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2021年12月05日00:00

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アドリブ




もう1週間前だったらもっと異次元的な存在だったかもしれない。原色だから固まると存在感が凄い。ともあれ先週は仕事していたししょうがない。時間の流れで地面に移動した黄色。これもこのタイミングしか見られないだろうし、見たまま美。

バトンタッチで色付く楓はなにやら渋い。移りゆく色の波というかバランス、自然の匠という感じ。

どうでも良いが、京都にすんなり行けたのって今日は宵顔さんが居ないと無意識が把握していたからではという気がした。こっそりでもないが。

移動で疲れるのは他人がそこらじゅうにいるからだなと改めて想った。他人ですら気疲れする。


時は遡り。

出発前。午前中はゆっくりしつつもぞもぞ。ついでに、kindleが「10分でスピード脳」の作者さんの速読についての本を追加しましたと宣伝するものだから、30分程で速読した。この人の本、固定観念を剥がしてくれるから良き。

結論としては、早く読めるようになる為にはいっぱい読んで読もうとする本とリンクするような知識を付けることという、身も蓋もないことだが、速読の技術本よりは信ぴょう性がある。世界を読む為には自分の中にそれを読む準備と土台が必要。

びっくりしたのが、今の世の中、月に4冊読んでいれば情報強者なのだとか。まぁそうなのか、職場の人でも本を読んでいそうな人はほとんど居ない。上司が視覚勉強用の本を持っているのは見た。まぁこの作者さんも言っていたが、ピンポイントで情報を得るのだったら端末を操作してWikipediaを見た方が早いのは確か。

○○とは、□□であるというのは一般的な知識で、言語で定義されているもの。
僕はこれを知ったところでという感じはある。もちろん実用的に気になることは検索する。本日検索したのは「鱈 鍋」。おかげさまで美味しい鱈鍋を食べている。

本を読む意味としての収集される知識は言葉でかっちり定義できるものではなく、もっと漠としたもの。作者はゲシュタルトと言っていたが、これが何なのかはあんまり分かっていない。ゲシュタルト崩壊から類推すると、頭の中にそれについてのイメージで構築された型ができあがること。

書物が全くない世界を想定すると、自分の実践で構築していくしかないもの。人間の脳は自分の人生以外のゲシュタルトもトレースできる。これが本の意味。作者も3回は読めと書いていた。3回目に著者として読むみたいな。

あと、速く読めるようになる技術についても書かれている。作者さんは別に速く読めることが良いとはしていない。ちゃんと隅々まで味わうのが前提。ここで、僕も最近ちょっと気になっていた目から鱗の技術。人は文字を追うとき、その文字しか追っていないが、当たり前に視界の中には次の行も、前の行もなんならページ全体も入っているということ。

意識しようとするだけでほんと随分違う。同時に2行読んでいくのではなく、視界全体の中で読んでいる行を読む。そうすると、次の行についても無意識が見ているから、読み進めるのが楽になる。

これって学校でやっていた音読の弊害なのだろうな。言葉を音と意味で1つ1つ特別なものとしなければならない。そうじゃなくて、言葉を漫画みたいに読む。漫画って絵と言葉でできているが、言葉を読みながら絵も視界に入れて情報として受け取っているからパラパラ読める。これを進めて言葉自体もイメージとして読む。小説であれば、文字から離れてイメージで光景を再現するとか(なんだか夢と似ている)。

言葉のゲシュタルトは当人が読んだり書いたりして構築したもので、広辞苑の定義と一致することはない。いや、一致させても良いのだが、僕は言葉を言葉として読まなくてはいけないという呪縛から解放されて、言葉も世界の有り様の1つとしての読み物だとすることにより、自分の中に残るようになった。

何やら小難しいが、要は人の中には言葉自体は存在しておらず、言葉を介した意味しか無いということ。意味だと分かりにくいか。イメージ、もっと適切なのは、「感じ」。

やはり、感じは大事。

確かに人は言葉に縛られている感はある。言霊が波打つのは、言葉自体ではなくその背後にある感じなのに。僕のお祈りが波打っているかは知らん。

そうして、御苑を堪能した後、河原町に一人カラオケ専門店があるとの前情報があり、そちらに向かう。おそらくお目当ての店と分かりつついったんスルー(逡巡)。このラグが遠慮だよな。行くと決めているのに、時間をかけること。

