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2020年01月06日23:53

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茨木城2

慶長6年(1601年)、片桐且元、貞隆の兄弟が茨木城に封じられた。しかし且元の本領は龍田城であり、さらに豊臣秀頼の側近として大坂城にいたため、茨木城の城主は貞隆であったと言われている。慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件が発生し徳川家康は秀頼へ難癖をつけて証明を求めた。且元は秀頼名代として両者の仲裁を行っていたが合戦になった場合、勝ち目はないとして家康への譲歩を求めた結果、淀殿らから内通者であるとの疑惑をもたれて大坂城を追われる事となり最終的には徳川方に属さざるを得なくなった。

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると且元は4万石で竜田藩主、貞隆は1万石で小泉藩主となったが且元は豊臣氏滅亡の20日後、駿府城の家康の元へ向かう途上で病死した。
同年、元号を「元和」と改めた江戸幕府は一国一城令を発布し、摂津国の城を高槻城と定めたため且元の息子である孝利は竜田藩へ移り、茨木城は廃城となった。元和2年(1616年)に茨木代官・間宮三郎、立会人・城忠兵衛らによって茨木城は破却された。

城は完全に宅地化して遺構は残されていない。茨木神社に移築された搦手門と奈良県大和郡山市の慈光院に移築された櫓門が残るのみである。平成5年(1993年)に本丸であった場所に立つ茨木小学校の正門として原寸大で櫓門が復元されている。

写真はないが、中川清秀の妹・妙徳尼が寄進者となって建立された日連宗・妙徳寺にも脇門(こちらが搦手門との説も)が移築されて山門となっていたが文政12年(1841年)に大修理がなされている。しかし度重なる台風被害で崩壊寸前となった。平成4年(1992年)に全面大改修が行われたものの平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災で倒壊し平成10年(1998年)に新築されたが平成30年(2018年)に大阪北部地震で再度倒壊した。
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