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2019年11月09日04:45

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「ベルリンの壁」崩壊の30年後の旧東ドイツ:極左が生き延び、極右が躍進する現実

 30年前のこの日、よもやと思われたベルリンの壁が崩壊して30年になる。1989年の後半は、毎日のように東欧圏の国々が揺れ動き、ついに東ドイツ共産政府は東ベルリン市民の西ベルリンへの自由往来を許可した。

◎「壁」を壊すあの希望、あの熱狂は
 その直後に東ベルリン市民は、ピッケルやハンマーを手に、西の市民と共に長年、自分たちの抑圧の象徴だった壁を破壊した(写真)。その後ほどなくして共産体制は崩壊、壁崩壊の11カ月後に東西ドイツの統一、と至った。これを最終エポックとして、東ヨーロッパ人民を抑圧し続けた共産党独裁政権は崩れ去った(東欧唯一の強固なスターリニスト支配の続いたアルバニアの民主化は翌年まで待たねばならなかったが)。
 壁崩壊から30年の今年、統一されたドイツで顕著なのは、極右とされる「ドイツのための選択肢(AfD)」が、特に旧東ドイツで急伸長したことだ(写真=党旗を掲げて街頭デモするAfD支持者と警戒する警官隊)。

◎旧東ドイツの州議会選挙で「ドイツのための選択肢(AfD)」躍進
 9月1日、ドレスデンを州都とするザクセン州、ベルリンのあるブランデンブルク州の州議会選挙で、いずれも第2党に躍進した。ザクセン州での得票率は前回2014年の3倍近い27.5%を得て社会民主党(SPD)を蹴落とし、第1党のメルケル首相与党のキリスト教民主同盟(CDU)に肉薄した。またブランデンブルク州でも前回から11.3ポイント増の23.5%の得票率を得て、こちらは第1党のSPDに肉薄する一方、CDUを第3党に突き落とした。
 つまり今までドイツの政治をリードしてきた2大政党のCDUとSPDは、新興の極右派AfDに貪食されつつあるのだ。

◎極左第1党、極右第2党のテューリンゲン州の衝撃
 この地殻変動は、先月27日に投開票された同じく旧東ドイツのテューリンゲン州でいっそうドラスティックに現出した。旧東ドイツの共産党(社会主義統一党)の流れを汲む極左の左派党が第1党となり、ここでもAfDが前回から倍増の票を得て第2党に躍進した。CDUは、第3党に転落した。ただこの3党は、いずれも20%台の得票だったが、哀れを留めるのはSPDで、3党に大きく水を開けられる1桁8.5%の得票しかなかった。
 AfDの躍進は、旧西ドイツ諸州でも見られるが、3州の州議会選挙に見られるように旧東ドイツではとりわけ顕著である(図=旧東ドイツ)。

◎低い生活水準に置かれる旧東ドイツ市民の難民への嫌悪
 その理由は、いろいろと挙げられているが、旧西ドイツに比べて7割程度とされる所得水準、旧西ドイツに比べると見劣りするインフラなどが背景にあるのはもちろん、旧東ドイツは長く非民主的なスターリニスト体制に置かれていたために、穏健な考え方が育たず、耳に心地よいポピュリスト的訴えに有権者が共感しやすいことにあるのだろう。
 その証拠に、旧東ドイツ時代の抑圧政党=社会主義統一党の流れを汲む左派党がテューリンゲン州で第1党になったことだ。テューリンゲン州の有権者は、30年以上前のことを忘れ、左派党の振りまく福祉充実などの甘言になびいたのだ。
 同時に、旧東ドイツ市民を脅かす経済難民の影が、難民排斥を訴えるAfDを伸張させているのだ。

◎CDU、SPDの2大政党制の終焉
 はっきりしているのは、メルケル首相の経済難民積極受け入れという政策が、遅れた経済水準に置かれる旧東ドイツ市民の拒否感をよんでいることだ。
 ベルリンの壁崩壊30年の今年は、長らくドイツ政治を牛耳ってきたCDU、SPDの2大政党制の終焉を告げる年ともなっている。

注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
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昨年の今日の日記:「樺太紀行(22);チェーホフ山(鈴谷岳)から『山の空気展望台』に、ここもまた視界は不良」

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