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2019年08月20日22:56

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鯖江陣屋

享保5年(1720年)、越後村上藩主であった間部詮言(あきとき)が越前鯖江に転封となって鯖江藩が成立する。

元々間部氏は甲府藩主・徳川綱重(3代将軍・家光の三男)の重臣であった西田清貞から始まる。嫡男の詮房は猿楽師の喜多七太夫に弟子入りしていたが、綱重嫡男・綱豊の小姓に抜擢されて性も「間鍋」から「間部」に改称した。寵愛によって出世を重ね、甲府藩側用人となる。

延宝8年(1680年)、4代将軍・徳川家綱が危篤となった際に男子がいなかったため綱豊は綱重の弟で上野館林藩主であった綱吉と共に将軍候補になるが老中・堀田正俊が家光に血が近い綱吉を推挙したため綱吉が5代将軍に就任する。しかし綱吉にも男子がおらず、綱豊が「家宣」と改名して綱吉の養子になり将軍世継となった。宝永元年(1704年)、家宣は江戸城西ノ丸に入城し甲府徳川家は絶家となって家臣団は幕臣に取り込まれた。

この時、間部詮房は西丸奥番頭に就任している。宝永3年(1706年)には相模厚木で1万石を与えられて大名となり、同年内に老中次席にまで昇格。宝永6年(1709年)に家宣が6代将軍に就任すると旗本であり、朱子学者でもあった新井白石と共に「正徳の治」と呼ばれる政治を断行して家宣を支えた。宝永7年(1710年)には上野高崎5万石の藩主となっている。猿楽師から大名になった例は江戸時代を通じて詮房のみであり、国政最高責任者とした場合でも芸能出身者がこの地位に就任したのは日本史上唯一である。

しかしこの体制は政治的権威が家宣に集中する不安定な物でもあり、家宣の死後、幼少の家継が7代将軍に就任すると反対派が勢いづいて改革は停滞。さらに享保元年(1716年)に家継が死去して紀州和歌山藩主であった徳川吉宗が譜代大名や大奥の推挙で8代将軍に就任すると新井と間部は失脚し、間部詮房は御側御用人を解任された上に関東の枢要であった高崎から越後村上に5万石で転封となる。享保5年(1720年)に暑気(しょき)あたり(暑熱障害)で死去。享年55。実子がなかったため弟の詮言が養子となっており、家督を継いだ。

しかし程なくして越前鯖江に5万石で移封されている。これは権勢を振るっていた間部家を城主大名から無城大名へ降格させる処置であり、収入も減らした左遷であった。当時の鯖江の地は石高800石、家数27、人口200の寒村を統治する代官所があるのみであり、詮言は一から町の整備を行わければならなかったが周囲は他の藩領に囲まれていたため用意ではなく、何1つ決まってない左遷先で藩士たちは近隣の農家に分宿する他なかった。

しかしやがて領地交換が幕府に認められ代官所を鯖江陣屋として居住地に指定し、北陸街道を取り込んだ城下の整備が開始された。しかし過酷な生活の中、詮言は35歳の若さで江戸藩邸において死去している。男児が早世していたため、家督は甥(兄・詮貞の子)である詮言を養嗣子として継がせた。鯖江の整備事業は享保13年(1728年)頃に終了している。

7代(間部家としては8代)・詮勝は安政5年(1858年)、老中に就任し城主格となって築城が許されたが実現しなかった。詮勝は大老・井伊直弼の元で勝手御入用掛(財政担当)と外国御用取扱(外交担当)を兼務し、やがて勝手掛老中に昇格。上洛して朝廷より日米修好通商条約の勅許を得ると京都所司代・酒井忠義と共に安政の大獄を断行。一橋派や尊王攘夷派を徹底的に弾圧した。尊王攘夷派の長州藩士であった吉田松陰は詮勝暗殺を企てたほどである。その苛烈さは「井伊の赤鬼」「間部の青鬼」と呼ばれるほであった。しかし翌年に江戸に戻ると幕政主導権を巡って直弼と対立し免職。さらに弾圧されていた徳川慶宣らが復権すると老中在任中に失政ありとして隠居謹慎かつ1万石の減封となった。家督は次男の詮実(あきざね)が継いだが連座により自宅謹慎となっている。文久3年(1863年)に謹慎は解かれたが同年に37歳の若さで死去。詮勝の謹慎は慶応元年(1865年)に解かれている。間部家の家督は詮勝8男の詮道が継いで明治を迎えている。

明治元年(1868年)、詮勝は会津藩との内通を疑われて国許での謹慎が命ぜられたが翌年に解かれた。明治17年(1884年)死去。享年80。

陣屋としての遺構は万慶寺の裏門に御用屋敷門と松阜(まつがおか)神社境内に受福堂御門が移築現存している。
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