mixiユーザー(id:65958356)

2021年06月08日22:53

89 view

壁越え



あざみのつぼみを見かけて、毒々しくてとげとげしくて好きなんだよなと思い、いや、何か最近似た感じのものと接しているなとなった。BGMの始まりに聞いているこの曲。

https://www.youtube.com/watch?v=xrRgZFt5_bw

URLでなくサムネが表示されて、クリック(タップ)すればそのまま再生されるのも知っている。しかし、非公開にして試みで冒頭文とセットにしてビジュアルを見ると、つぶやきとして完結されており、その先に文章が続く感じではなかったため断念。

新しいことをすることに対する拒否感は精神的ホメオスタシス(恒常性)によることは知っているが、やはり僕のインターネット世界は文字だけで構築したいところはある。ポリシーというか、これ以外の道具はないというか。

本日のマクロはおみくじを作った。最初組んでみたら失敗して、大吉しか出なかった。ある意味成功ではある。笑
よくよく見ると一文抜けていたからだが、写経だからこうなるだけで、考え方を習得すればこういう失敗は起こらないはず。考え方としては、ランダムに0から1を生成する関数(呼び方合っているか定かではない)があって、その中で、0.1までは大吉(10%)で、それ以外で0.3までは中吉(20%)みたいなこと。

これ読んでいて、昔、このご時世で検温の結果を毎朝入力しなくてはいけなくなったから36.5〜36.8の間でランダムに入力されるようにマクロを組んだというの思い出した。読んだときはすげー難しいことやっているなぁと思ったのだが、上のプログラムを4分の1ずつにすればできそうだ。知らないものは過大評価される。先生が組んだ、Excel帳票をフォルダに格納すれば適切な文書が出力されるというプログラムはまだまだ意味が分からない。自動的に選んで印刷指示をかけるってどうやるのだ。立ち読みしていると、自動的にメールを送るみたいなことはできるみたいだし、その現象を目の当たりにしているから、できなくはないのだろうが。

さておき。

好きな人とはさっぱり離れようと思う。もともと特には近くなかったのだが、このまま存在として間借りしていてもどこにも向かわないなという感じ。たぶん離れたら縁はもうなさそうだが、そういうのが人生における周回軌道である。

本日のテーマは、ホメオスタシス及び、自己観。

本日は昼休憩時、請負元の社員さんと一緒になった。

「かばんを持ってご飯を食べに行くのか。」と聞かれる。
これはその辺の飲食的に買い物に行くという世界観を前提としている。背景には財布だけで良いんちゃうんかというモノサシ。「弁当が入っているので。」「どこで食べるんだ。」「その辺の公園で。」「もう暑いだろう、休憩室で食べるのは気分が滅入るのか。」といくつか会話が続いて行くが、僕は公園で食べるのが好きだから多少暑くても良い。

で、最後に、自分で作っているのかと聞かれそうだと答えたとき、「偉い。大したものだ」って言われたのが凄く引っかかっている。僕の素朴は褒められると滅茶苦茶居心地が悪くなる。褒めるのは良いが、僕なら偉いとは言わず「凄い」という言葉を遣う。

何が居心地が悪いかって、誰かに褒められるようにやっていると言われているみたいだから。いやそんな目的でやってないしという反発。作ったご飯を美味しいと言われることとか、文章に対して嬉しいとか、読みやすいとかは全然良い。あくまで相手の中のことだし、それに対して嬉しくなれる。が、偉いは違うだろうと。

こういう細かい言葉に対する観念の考察は、考え過ぎと思われるかもしれないが、そんなことはない。言葉遣いは当人の世界を構築している。言葉によるセルフイメージの話。

という流れで、今日kindleで読んだ本。
「頭の中のゴミをなくすと人生が好転する」みたいなタイトルの本。

その中で、自己評価とは他人からの評価の蓄積でありそれは言葉であるという話があった。確かになぁと思う。「あんたは不器用だ」とか、「おとなしい」とか「優しい」とか、言葉を現実の自分として採り入れている。感情も状態ではなく言葉にしているし、自己に対するネガティブなイメージは自分で言葉として繰り返すことで強化されるということ。言葉はかなり現実的な力を持っている。

あと、面白いなと思ったのがメンタル耐性の話で、自己チューな人ほど心に傷を負いやすいという話。自分とは無関係だという認識の程度が理不尽を決めるとか。僕は自分が相手を害したということにいちいちダメージを受けるからややズレているが、たしかに、子供のときの理不尽に比べたら、今生きていることによる何かの悪いことはあんまり痛くはないな。感情も関係も自在だし。親兄弟は自分で決められないし、絶対毎日顔と生活を合わせないといけないし、理不尽な不機嫌を投げられてもそれを世界とするしかない。

いちいち痛くなってしまう人は、どこか自分に至っていないということも分からんでもない。大人になって怒りを外に開示してしまえるのってどうなんじゃろと思ってきている。

ここでも病気は大切にされたい、自分を大切にしなさいという自己表現だという話があった。別の人が同じようなことを書いていたら信ぴょう性は高まるな。風邪引いても看病してくれる人が居なかったら風邪引かないというのは曲論だが、なんとなくそういう節は分からなくもない。心配されていたいという願望があるのかも。ちなみに、僕の素朴は心配もされたくない人。心配は僕に対するものではなく、当人の中にあるもの。

