自分のみたことしか信じない、感じることしか信じない、そういうのならブードゥー教も立派な科学たりえる。
過去、地球が丸いというと、投獄された国と時代があった。
今はとうぜんそんなことはないが、それにしてもいまだに見て感じることが真実だと信じている人たちがいる。
科学者達や、技術者達が必死に研究研鑽しているのに、それに向き合わないとしたら、実にもったいないことだ。
しかし宗教と科学を同梱してしまっている人たちに、まっこうから否定してしまうのは、時に命がけだ。
経験がある。
自分の親族は国内で有名なとある宗教にはまっていて、
「お金に困っているのは信心が足りないから。」
と言っていた。
とある叔父などは
「・・・小学校の先生が○○会を悪くいうはずがない。」
とふだんから言っていた。
叔父は月に何回かは、信奉している宗教の座談会と称して信者を家に集めるような人だった。
小学生だった自分は彼の言を素直に信じて、とある朝、お題目を学校で唱えていた。
教師からは
「やめなさい」
と言われた。
教師とすれば、教室に宗教を入れるべきでないと思ったのだろう。
家に帰り、
「学校でお題目を唱えたら、ダメだと言われた。」
と素直にあったことを言うと
「なんでお前はそんなウソをいうんなら!」
と殴る蹴るの暴力をその叔父から受けた。
自分が泣きながら訴えても
「・・学校の先生が○○会の題目をそんなこというわけがないんじゃ!」
と叔父は目を怒らせて自分への殴打を止めなかった。
今だからわかるのだが、彼は一種の狂人であった。
いわでものことだが、宗教やまじないは科学に劣後する。
そもそも、学校という所はそういう所だ。
しかし宗教や卜占を信じている者達に、それをいうことは、時に命がけである。
小学生時代から読書が好きだった自分は、そんな家族に隠れながらあらゆる漫画や小説を読んだのだが、中学校にあがるころくらいには、自分の家族が信じる宗教などは、世界の宗教人口に比べると些末なものであり、むしろ極少数派なのだということがわかった。
せまい場所でその学会の発行する新聞だけを読み、日曜ともなると朝から鐘の音が、住んでいた県営住宅そこらかしこから聞こえる状況で、自分から世界を覗く勇気なしに、しょせん自分がどんな場所にいるのかはわからない。
ただ、学校の図書室では違う世界が見えた。
中世、どうして無敵のスペイン艦隊が、弱小のイギリス艦隊に敗れたのか。
全身から汗を書く思いで、図書室で夢中になった。
スペインは当時ガッチガチのカトリックで、士官に至るまで上意下達の世界であり、艦隊運動に必要不可欠な各個判断をしなかった。
しかしイギリスは違って、プロテスタントの教義が行き届いており、同じキリスト教であっても、同じ聖書であっても、自分で判断することが第一優先とされていた。
イギリスの小さい艦がそれぞれ、猟犬が巨大な熊を追うようにしてスペインの大型戦艦を各個撃破していった。
もちろん、その結果が、宗教的背景が原因だと思わないが、自分はこの思い出が忘れられず、その後20年して渡英し、プロテスタントの教会がシンプルに作られているのを見て、歴史は事実だったと思った。
プロテスタントも流派がいろいろあるのだが、カソリックのように十字架にイエスがついていなかったり。
話が飛んだが、スペイン無敵艦隊がやぶれたアルマダの海戦は、人間の硬直化した考えが、どれだけ危険なのか人類史で証明された最大の事件だと思っている。
知ることは尊い。
それで友人から孤立しても、家族から追われても、知ろうとする一歩はかけがえがない。
この話に結論はなく、読む人の感じ方に任せるほかはないのだが、自分のような無学な蒙昧でも、得る知識と同じくらい捨てる知識は必要だと知ること、そして脳のアップデートを絶えずしていくこと、それでとりあえず世間を人並みに生きることができる、そういう経験の話である。
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