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2015年01月14日17:02

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旅行記@2014年末遠征《7》鹿児島城址(鹿児島県歴史資料センター黎明館)

2014年12月28日日曜日、旅の3日目。
この日も朝早くに自然と目が覚めた。
当日最初の目的地「鹿児島県歴史資料センター黎明館」の開館時間が9時。その資料センターも敷地内に含む鹿児島城の見学を先に済ませるにしても、開館2〜30分前に当地に着けばだいじょうぶだろうと思っていたので、また数時間、手持無沙汰になってしまった(;´∀`)

特にすることもなく部屋に籠ってぼーっとしてても時間がもったいないだけなので、早めにチェックアウトして、歩いて鹿児島城の方へ向かってみた。と言っても、まっすぐ向かえば15分ほどの距離である。
途中、西郷隆盛の銅像や、
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このあと資料センターで展示中の原品を拝観させてもらうことにしている国宝刀剣・銘国宗の所蔵先である照国神社など、道すがらにある見学ポイントをざっと拝観しながら向かったのだが、それでも資料センターの開館1時間ほど前に着いてしまった。

鹿児島城自体には、こう言っては何だが、さしたる見所はない。
なぜここが100名城に選出されたのか? 不思議なくらいである。
100名城の選出には、城の遺構が文化財として、史跡としてどうこうということ以外にも、「一つの都道府県から最低1城は選出し、最高で5城までとする」という縛りや、「著名な歴史の舞台となった場所」も選考理由に加味するなど、いろいろと条件がある。そうしたことを考えれば、幕末〜明治にかけて日本をリードした薩摩藩の政庁だった鹿児島城は、確かに「歴史的に重要な城」ではあろうが。。。
現在、城の遺構として残るのは、本丸跡周辺の石垣と堀、そして大手門跡の前に架かる石橋のみ。
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他の100名城のように、かつては立派な建物があったのが焼失したとか、取り壊されたとかいうのではなく、築城当時からかなり簡素な建物だけしかない城だったらしい。「77万石を領する大大名の居城にしてこの規模は、、、不思議だ」というような著述も、明治初年の歴史書に見られるという。
居城がこれほど簡素だった理由として、島津氏の場合は、領内各所に中世式の山城を残してこれで防衛線を構築する「外城制度」を採っており、そのため本城の防衛をことさらガチガチに固める必要はなかった、ということもあるらしい。また、城址内の説明看板では、江戸初期に当城を築いた島津忠恒(家久)の言葉として、「薩摩は人を以て城とする」という名台詞(?)が紹介されていた。。。確か甲斐のあたりでだったか、他所でも聞いたことがあるような言葉だと思ったが。。。

まあそんなわけで、簡素な佇まいの城址の遺構見学も、ものの5分もあれば済んでしまい、ここでもまた手持無沙汰になってしまった。
そこで、仕方ない。城址の裏山にあたる「城山」に上ってみることにした。
以前鹿児島を訪れた時にも、こちらには登ったことがあり、そこから見えた桜島がとても雄大で、いい眺めだったという記憶があったので。

登りは遊歩道ではなく、自動車道を上がって行った。途中には、これもかつて拝した記憶があった、維新の英傑・西郷隆盛が、新政府軍に包囲された城山で最期の数日間を過ごした洞窟、というのもあった。
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麓から20分ほどで、展望台のある山頂に到着した。しかし、錦江湾の向こうの桜島には雲がかかっており、その雄大な姿はよく見えなかった。
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《↑右の写真は、鹿児島市街地の様子》

