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2024年03月27日23:00

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2024年ウクライナ軍とロシア軍の戦い(3) 2月24日から3月17日迄 ゼレンスキー大統領のバルカン半島歴訪 1812年のナポレオン戦役 U-23日本代表 対 U-23ウクライナ代表

  2024年ウクライナ軍とロシア軍の戦い 第4回目

 前回 2月27日付 ナワリヌイ氏の死亡事件 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987057386&owner_id=32437106

 前回 サッカー関連 シャフタール・ドネツク 対 アビスパ福岡戦レポート 2023年12月21日付 
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986590193&owner_id=32437106

 戦時下のサッカー アルメニアとアゼルバイジャン 2022年4月3日付
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981982200&owner_id=32437106
 
 ロシア軍によるウクライナ侵攻は3年目を迎えた。エネルギー価格の高騰に伴い、世界的にインフレの進行、アフリカの発展途上国を中心に食糧不足を引き起こした。遠く離れた日本でも、30年間無縁だった物価上昇に転じる。インフレは、所得格差を引き起こし、人々の不満に繋がり、治安の悪化が懸念される。3月22日にロシアではモスクワ郊外で、イスラム過激派による銃乱射事件が起きた。モスクワ当局から25日付けで死亡者137人と発表された。実行犯は6人、そのうち二人はその場で射殺され、逃亡した4人の身柄は確保され、いずれもタジキスタン国籍と明らかにされた。今回は、外交関係を中心に見ていく。

第1章 ゼレンスキー大統領、外交努力を重ねる。

 詳細日記 セルビアの政策について 2023年2月17日付 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1984411502&owner_id=32437106

ゼレンスキー大統領は2月24日、侵攻を受けてから調度2年目を迎えるにあたり、G7のテレビ会議に出席した。首都キーウには、EUのフォンデアライエン委員長、イタリアのメローニ首相、カナダのトルドー首相が訪れていた。3人の代表者は、ゼレンスキー大統領と同じテーブルに付き、テレビ会議に参加する。首脳達は、ロシア軍を支援する第3国の軍事企業を中心に制裁を加え、ウクライナ支援を続けるとの共同声明を出した。

 ゼレンスキー大統領は、今回の軍事侵攻を受けた原因には、西欧の一員になりきれなかったことにあると、分析しているのか、EUとNATO入りを実現するべく、本腰を入れた。2024年2月28日に、アルバニアの首都ティラナにて開催された首脳会議に出席した。

写真 掲載元 REUTERS 2024年2月29日付 左側ゼレンスキー大統領、右側アルバニアのラマ首相https://jp.reuters.com/world/ukraine/OU4B24HKOJP5VJKWR5TRCJ6OFE-2024-02-28/
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EU加盟申請中のアルバニア、モンテネグロ、セルビア、ボスニア、モルドバが出席している。その他未加盟のコソヴォ共和国、加盟国のクロアチア、ルーマニア、ブルガリアの代表が参加した。ゼレンスキーは、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれ、古くから領土問題を抱えるバルカン半島の首脳に対して、軍事的協力を求めた。ウクライナには防衛関連の企業は約500社、今後バルカン半島に展開する計画を立てていると、説明した。NATO加盟国のクロアチア、かつてNATOと対立関係にあったセルビアには、兵器の生産工場が充実している。セルビアは、ロシアとの繋がりも深く、EU加盟申請をしながら、経済制裁の参加を拒否した。ゼレンスキー大統領とセルビアのブチッチ大統領との間では、2023年8月22日に訪問先のギリシャで顔を合わせている。ブチッチ大統領は、2014年以来、ウクライナの領土保全を尊重していたと、気持ちを伝えたという。詳しいやり取りについて明らかにされていない。ブチッチ大統領は、あくまで軍事的に中立の立場に変わりなかった。2023年4月13日に、セルビアで生産された武器が、第3国を通して、ウクライナへ流入した疑惑が浮上していた。ブチッチ大統領は、2022年5月27日に石油の輸入期限を3年延長したロシアの動向を気にして、ウクライナ寄りの姿勢を否定する。第3国に武器を売り渡したりしないと、はっきりと述べた上で、米国の機密文章には、証拠がないと、断言した。ブチッチ氏が属する2008年に結党した「進歩党」は、ロシアと西欧の橋渡しになる存在を目指している。ロシアとEUの狭間に立つセルビアからゼレンスキー氏は、武器供与を求めた可能性がある。EU加盟申請中の身として一体感を示して、支援を引き出す狙いを持つ。春には、ウクライナ支援のあり方を巡って、西欧諸国が参加して、協議に入る。

  第2章 アウデーフカ撤退後の状況 チェコが支援を表明する

 戦況の方は、ロシア軍の攻勢に対して、ウクライナ軍は辛うじて持ちこたえている状況だった。ウクライナ軍はドネツク州の要衝アウデーフカから引き上げて以降、北へ逃れていた。2月26日付、ウクライナ人が運営するDEEP STATEとロシア人ミルブロガーが運営するRYBARは「ロシア軍がステポヴェとシェベルネを占領した」と報告した。ロシア軍がステポヴェ集落の西端=Ⓐで軍旗を掲げる視覚的証拠が確認されている。DEEP STATEは28日に更新した戦況マップの中で「ロシア軍がステポヴェの南でベルディチ方向に前進した」と書き込んだ。さらにステポヴェとラストシュネの間=Ⓑでロシア軍が西に前進している様子を示した。

