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2017年03月15日18:39

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新海誠と3.11

先日、TBSで「3.11 7年目の真実」という震災特番で、新海誠監督が『君の名は。』の出発点は、被災地である宮城県閖上を訪れたことにあったと語った。



新海氏は、被災地の何もなくなった風景を見て、哀しいほどの青い空とすべて流された大地を1枚のスケッチに描いた。そして、思ったという。「もしも、自分が閖上にいたあなただったら…」と。だから「もしも自分があなただったら」という入れ替わりの映画を作ろうと思ったという。死者を想像すること、死者に思いを馳せること、死者に寄り添うこと。それがこの映画の起点である。そのことは、とてもよくわかる。「自分でありえたかもしれない被災地のあなた」とは、時空を超えてつながっている。死者とともにあることは、表現の一つの力になる。死者の想いをフィクションを通じて表現すること、それは表現者としての重要な責務かも知れない。

この想いは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』とも重なる。「こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか…」とジョバンニに語らせた親友カンパネルラとの幻想の旅は、死者との邂逅の物語である。『君の名は。』の東京の少年は、時空を超えてす消滅する村で死んだ少女と交感し、入れ替わる。

ただ、「誰かにとって慰めになるようなこと」を意識して作った『君の名は。』と『銀河鉄道の夜』の間には大きな違いがある。それは、幻想でも乗り越えられない現実・自然・時間の壁だ。ジョバンニは親友カンパネルラとの幻想の旅での別れを通じて、彼の死を悟る。一方、『君の名は。』で、時空を超えて、歴史を変えた二人は最後に現実で出会う。もう会うことのできない哀しさをどう受け入れ、その死とどう寄り添い、生きていくかは残された者たちにとっての大きな課題であり、永遠に終わらない旅でもある。

新海誠氏が感じた「自分であったかも知れない死者への想い」を、どのように表現するか。起点となったものには共感できるが、着地の仕方にはどうにも納得できない。

ドラマ『カルテット』でも、巻き戻せない時間の不可逆性が大きなテーマになっている。やり直すことなんてできない。過去をなかったことなんてできない。誰もがどうしようもならない何かを抱えて、どうにもならない哀しみを受け入れて、生きていくしかない。嘘をつきながらも、それでも「前に進むこと」。会えなくても、思い続けること。死者とともに寄り添いつつ、死という現実を受け入れて、前に進むしかないのだと思う。
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