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2019年08月07日05:46

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樺太紀行(38);雨の北上で大正時代に皇太子だった昭和天皇の渡った小橋を車窓から見る

 南樺太(サハリン)の旅の第3日。
 早朝に起床し、ホテルの部屋の窓から外を見ると、前日には見えた遠くの丘が全く見えず、雨が降っている。
 この日は、白鳥湖ワイルドフラワーの探訪が予定されていたが、前夜の予報どおり雨である。これは、本当は樺太鉄道で行くはずであった(18年7月26日付日記:「樺太紀行(7);宮澤賢治の足跡を訪ねて、残念、樺太鉄道は乗れなかった!」を参照)。

◎ぬかるみの道を予想して登山靴
 同じホテルに同宿となったS旅行社のツアー一行は、前日の夕方に添乗員から明日の(すなわち今日の)予定のチェーホフ山(鈴谷岳)登山は、土砂降り予報、と告げていた。添乗員から告知されると、その一行から一斉に「エーッ!」という驚きとも悲鳴ともつかぬ声が巻き起こった。別の日に変更できるかどうか交渉してみる、と言っていた。
 その一行は、どうしたのか。
 僕らも、チェーホフ山登山でないだけマシだが、今日も野外の散策である。
 雨であれば、道はぬかるむ。僕は、持参した登山靴を履いていくことにした。雨がやんだら普通のスニーカーにすればいい。

◎皇太子時代の昭和天皇が渡った小橋
 ホテルを立つと、ユジノサハリンスクを出て雨中をバスで栄浜に向かい北上する。途中、植物ガイドのレナトさんの勤める研究所の前を通った。ソ連時代はたくさんの研究員・職員がいたが、今は数分の1に規模縮小されたという(写真)。
 休日なので、門も閉まっている。雑草が茂って、管理に手が回っていないことが分かる。
 ホテルを出て1時間ばかりたった頃だろうか、右側に見える細い側道の小さな橋を、添乗員が「皇太子時代に昭和天皇が樺太を訪問の折りに渡られた橋」だと説明した(写真)。
 帰国して調べてみると、確かに大正14年(1925年)、裕仁皇太子が樺太を訪問していた。日露戦争の結果、南樺太が日本に割譲されたのは明治38年(1905年)のことで、まだ20年しかたっていない。
 この頃、豊原をちょっと出ただけでも写真のような道しかなかった。皇太子も、こんな道を馬車で揺られたのだろう。

◎旧王子製紙工場の廃墟
 今、僕たちのバスが走るような往復2車線の舗装道路がまだあったわけではない。トドマツやミズナラの原生林が全面を覆っていたろう時代、まさに僕たちが右側に見た側道のような細道を馬車で通り、あるいは降りて橋を渡ったのか。
 老人たちは、え、どこどこ、と興奮している。
 そうかと思えば、旧王子製紙の廃工場が雨の向こうに霞んで見える(写真)。
 日本統治時代、南樺太は林業と漁業、石炭業が3大産業で、豊かであった。林業は、無尽蔵の原生林が広がり、王子製紙はここ南樺太で後の大製紙企業としての発展の基礎を築いたのである。
 王子製紙の9工場は、ソ連時代も重要産業の林業・製糸業として活躍したが、1980年代後半からのペレストロイカとその後のソ連崩壊後の経済混乱ですべて破綻した。
 今、その「屍」が雨の中に黒々と浮かぶ。

注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
 写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201908070000/をクリックし、楽天ブログに飛んでいただければ、写真を見ることができます。

昨年の今日の日記:「樺太紀行(12);理解できない国ロシアの一端を極東の島で観る」
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