今で言う疫学調査の結果、海軍の白米食が大量の脚気患者の罹患の原因と気がついた高木は、海軍首脳に兵食の改革を訴えることになる(後に判明するが、白米に精米する過程で抜き取られた米ぬかにビタミンB1が含まれていたから、白米は栄養学的には炭水化物を摂れるだけの偏った食物だった)。
むろんこの時点で、ビタミンB1の存在は、世界中で誰も知らなかった。
◎次年度の海軍予算を先取りして実験航海
その前に、さらに仮説を確証するために、明治17年に練習航海に出る「筑波」(写真)の航海予定を変え、その間、コメ4、ムギ6の麦飯給食で9カ月余の太平洋の周航を計画する。最初は、洋食にするはずだったが、費用が倍もかかり、船内でパンを焼くスペースも確保できなかったので、麦飯で妥協した。
実は、それすらも実現は困難だった。9カ月余の航海の予算がなく、渋る海軍卿の川村純義(薩摩閥)を説得し、さらに大蔵卿の松方正義(薩摩閥)、そしてまた参議の伊藤博文まで口説き落とした。そうやって次年度の海軍予算の前借りでやっと「筑波」の遠洋航海を実現させた。しかもその航路は、明治16(1883)年にニュージーランド、ペルー、ハワイへと練習航海して帰国した軍艦「龍驤(りゅうじょう)」と同じルートをたどらせた(写真=「龍驤」と明治4年頃の艦上の訓練生)。
◎乗組員23人もが脚気で死亡の惨劇
というのは、「龍驤」では、海軍生徒29人を含む総乗員378人のうち、実に半数もが脚気にかかり、主としてホノルルからの帰国航海中にうち23人も死んだのだ。
高木の実験は、「龍驤」と同じコース、日程で、兵食だけ変えたものだった。主食を麦飯、金給制を止め、副食を動物蛋白質を多くした兵食で、海軍の宿痾がどれほど改善するかであった。
今日のような衛星電話もない。航海中、「筑波」に何が起こっているか、何も起こらないか、高木は知ることもできず、夜は悪夢にうなされ、あるいは眠ることもできず、憔悴した。海軍卿の川村のメンツを潰す形で政府内でごり押しに近い説得工作を進め、航路、日程、兵食もすべて変えて強行させたので、実験の効果が得られなければ、腹を切らなければいけない立場だったのだ。
◎9カ月余の「筑波」航海では「病者1人も無し」
9カ月半後、やっと帰国した「筑波」からの報は、「病者1人も無し」だった。正確には軽い脚気にかかった者が16人いたが、彼らは麦飯や獣肉の兵食を嫌がって食べなかった者たちで、幸いにも死にいたる者はいなかった。
これにより、脚気が栄養の偏りであることが海軍では常識となり、以後、脚気患者は海軍からはほぼ一掃される。
ところが兵力が海軍の10倍の陸軍では、そうではなかった。
(この項続く)
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昨年の今日の日記:「福島、桜10景の旅(2);樹齢1000年超の滝桜は葉桜に、そして田園の古庵の雪村庵に」
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