世の中の情勢がおかしいとき、誰かがどんどん社会の片隅においやられているとき、声をあげる人が必要だ。
「・・これはおかしいのではないか」
人として最後の良心は、例えば目の前で他人が暴漢に襲われている、たとえほうきの柄であってもそれに立ち向かおうとする気概そのものにあるだろう。
自分は幼い頃、生活保護の祖母に養われていたときに、すぐ近くに住んでいた精神に異常のある叔父からいつもフライパンで思い切り頭を殴られたり、ナイフを持ち出されてたりして虐待を受けていた。
市営住宅だから、自分の泣き叫ぶ声は近隣に聞こえていたはずなのに、誰も助けてくれない。
毎晩のようにして執拗に続く虐待は半ば自分の精神を侵しかけていたが、頭から血を流して小学校へ行っているのに、担任でさえ
「・・かわいそうなんじゃね」
としか言葉をかけてもらえなかった。
あれから40年、自分は奇跡的に生を得て今に至っている。
一時期はどうしようもないところまで落ちてしまったが、ギリギリおところで、助けてくれた人たちがいる。
今日の奇跡は、自分だけの努力だけではなくて、
「・・あの必死に生きている銀次郎を助けてやれ」
と、暖かい援助の手を差し伸べてくれた人たちのおかげである。
幸か不幸か、そんな生い立ちのせいなのだろうか、スラムにいっても、虐待を受けているような子供は一発でわかり、それを悟ったときにはその子の家まで行き、親の相談に乗ろうと努力している。
こういうケースは虐待を受けている子供もそうだが、親に手厚いケアが必要なのである。
そういう今だからこそ心底思う。
誰かが困っているとき、誰かが助けを必要としているとき、いらぬお節介であろうと躊躇せずにそれを確かめる勇気も必要だ。
人の一番憎むべきは人生にふりかかる不幸そのものではない。
人の不幸を見て見ぬふりをする無為そのものにある。
そういう人たちはわかっていないと断言できる。
人の不幸や社会の不安は、見て見ぬふりをしているといつか自分にふりかかってくることを。
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