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2019年09月06日06:39

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樺太紀行(44);松浦武四郎や間宮林蔵の作成した北蝦夷(樺太)地図の展示

 郷土博物館の考古展示はなお続く。
 時代がだいぶ新しくなって、人骨が1体、展示されている(写真)。

◎近世樺太アイヌの骨格
 13世紀から17世紀のアイヌ文化期のものという。この遺体は、樺太アイヌであった。上の首飾りや腕輪は、この死者に副葬されていたものなのか。時間があればじっくりと観察できたのだが、何しろ団体旅行だ。みんな駆け足で次々と展示物を見ていく。とうてい「じっくり観察」の余裕はない。
 団体観光旅行は、どこの訪問地も総花式で、1個所でじっくり観察できることはない。さりとてここでもっと見たいとわがままを言うわけにはいかない。次の予定が待っているし、他の参加者は関心がないかもしれないからだ。
 そこは仕方が無い、と割り切るしかない。ただ団体観光旅行でなければ、ブッセ湖や白鳥湖(オゼロ・レビャジエ)のワイルドフラワーは行けなかっただろう。何しろ足がないのだから。

◎松浦武四郎の精密な北蝦夷(樺太)地図
 さて考古展示室を出て、最前のネヴェリスコイ像の脇の別の展示室に入ると、実に正確な樺太島の地図が展示されていた。しかも漢字で書かれている!(写真)
 見ると、説明プレートに「松浦武四郎」とある。幕末の1846年(弘化2年)と1856年(安政2年)、松浦武四郎は、当時「北蝦夷」と呼ばれた樺太島にも足を延ばし、精細な地図を作成した。
 1867年(慶應3年)発行された地図の、その写しのようだ。

◎樺太が島であることを発見した間宮林蔵の地図も
 それにしても、今の目から見ても何と正確なのだろうか(ただし間宮海峡は実際よりかなり幅広に表現されている)。日本地図と言えば、伊能忠敬がすぐに思いつくが、北蝦夷(樺太島)の正確な地図も松浦武四郎は作っていたのだ。
 その隣には、樺太が初めて島であることを確認した間宮林蔵の地図もあった(写真)。1808年から1809年にかけて踏査され、1810年に制作された地図の写しであろう。松浦武四郎の地図と比べればやや稚拙だが、自らの発見した間宮海峡がはっきりと表現されている。

注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
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昨年の今日の日記:「アウン・サン・スー・チーの自由と法治の弾圧者への転落、ミャンマーはスターリニスト中国の衛星国に」

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