楽しかった。ヘッドホンを付けて持つタイプではないマイクの前で歌う。ともあれ、やはり僕はへたくそ。音程取るのはまともだと思うが、いかんせん息が続かない。でも、主観的には最終の1回だけ会った人と行った時よりはは上手くなっていた。変に裏返ることもないし、通して歌える曲もあった。(バンプのレムと、ラッドの前々前世)

声の感じも、あんまり他人の声みたいなことはなかったな。

自分の声の出し方が分かっていないのではないかという感じ。別に誰も僕の声なぞ聞いてないし(悲観ではなく、捉えられているのが別のものというだけ)、必要に迫られてなかったもんな。声を上げなくても僕を捉えてくれる人は居た。

歌うのは好きだから、好きに歌えるように定期的に検証したいところ。息の扱いと口蓋の何処に当てるのかとか。単純に大声を上げてみるとかでも良いのかもしれん。まぁこのために河原町に毎回行くのは無いから、近場で。

上手く歌いたくなりたいと、好きに歌いたくなりたいは全然違う。
単なる可動域の話。横隔膜を動かす筋肉を鍛えるとなんとかなるのか?

そういえば、1人焼肉はそんな食欲ではなく、うどんが食べたかったからあればふらっと入ろうと思っていたのだが、そんな店は無かった。特に外食に開くという感じはなさげ。食べ物も読み物だが、物理より精神の方が美味しさとして勝りそう。


たかだか1人でカラオケに行ってみただけこうなるということは、まだまだ世界に対して遠慮していることがありそう。

人の生命に目的があるのかという話がある。もちろん、種としては次世代に遺伝子を承継するということになる。これは大事。でも、これだけでは詰まらないから、人は別の承継方法を見つけた。文化なり芸術なりの遺伝子から離れたもの。僕も個人的に今のところ自分の遺伝子が複製されるより、文章の波紋がある方が残るというか意味があるのではという感じ。

社会的に何を還元できるのだろう。
何で物理的にまだ場所を取っているのかというのも気になるところ。別に卑屈的な意味ではない。誰から何と捉えられようと、僕はきちんと僕を生きていますので。と評する勇気がなかったのか、勇気をもって表明することで誰かが日陰になることを心配していたのか。

太陽であるより月でありたい。月は熱源なくただ世界を眺めている。
僕の文章にも特に熱はないと思われる。


スピード脳の本で、仕事というか資本主義にとらわれないために、脳にもう一個人格を作って脳内小説を書けば良いという話があった。確かに人って真面目な人格だけで生きている。他に人格があったとしても(例えばTwitter)、それはあくまで虚構。

いや、これって、ほんまか?

人生自体が、壮大な1つのロールプレイという仮設。

自分の生の人格が正とする。では、この正の根拠は?
自分がこういう人格で生に生きてからです。では、その生とは?
物理的な人格です。では、物理的な人格は何処から来ているのか?

と、考えていくと、自分が現実として生きていると思い込んでいるロールは自分で設定したものではなく、誰かからそういうものだとされた脇役としての設定でしかない。

「そういうものだとされた」ということは、少なくとも1人はその役を認めてくれる観客、脚本家は居るわけで、そこで生きる限り独りぼっちにはならない。

僕にはこれが正しく楽しい人生とは思えなくなった。

とりあえず、誰かに決められた自分像を1個1個ぶっ壊している。
文章については読む人が決める人の中に居なかったためにここまで自由になっている。

言葉と文章。

僕は世界を感じで捉えているから、言葉で表現することが自分を決めることにはならない。感じは言葉で完全に捕捉できるものでもないし、誰かの言葉もそういう風に読んでいる。

おしまい。

おやすみなさい。

良い夢を。





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