ただし、啓発本を読むときのコツは、鵜呑みにはしないことである。

自分とは誰なのかを他人に説明するとき、どう言いますかという下りがあって、何処出身で、どんなことが好きで、みたいなプロフィール情報を増やすことになるが、それは他の存在との関係における自分であって、自分とは脳がフィルタリングをかけた他者との関係の点であるという話。

これに賛同できる人は言葉の呪縛にかかっていると思われる。自分のことが知られるということは、言葉で表現できるプロフィール情報がいっぱい知られることだし、人のこともそうだって。僕の反射はほんまかいなだった。そもそもそんなことで人のことを知ったと言えないだろうって。

いや、言葉で説明する必要ないだろうよ。自分が自分であることは、この物理世界で空間を陣取って生きているだけで固有の存在あるわけで、情報として説明するなら言語に引き直すしかなくても、人は言語ではない。僕が自己紹介書いていないのもそんなこと。どういう人物であるかは書きぶりからそれぞれ構築してくれるだろうし、僕もそういう風にして人を見ているから、プロフィール情報知ったところでその人に近くなったとは思えない。

ホメオスタシスの話はそうだなと思った。肉体的に恒温動物だから精神的にも引っ張られて現状維持を是とする。いやいや我慢してやっていたら成功があるというのは嘘だというのも分かる。義務教育でいやいやおべんきょしたことがほとんど残っていないのが証左だし、これが仕事になったら人生になったら変わるのは嘘っぽい。

で、恒常性をから外に行くためには目的意識と、ポジティブな言葉で自己対話するということがあった。これもほんまか案件。

この本では、感情はサルとかゴリラと同じくらいの低位な外界に対する反応に過ぎないと言いながら、本当にしたいことに従えと言っている。例えば、彼女は1人より100人の方が良いに決まっているし、1憶の預金より100億の方が良いとか。これって仏教でいうところの煩悩に従っているだけよなって。

目的を持つことで他に対するもやもやが払拭されるということは分かるが、目的を、誰かを蹴落として自分だけ幸せになるではなく、他人も幸せにするのが高次だというのも、なんかもやもやする。ヘーゲルさんが言う、人倫的な悟性とか仏教でいうダルマだっけ、みたいなことだとは思うのだが、なんでそういうことを目的にしないといけないのだろう。

人生のゴールを決めるために内省してみるみたいな話もあって、僕は人生の終着点ってアレしかないから、暫定でしかないのではと思った。なりたい自分とかしたいこととか、それ自体が一種のもやっとさんではとか。だって言葉で規定できるものなんでしょう。

僕はそういう意味で無目的な方が稼働するし、人の事も見ている。目的というのはある意味未来の限定でしかない。限定しなかったからこそ、ここに至ったと言える。集中して生きるのは当たり前だが、ルール付けするのであれば世界に決められるか自分で決めるかの違いしかない。この自分はどれくらいの段階なのだろう。

イメージと書いてきたが、厳密にはゲシュタルトなのかもなというのが見えたのもこの本。ゲシュタルトがなんなのかというとよく分からないのだが、プラトンが言うイデアと同じような概念で、人がざっくり捉える対象の全体像ということで良いのかしら。

脳は現実世界の情報処理の過程で巧妙に手抜きするとのこと。見ているようで見た気にして、実は全然見ていない。僕は自分が主観的に見たものしか見ていないし目に入らないものが客観的にあるとはしていない。知らないものまで知っているなんて手抜きはできないし。

ドクダミの花を見かけたが、ドクダミという名前の前に僕はこの花を見ているし、僕がこれを見た時に受ける印象は誰とも共有できないというのが、自分が自分で在ることであって、こんなの誰かに説明できることではない。

脳はかなりやべー奴なので、あまり信用してはいけない。
現実とは臨場感の程度で、程度の高低もなんとでもなるものらしい。


あと、時間の流れ方の観念が面白かった。

時間は過去から未来へ流れるものなのはキリスト教的世界観であって、本当は未来から過去に流れるものなのではないかという説。どこかの日記で自分が書いていたような話。

未来によって過去が変わるということは割と当たり前なのだが、あまり自覚されてはいない。何故なら、自分の今は自分の過去によって規定されていて不変だとされるから。

これも当たり前の話で、無限くらいの外界の情報で何が大事で何が大事でないかというのは、自分の過去情報の中で、何が大事だったかという感情記録しか参照できないから。知識とされている情報も、過去の自分の脳がそれを大事だとして蓄積してきたもの。

僕は別に人生上の目的なぞない。目的っておそらく、今ある目的とはこう在るべきというカタログでしかないが目論見はある。

文字数的にここではあふれてきつつあるから自分のホームぺージ開設しようかなって。文字だけのインターネット世界の予定だが、読んでくれるのであれば招待はします。遊びもいっぱい創ってみたい。どこか押したらナンプレとか詰将棋とかマインスイーパが出てくるとか。今はできるかしないが。

目的って、可能領域をなるべく増やして、退場していくことなのでは。

僕はあくまで存在しているし、現象されている。

では。

おやすみなさい。

自分に気付けますように。

良い夢を。









0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する