しばらく風景を楽しんでから、頃合いを見計らって下山にかかった。下りは、麓の鹿児島城址に向けてまっすぐ下りて行ける遊歩道を利用した。10分ほどで、本丸跡に建つ鹿児島県歴史資料センター黎明館の前に到着した。
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開館から10分程が経っていた。しかし、電車の時間まであと1時間程は見学できる。それで十分だと思っていたのだが、、、考えが甘かった。この施設、かなり立派である。展示をじっくり見学しようと思ったら、2時間くらいは考えておいた方がいいかも知れない。
とにかく、券売所でチケットを購った。で、コインロッカーの場所を訊ねると、愛想のいい女性スタッフが、「こちらでお預かりしますよ」と言ってくれたので、お言葉に甘えて預かってもらい、展示室に入場した。
最初の方はゆっくり展示物に目を通していたのだが、前述した通り、思いのほか館内が広く、あまりじっくり見ていたのでは、主目的の国宝刀剣・銘国宗を見てる時間がなくなってしまうかも知れない。というので、途中からはかなり端折り気味に拝観しながら、国宗の姿を探した。
展示室は1階〜3階まであり、各フロアそれぞれが結構な広さである。
1階はテーマ展示。原始時代・古代〜近・現代まで、ご当地鹿児島の歴史をダイジェストで振り返るような展示内容だった。大半の展示物がレプリカだったが、中には重文に指定されている中世の甲冑の原品なんかもあったりして、なかなか侮り難し。と思ったりもした。
2階は部門別展示。フロアをおよそ半分に分け、片方が「歴史」、片方が「民俗」の展示だった。民俗の方は時間の都合でほとんど見なかったのだが、歴史の方は、これもご当地出身の偉人を紹介するコーナーになっていて、特に幕末から明治にかけて活躍した志士たちの展示が充実していた。時間があれば、もっとじっくり拝見したい内容だった。
そして3階。こちらが部門展示の「美術・工芸」のコーナーになっていて、このフロアの一角に設けられていた刀剣展示室に、目的の国宝刀剣「太刀・銘国宗」が出陳されていた。
刀剣の鑑賞ポイントは、なかなかに難しい。何振か見比べて、刃紋などの形状を比較することは可能だろうが、1本だけ見て(当展示室内には、ほかにも何振か薩摩刀の展示はあったのだが)形をどうこう言うレベルには、わしはまだ達してない。ただ、来歴は面白いと思った。
この太刀は、もともと島津家が照国神社に奉納したものだったが、第二次大戦後、GHQの接収を経て、行方が分からなくなってしまう。それを再発見したのはアメリカの愛刀家、W・A・コンプトン氏。彼は、自分が手に入れた日本刀が、長年行方不明になっていた日本の文化財だと知ると、無償でこれを返還したのだった。
いい話ではないか。そして、やはり刀剣の良し悪しは、見る人が見ればわかるものなのだ。と感心した。
数奇な運命をたどって、再び故郷鹿児島に帰って来た名刀を拝し、かなり感激したものだ。
ほか、3階に出陳されていた品々で特筆しておくべきは、薩摩焼の展示だろう。江戸後期から明治になると、薩摩焼も彩色や絵付がコテコテし過ぎて、わしの趣味ではなくなるのだが、利休好みのシンプルな焼物を好んだという島津義弘公が造らせた初期の作品などには、侘びた風情があり萌えてしまうのだった(*´▽`*)

とまあ、そんなこんなを拝見し、駅までかかる時間を考慮に入れて、少し早めに展示室を出、窓口で預かって貰ってた荷物を返してもらって、当地をあとにし駅に向かった。
途中でちょっと私学校跡の写真を撮ったりしながら。
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で、乗車予定の特急が来る10分程前に駅に着き、切符を購ってホームに下り、電車を待っていたのだが、、、ここではたと気がついた。
ああーっ、100名城のスタンプ、捺し忘れてた(;゚Д゚)!!
気がついたときには既に、「間もなく特急が到着する」というアナウンス。そして電車の姿も実際に、ホームの先に見えていた。
しかしわしが買ったのはさいわい自由席の切符だったし、次の目的地・飫肥では余裕を持って3時間以上、滞在時間が取ってある。1本電車を遅らせてもだいじょうぶだろう。そう考えて、今度の列車は見送ることにし、いったん100名城スタンプの設置場所である黎明館まで戻ることにした。
駅員さんに事情を話し、一旦出場の許可を貰うと、さっきやって来たばかりの道を、今度は逆にたどり直した。
この日の鹿児島は暖かく、コートを着て早足で歩いていると汗が出た(;´Д`) いや、やっちまった大失態に、ちょっと気が動転しての発汗、というのもあったかも知れない。

つづく。
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