブダビで1月17日、イエメンの親イラン反政府武装組織フーシ派の無人機(ドローン)などの攻撃で、国営石油会社(ADNOC)のタンクローリー3台が爆発、3人の死者が出た。外部からの攻撃による死者の発生はUAE初だ。アブダビ国際空港でも小規模な火災が起きている。


 2019年9月のドローン攻撃でサウジアラビアの原油生産能力が半減したことで世界の原油市場は一時大きく動揺したが、今回のUAEへの攻撃はその悪夢を彷彿とさせる出来事だった。UAEは日本にとってサウジアラビアに次ぐ第2位の原油輸入先だ。全体の輸入量の約4分の1を占める。


UAEの誤算
 UAEがフーシ派の攻撃を受けたのは、サウジアラビアが主導するアラブ連合軍の一員として2015年からイエメンの内戦に介入しているからだ。UAEは5000人の地上軍をイエメンに派遣したが、2019年に撤退した。当時UAE沖で数隻のタンカーが攻撃を受けたのにもかかわらず、同国に駐留する米軍が有効に対処しなかったことから、UAEは「このままでは自国の安全保障環境が悪化する」と判断したからだとされている。だがUAEはイエメンから完全に手を引くことはなかった。イエメン内の反フーシ派勢力への支援を続けており、このことが今回の事態を招く原因となってしまった。


 フーシ派はサウジアラビアに対して越境攻撃を繰り返してきたが、フーシ派が今回UAEも攻撃の対象にしたのは、UAEが支援する反フーシ派勢力が、フーシ派が支配していた中部のシャブワ県を激戦の末に奪還、隣接する石油地帯の要衝マーリブ県にも進撃しているというイエメン国内の戦況の変化が影響している。


 フーシ派は「今回のドローン攻撃の教訓から学び、UAEはイエメン内戦から手を引け」と警告している。サウジアラビアへドローン攻撃を繰り返しても甚大な打撃を与えることができなかったことから、フーシ派はサウジアラビアと比べて防空能力が弱いとされるUAEに攻撃の矛先を変えた可能性もある。


 UAEにとってショックだったのは、不測の事態に備えて巨額の資金を投じて配置していた米仏製の対空ミサイルシステムが役に立たなかったことだろう。フーシ派の攻撃に焦ったUAEは、アラブ連合軍を主導するかたちでフーシ派の支配地域に大規模な空爆を続けている。21日のイエメン北部にある拘置所への攻撃では70人が死亡し、国連が非難声明を出す事態となっている。



 これに対しフーシ派は24日、UAEアブダビ近郊のアルダフラ空軍基地に弾道ミサイル2発を発射したが、UAEは米軍と協力してミサイルを迎撃・破壊した。フーシ派は「アブダビを狙う攻撃を続ける」と宣言している。


UAEに秋波を送るイスラエル
 バイデン政権は、史上最悪の人道危機をイエメンに引き起こした要因となっているアラブ連合軍の介入に批判的だ。今回のアラブ連合軍の報復攻撃でも多数の死者が出たことから、米国政界からアラブ連合軍への武器供与の停止を求める声が一層強まっている。


 頼りにならない米国を尻目に、UAEに秋波を送っているのはイスラエルだ。2020年9月にUAEとの国交を正常化したイスラエルは、フーシ派の攻撃直後に首相がムハンマド皇太子に対し「UAEが必要とする軍事的・情報的支援を与える用意がある」と表明した。国連のイエメン内戦に関する停戦交渉も頓挫しているなか、自国の安全保障に危機感を強めるUAEはイスラエルからの申し出に応じようとしている。イスラエルからドローン防衛システムを導入する動きを活発化させているのだ。


 イスラエル・メディアによれば、UAEはすでに複数のイスラエルのドローン防衛システム製造企業を選定し、導入に向けての具体的な検討を急ピッチで進めているという。イスラエルからドローン防衛システムを導入することになれば、要員の訓練などのためにイスラエル軍の関係者がUAEに入国・滞在することとなるが、UAEの対岸に位置するイランが黙ってみているとは思えない。イランは「不倶戴天の仇敵」であるイスラエルが湾岸地域で勢力を伸長することを断固阻止する姿勢を示しているからだ。


 UAEは王族が統治するイスラム教スンニ派君主国家であり、イランのシーア派による「革命の輸出」を恐れ、これまで反イラン路線を歩んできた。昨年末に高官をイランに派遣するなど融和ムードを演出していたものの、イスラエルへの急接近でイランとの関係が今後急速に悪化する可能性がある。


 フーシ派が放ったドローンのせいで、UAEをめぐる情勢が急変している。今後、中東地域で大動乱が起きないことを祈るばかりだ。


(文=藤和彦/経済産業研究所コンサルティングフェロー)


●藤和彦/経済産業研究所コンサルティングフェロー 


1984年 通商産業省入省
1991年 ドイツ留学(JETRO研修生)
1996年 警察庁へ出向(岩手県警警務部長)
1998年 石油公団へ出向(備蓄計画課長、総務課長)
2003年 内閣官房へ出向(内閣情報調査室内閣参事官、内閣情報分析官)
2011年 公益財団法人世界平和研究所へ出向(主任研究員)
2016年 経済産業研究所上席研究員


2021年 現職


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