 詳細 写真掲載元 航空万能論より https://grandfleet.info/war-situation-in-ukraine/ukrainian-army-announces-withdrawal-from-multiple-bases-in-battle-for-audiiivka/
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邁進するロシア軍は、2つの集落に足場を作り、ドネツク州全域の制覇を狙う。兵士や弾薬不足により、苦境に立たされているウクライナに対して、西欧諸国の間では危機感を募らせている。旧ソ連圏のチェコが、率先して手を差し伸べた。同国のパベル大統領は3月7日付け、30万発の弾薬の調達先を見つけ出し、速やかに供給すると発表した。その後追加分を含め、80万発を用意しているという。ドイツやフランス、ノルウェーを含め18カ国から資金を提供されたことも明らかにした。

 詳細 2024年3月8日付 https://www.asahi.com/articles/ASS383DYXS38UHBI003.html

チェコは、2023年7月7日に、首都プラハにゼレンスキー大統領を招き、防衛産業分野の協力に関する相互理解覚書に署名していた。

 チェコは、ルクセンブルクにも参加を呼びかけ、春先のウクライナ軍の防衛のために、必要な物資の調達先を確保すると、協力姿勢を明確にした。

 第3章 帝政ロシア時代の栄華 1812年のナポレオンとの戦いでの勝利

 交戦国のロシアは、旧ソ連から帝政時代を含め、国土の広大さから、兵隊の数や武器・弾薬の生産体制を含め、枯渇する心配はない。従って、消耗戦になれば、有利になる。
現に二次大戦の最中、1941年9月8日から1944年1月27日まで872日間にわたるレニングラード包囲戦にも耐え抜いた。独ソ戦は、1941年に始まった。1939年の不可侵条約をドイツ側が一方的に掃きし、占領したポーランドの東部、またフィンランドから侵攻したのである。当初ソ連側は、2年前に結んだ条約により、ナチス・ドイツとの戦争に備えていなかった。不意をついたナチスは、一気に攻め立て、港湾都市レニングラード(現サンクトペテルブルク)を包囲する。物資の輸送ルートは、唯一西側のラドカ湖に限られていた。ナチス・ドイツにより、電力網をとめられ、冬場は寒さが襲った。当時の住民300万のうち、飢えにより100万人が犠牲になる中、ソ連軍は反撃体制を整え、42年8月にスターリングラード(現ボブゴグラード)の戦いで勝利すると、一気に形成が変わった。退却するドイツ軍を追撃した。ドイツの首都ベルリンを攻め立て、45年5月7日に降伏に追い込んだ。

さらに時を遡り、1812年のナポレオンによるロシア戦役では、中長期的な視点に立ち、作戦を練った。同年6月24日から始まったナポレオンのロシア侵攻は、占領地で物資を補給し、その都度戦略を練っていた。ナポレオンの戦法を見抜いていた帝政ロシアは、作戦を練る。指揮権を与えられていたのは総司令官バルクライだった。ナポレオン率いるフランス兵との真っ向からの勝負を避け、町を焼き払い、焦土作戦にでる。ナポレオンは、当時の帝政ロシア領ポーランドから内陸へと進軍する過程で、物資の補給が間々ならなくなり、思い描いた通りの展開にならなかった。一方、ロシア側は、後に帝政領となるフィンランドやトルコから傭兵を、さらにコサック隊などを引き入れた。後方からコサック隊やフィンランドやトルコの傭兵が、補給路を断った。ロシア正規軍は、迎撃体制を整えた。8月16日から18日にスモレンスクにて決戦の時を迎えた。ナポレオン軍4万対ロシア軍3万である。後方部隊を叩かれたナポレオンだが、前線部隊の活躍により、勝利を収める。当初の計画通りとは行かなかったとはいえ、モスクワへ邁進する。8月20日、敗戦の責任をとり、総指揮官の座は、バルククライからクトゥーゾフへと代わった。クトゥーゾフも作戦を継承し、意図的に部隊を退却させ、内陸へと引きずり込んだ。9月7日、モスクワへと通じる回廊の途中にあるボロジノにて、両軍は衝突した。勝負は互角だった。スモレンスクにて圧勝したナポレオン軍だが、土地勘のないロシアで満足な食料を得られず、兵士の消耗は避けられなかった。ロシア軍は、一定程度犠牲は覚悟のうえで、やがて反転攻勢に出る。

