サハリン州立郷土博物館で観た、前回紹介した松浦武四郎と間宮林蔵の地図(写真は9月6日付日記:「樺太紀行(44);松浦武四郎や間宮林蔵の作成した北蝦夷(樺太)地図の展示」を参照)については、現地ガイドやツアーコンダクターの説明は全くなかった。
◎見逃した重要展示の可能性
一行が駆け足でフロアを回る間、たまたま何気なく地図の写真を撮っておいた。何しろ前掲写真のように、説明プレートがロシア語だけだ。昔、ロシア語を独学したが、その後、学習を止めたので、今ではキリル文字を読むのさえ一苦労なのだ。
後で写真を見て、これが松浦武四郎と間宮林蔵の樺太地図だと知った次第だ。
これは、ツアーコンダクターがせめて注意喚起し、説明しておくほど日本人には重要な展示だろう。スケジュールを消化するだけの州立郷土博物館訪問、という印象を拭えない。
しかもこの後に訪れるガガーリン記念文化公園も雨のため、はやばやに切り上げている。臨機応変どころか、旅程表に載っている場所を義務として訪れただけ、という対応がはっきりしていたのは残念だ。
見逃した重要展示があったのではないか、と思うと、今でも残念でならない。
◎実物「天1号標石」
さて州立郷土博物館で1番観たかったかつてのロシア(後、ソ連)との国境線を画していた標石を観られたのは幸いだった(18年7月29日付日記:「樺太紀行(10);日本に国境線があった時、郷土博物館で展示されていた北緯50度の国境に置かれた標石」を参照)。
詳しい既述は、前掲日記に譲るが、北緯50度線の国境線上に設置された4個の標石のうち、唯一の実物である「天1号標石」を観られたのは感激だった(写真)。
◎帝政ロシア期のサハリンは流刑の島
ところで樺太島(サハリン島)と言えば、劇作家・小説家のアントン・チェーホフである。チェーホフの時代、サハリン島は1875(明治8)年に日露間で締結された千島・樺太交換条約の基で帝政ロシア領であり、ロシアはそこに盛んに流刑囚を送り込んでいた。
流刑囚の待遇は極めて悪く、その実態を調査するため、チェーホフは1890年7月にサハリン島に渡った。
チェーホフは3カ月間、サハリン島に滞在し、島の南北を移動してほとんどあらゆる村落を調査した。モスクワに帰った後、彼は断続的に発表していた紀行を1冊にまとめた『サハリン島』を1895年に刊行している(写真=チェーホフ記念公園の『サハリン島』記念碑に描かれたチェーホフ)。昔、僕も読んだが、優れたルポルタージュ作品だと感動したものだ。
◎流刑囚の暮らしの貴重な写真
彼は、サハリン島を「地獄のようだ」と評していたというが、ここに当時の流刑囚の生活の一端を切り取った写真が展示されていた。
何しろ大忙しの観覧で、しかもガラス越しの撮影である。光が入ったり斜めだったりで、我ながら呆れるほど下手な写真だが、ともかくもサハリン島に送られた流刑囚の暮らしの一端を複写してきた。
写真は、上から下へ、沿海州からサハリン島に船で送られる流刑囚、中央はサハリン島での暮らしの一断面で、いつも足枷と手枷で囚人は繋がれていた。右上に囚人が囚人の頭をバリカンで刈っている写真がある。下は、ラーゲリからおそらく農作業か土木作業に出る囚人で、右の写真のように足枷と手枷を付けられていた。
◎北海道でも過酷な囚人労働
僕は、後に吉村昭の書いた史伝小説『赤い人』で、同じ頃の北海道開拓に過酷な労役を強いられた樺戸集治監の国事犯たちのことを知った(19年2月7日付日記:「明治初期の未開の北海道を切り拓いた国事犯などの囚人たちの惨」を参照)。
宗谷海峡を挟んだ南北で、同じ頃に開拓のためにこうした囚人労働が行われていたことに奇妙な付合を覚えたのである。
注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、
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昨年の今日の日記:「木曽駒ヶ岳登頂記(11):木曽駒ヶ岳を下山、強い紫外線で両腕は真っ赤に、帰りは温泉でゆったり」
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