mixiユーザー(id:42002624)

2017年07月20日20:26

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指さしに注意!

何時の時代も同様かもしれませんが、
「何それ?」と驚くような前代未聞の事件や
常識で測れない発言や行動などが、最近
特に次々と起こっているように感じます。

私の場合、この人は、この事件は、などと
つい分析的になる傾向があるのですけれど、
それはこの世界での仕事上、必要な事だし、
研究熱心な態度であると思っておりました。

ところが先日、慎み深いはずの修養生活の中で、
些細な事から右手人差し指の腹をヤケドしてしまい、
4〜5時間ほど氷で冷やして、やっと痛みが治まりました。
単なる不注意と言い切れない、メッセージ的な印象でした。

そこで又、分析的に考えてみまして、やはり私の場合は、
これまで以上に心坐を優先しなければ、と思い至りました。
世間の情報は必要としましても、種々の事柄に一々反応して、
状況判断や原因推測、問題点の指摘など、必要でしょうか?

霊的な修養という観点から見ますと、時間がもったいない。
そして何よりもエネルギー的には決して善くない事です。
この際、そのような習慣はきっぱりと止めなくては、
と真摯に反省致しました。けれど、現実の生活では、

どの程度に世事とお付き合いするか、という問題で、
中々「適当」の判断が難しいものです。と申しますのも、
「内外不偏」と謂われる修養の方針が大事であるからです。
自己の修養(道)と周囲に対する善行(慈)の両立ですね。

そこで、その為に考えられる方法は幾つかあると思いますが、
先ず、気が外へ放散しているのを感じたら、即リセットですね。
そして、なるべく真息状態の時間を多くしてゆくことでしょう。
また、「恬淡」という言葉を思い起こすことも有益でしょう。

何事に対しても「あっさり」する習慣は有意義です。それは、
そっけない、薄情とは別です。例えば「上善水の如し」のように、
さり気なく周囲に善行を為しつつ、執着せず、自己主張もせず、
損も得も徳も感情もさらりと流してゆく姿・・・美しいですね。

感情的な自己主張も、必要な時があるかもしれません。また
熱意が伝わるなど良い結果になる場合もあるかもしれません。
けれど、たとえ正義感からであっても、押しつけがましいと
物理的に抵抗が生じます。また、炁の充凝には逆行します。

人にはそれぞれの立場があり、色々な場面がありますから、
その時々、その場その場の状況や経緯を良く感知されて、
「ご自身のエネルギーを大切になさって頂きたい!」と
申し上げたく感じて、久しぶりの日記になりました。

今のこの世界には、100%完全な人は居られません。
他者の是非や良否について発言しようとするような際に、
ほんの一呼吸でも止まって自己を静観する――そんな人を
「素敵な人」と、指さして言ってみたい気が致します。

参考にして頂けることがありましたら幸いです。
尚、私の指のヤケドは、翌日には跡形も無くなり、
大道の慈悲と炁の力によって完治致しました。
ほのかに苦い指さし注意の教訓を遺して。

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