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2015年09月07日00:13

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追い剥がれ

 Eテレと呼ばれるようになった頃から随分つまらない番組が増えたように感じますが、20年ほど前の教育テレビには、結構いい番組がありました。
 その一つが現在法政大学総長の田中優子さんが山東京伝について語った番組でした。
 山東京伝といえば、黄表紙で有名な江戸時代の戯作者ですが、黄表紙というのは手っ取り早く言えば、風刺の効いたSFチックな、でも妙にリアルな漫画みたいなものです(大人の絵本といったところでしょうか)。と言っても、まったくの漫画でもないので、コマ割りもありませんし、昔のことですから当時の風俗や時代背景等も分かっていないと現代人には十分に楽しめるものではありません。
 でも、そのあたりのことを十二分に研究されている田中さんが、豊富な資料(画像)を示しつつ、まるで見てきたことみたいに説明を加えていくと、その面白みが伝わってきて、存分に楽しめたものでした。
 中でも面白かったのが、「孔子縞干時藍染(こうしじまときにあいぞめ)」という作品でした。
 京伝の生きた時代というのは、松平定信の寛政の改革という幕政改革が行われた時代でした。寛政の改革では、緊縮財政による質素倹約が唱えられ(←ある意味拝金主義にまみれた今の政治家どもには見習ってほしいところもありますが)、孔子(儒教)倫理の強調、風紀取締りによる幕府財政の安定化が志向されたため、何かに付け風通しが悪く息苦しい世の中になりました。京伝は、こうした時代が行き着く先を「孔子縞干時藍染」の中で極端に描き、痛烈に風刺したわけです。
 その作品の中では、武士はもちろん、大工のおじさんや酒屋の御用聞きに至るまで、誰もが孔子の「論語」を読む殊勝な人間になっており、物もらい(ホームレス)でさえ、「不倭(ふねい=私)は浅草無宿でござる。足下はゆふべ、はきだめの中におやすみなされたか」などと、武士言葉を話して「論語」の勉強会に勤しむ恐ろしい世の中が設定されています。
 そこでは、あらゆる会話に四書五経(儒教の教科書)の一節が登場し、金儲けは悪とされています。「論語」に「不義にして富みまた貴きは、我に於いて浮かめる雲の如し」とあるからです。
 人々は争って金銀財宝を手放そうとしますが、これがなかなか上手くいきません。というのも、やはり「論語」の中に「老年になってから慎むべきものは、金銀財宝を貪ることだ」とあり、殊勝な人々は忠実にそれを守って、金銀財宝を容易なことでは受け取ろうとしなかったからです。
 それどころか、遊郭等で散財しようとしても、逆に遊女等から金銀を押し付けられる始末です。そうやって遊び回った結果、ますます金持ちになってしまった放蕩息子の一人などは、殊勝なことに(この世界では皆殊勝なのですが)責任を感じて自分を勘当してくれと父親に申し出ますが、これも上手くいきません。父親は「人の父としては慈にとどまる」という「大学」(四書五経の一つ)の一節を引用して勘当を許さなかったからです。
 大安売りならぬ大高売りをするという広告を出した商店には人々が殺到し、ゑびす屋という店名が縁起が悪いといってわざわざ貧乏神屋に改名する店まで現れました。
 こんなご時世なので、とうとう追い剥ぎならぬ追い剥がれが登場します。
 「孔子縞干時藍染」には、見開きいっぱいにこの追い剥がれの図が描かれています。
 右側の頁には、ほとんど裸同然の姿で一目散に走り去る一人の男が描かれており、左側の頁には、沢山の荷物に囲まれて困り切った顔をして呆然とへたりこんでいる一人の男が描かれています。右側の男が追い剥がれで、この男が左側の男に荷物を無理やり押し付けて逃げ去ったというわけです。 
 同類には巾着切りならぬ巾着切られなんてのもあるという設定になっています。笑っちゃいますね。

 こうした作品がお上に睨まれたためか、京伝は手鎖50日という刑を受けています。
 今時のなまじの風刺作品に比べれば、はるかに学のあるいわば高級な笑いと言えると思うのですが、いつの世もそんな価値が理解できないのがお上というものなのかもしれません。
 京伝が今の時代に生きていたなら、きっと滑稽でツッコミどころ満載の今の世相を面白おかしく鋭く斬ってくれたに違いありません。

 今日(7日)は、山東京伝の199回目の命日(二百回忌)です。
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