グールドが弾くブラームスの「間奏曲」は,実に素晴らしい。
ほろ苦さの中に,かすかな甘さ漂う名演奏だ。
そして,それこそが,ブラームスの音楽の魅力である。
ブラームスの音楽は,センチメンタルで,甘い。
しかし,彼とクララ・シューマンとの関係を見ても分かるように,決して甘さやセンチメンタリズムにおぼれることはない。
渋さ,そして苦さが,ビシッと甘さを引き締めている。
それは,「大人のマロン」。
甘いだけのモンブランではなく,栗の渋皮の持つ苦みも,渋さも,ほのかな甘みとともに。
夕闇漂うヨーロッパの石畳の舗道に,ガス灯のほのかな灯り火がぼうっとともっているような,ほの暗い中に,そこはかとなく立ち上ってくる濃密な気配。
決して思いを届けてはいけない女性に向けられた,まなざしの代わりのような旋律線が,物言わぬ思いをつなぐ架け橋のように,豊かな曲線を描く。
その甘い旋律線を,石畳のように重厚で堅牢な構成が統制し,ビシッと音楽を引き締めている。
あらゆる感情を豊かな旋律で表現し,そして構成力でコントロールし得たかのような,完全主義者の音楽。
そんなブラームスの音楽と,やはり完全主義者であり,独自の美学・哲学の持ち主カラヤン率いるベルリン・フィルの精緻で緊張感があり,統制のとれた,それでいて決して冷たくはなく,ほの暗い若干の明るさを持つ音楽性は,とても相性がよい。
カラヤンが,ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」のレコーディングを行うにあたり,カラヤンの理想の音世界を具現化するために起用されたのが,当時,チャイコフスキー・コンクールとパガニーニ・コンクールという,世界最高峰のヴァイオリンコンクールの二冠を制しながら,旧ソ連の体制下で活動を制限されていた若き日のヴァイオリニスト,ギドン・クレーメルだった。
70才を超えた今でも,常にまるで10代の若者のような鋭い感性を失わない彼であるが,若き日のこのディスクのジャケット写真でも,長髪にサングラスと,トンガリぶりを遺憾なく発揮している。
彼の切れ味鋭い,刃物のイメージがつきまとうヴァイオリンの中にも,かすかな切なさ,甘さがある。
「切ない」という言葉も,「心が切られる」という,まさに刃物のイメージ。
繊細にして骨太,技巧的にしてうたごころにあふれ,そしてその背後に隠された甘いロマンティシズム。
そう,クレーメルの特徴もまた,ブラームスの特質と響きあう。
ほの暗い情景の中に漂う,渋さとほろ苦さ。抑制のきいた甘さ,そして完全主義者ならではの透徹した響き。
作曲家,指揮者,オーケストラ,そしてヴァイオリニストが,同じ性向を示しているのだから,名演にならないはずがない。
しかし,この完璧とも思える組み合わせ。作曲家,指揮者,オケ,ヴァイオリニストの音楽の神が引き合わせた幸せな出会いは,この奇跡的な1作をもって,終楽章を迎えることになる。
クレーメルの自伝「東と西の間で〜クレーメル青春譜」によると,いかなる背景があったのかは分からないが,この名演奏録音は,クレーメルには知らされないまま,リハーサルが本番としてレコーディングされたものであったとのこと。
新進気鋭の,希望に満ちたソロイストの意向より,レコードレーベルや,大御所指揮者の意向が優先された西側の商業主義的な方法に不信感をもったクレーメルが,再びカラヤンと組むことはなかった。
また,カラヤンの理想の音を実現するために,手先となって取り込まれ,利用されることを,良しとしなかったクレーメルの矜持もあったのだろう。
その後クレーメルは,ブラームスのヴァイオリン協奏曲を,2度ほど指揮者とオーケストラを変えて録音しているが,いずれも,カラヤン・ベルリンフィルとの完成度に至っていない。
バーンスタイン指揮ウィーンフィルと組んだレコーディングでは,バーンスタインらしいエネルギーと推進力に満ちた大らかさが,ちょっと線の細い,若干神経質なクレーメルの特徴的な演奏を包み込む,バランスの良さは感じられる。
また,評論家諸氏などによる評価も,こちらのバーンスタインと組んだ録音の方が高い傾向にある。
だが私は,石畳のように整然と構成された緊張感の中にも,かすかな甘さが漂う,そんなブラームスのカラヤン/ベルリン・フィルとの魅力を,バーンスタインとの共演盤に見いだすことはできなかった。
バーンスタイン盤は,芸達者な名人芸同士が繰り広げる,個性がぶつかってシナジー効果を生むセッションのようであり,そしてカラヤン盤は,ブラームス+カラヤン(交響曲での名演奏あり),ブラームス+クレーメル(ヴァイオリンソナタでの名演奏あり),そしてそのカラヤン+クレーメルの三者が一体となり,ブラームス+カラヤン+クレーメル,というよりも「ブラームス+カラヤン」+「ブラームス+クレーメル」+「カラヤン+クレーメル」の3つの位相が合体して,第4の位相とも言うべき最強無敵の合体ロボットが現れたかのような。
いや,ロボットという無機的な人工物ではなく,何か大きな生命体が,意志を持って息づいているかのような(同じことを,なぜか武満徹の後期オーケストラ作品にも感じる)。
クレーメルは,その後,自らの理想の音楽を具現化すべく,自ら専属のオーケストラを組織し,現在では彼がオーケストラをバックに演奏するときは,客演の場合を除き,基本的に全てそのオケが担当している。
そんな完全主義者ゆえの美学こそが,ブラームス,そしてカラヤンの同様の性向と共鳴し合ったとき,それこそがこの名盤を生んだ最大の背景ではなかったか。
決して,音楽的齟齬が原因で決裂したのではないであろうだけに,このブラームス+カラヤン/ベルリン・フィル+クレーメルによる三位一体の録音が,1作をもって途絶えてしまったのは,実に残念なことだ。
しかし,そんな三位一体の予定調和的な着地点に安住しなかったことこそが,独自の美意識を持つ,いかにもクレーメルらしい態度とも思える。
音楽の神が引き合わせた一度限りの名録音は,一度限りだからこそ,かけがえのない唯一無二の輝きを,永久に放つのだろう。
でも私は,この一度限りの素晴らしい演奏を,何度でも繰り返して,聴くことができる。
こういう,奇跡のような出会い,めぐり逢い,そしてドラマが生まれるのは,他者(作曲家&演奏家そして演奏家同士)との交流から成り立つ芸術である,音楽ならではの楽しみなのでは,と思う。
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