 写真 掲載元 ナポレオンのロシア戦役 https://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/kou_chirekikouminn/sekaishichizu/france/france_7.html
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 ナポレオンは、ボロジノの戦いで、足止めされたとはいえ、戦略的撤退するロシア軍の魂胆を見抜けず、9月14日にモスクワへ入城した。市民には専制主義からの解放者として振る舞い、水と食料を得て、英気を養えると期待した。ところが、市内は人っ子一人見当たらず、水を打ったように静まりかえっていた。戦略的に住民を他の町へ移したロシア軍は、意図的に火を放ち、ナポレオン軍を追い詰めたのである。18日までの5日間にわたり、燃焼したという。補給路を断たれ、休息の場を失ったナポレオンは、戦闘能力を失い、撤退する選択以外残されていなかった。ロシア軍は、町を犠牲にしながら、ナポレオン軍が弱るまで我慢していた。10月24日に、消耗したナポレオン軍は、マロヤロスラヴェツ(現ロシアのカルーガ州の都市)の戦いで、辛勝したとはいえ、余力は残っていなかった。時は11月、雪が降りしきる中、スモレンスク経由での退却した際、兵士に残された食料はなかった。飢えによって次々と兵士が息絶えていく中、コサックを含む騎兵隊の襲撃により、止めをさされた。12月14日、ロシア領内から淘汰され、生きてフランスに帰った兵隊は、2万2000名にとどまった。最終的に大陸軍は60万から5千まで激減した。ロシア軍が地の利を生かして、洗練されていたフランス軍を打ち破った。歴史的にもヨーロッパ全域の制覇を掲げたナポレオンの野望を打ち砕いたロシアの焦土作戦は、評価されている。

 ナポレオン戦争や第二次大戦にも打ち勝った誇りを胸に抱き、現プーチン大統領は、帝国再建を掲げている。民主主義を否定する同国を、西欧諸国は俄然警戒を強めている。

   第4章 民主主義 対 専制主義

 ウクライナ軍の武器弾薬不足が深刻化する中、フランスのマクロン大統領の発言が波紋を呼んだ。マクロン大統領は2月26日、同国の首都パリで開いた会合にて、NATO諸国の派兵について、選択視として排除しない、と発言した。1789年のフランス革命を発端に、西欧諸国の中で先陣を切って、民主主義が根付いたフランスは、ロシアのような専制主義国とは、政治体制が全く異なる。一方で、NATOを牛耳るアメリカのバイデン大統領は、ロシアの軍事侵攻当初から、「派兵する義務はない」との立場を示していた。ドイツも、アメリカに歩調を合わせ、派兵には反対と表明している。

 敵対するロシアのプーチン大統領もマクロン大統領の発言に噛み付いた。2月29日に大統領選挙を前に、議会で年次教書演説を行った。NATO諸国を念頭に、いかなる国でも内政干渉をゆるさない、と確固たる口調で述べた。北大西洋条約機構(NATO)加盟国がウクライナに軍隊を派遣すれば核戦争のリスクがあるとけん制した。ロシアの核兵器は、近代的で破壊力が抜群だと、強気の姿勢を示す。また、ヒトラーやナポレオンと共に同じ運命を辿ると、警告を発した。

 確かにロシアは、西側諸国の経済制裁を交わし、中国との貿易協定を結ぶことにより、国内は軍事作戦前とほぼ同じ状況に代りない。

 反対勢力のナワリヌイ氏の影が消えることにより、万全の体制で大統領選挙戦に臨む。軍事作戦に対して反対する立候補者は、届出の段階で排除をした。プーチン氏と争う他の3人もウクライナへの軍事作戦に賛成である。3月15日から17日まで3日間に渡り、投開票が行われた。6年振りの選挙戦に辺り、今回新たに2022年9月30日に、ロシア側が住民投票の結果を元に、一方的に併合を宣言したウクライナ東部4州でも実施している。

 以下 日本経済新聞 2024年3月21日付より https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR21BNG0R20C24A3000000/

 ロシア中央選挙管理委員会は21日、17日に開票された大統領選の最終結果が確定したと発表した。現職のプーチン大統領が7627万票を獲得し、得票率は87.28%だった。投票率は77.49%でいずれも過去最高となった。

 写真 掲載元 REUTERS 2024年3月18日付 https://jp.reuters.com/world/russia/5M5UJYKHCJL7JFKMN6H2JQC4GA-2024-03-17/フォト


プーチン氏は通算5選が決まり、任期は2030年まで6年延長された。他の立候補者の得票率はロシア共産党のハリトノフ下院議員が4.31%、政党「新しい人々」のダワンコフ下院副議長が3.85%、自由民主党のスルツキー党首が3.2%だった。
プーチン氏は同日、「私たちは自分たちが選んだ歴史的な道をともに歩んでいる」と国民の一体感を強調する声明を公表した。

                             <引用終わり>

 高い得票率を得たことにより、ウクライナへの軍事作戦が支持されたとアピールをする。西欧諸国は、選挙の本質である民主主義に則していない、公正さを欠いている、と結果を容認していない。

 ウクライナ側は、東部4州での実施について、強く非難した。現地を実効支配するロシア兵が、投票所を監視し、住民たちに銃を突きつけて、誘導していたという。ウクライナから軍事制圧した地域にて、投票を行うことにより、併合を既成事実化する狙いがある。

 以下 クリミア併合の10周年記念式典 dmenuニュース 毎日新聞の記事引用
2024年3月19日付https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/mainichi/world/mainichi-20240319k0000m030369000c

 プーチン氏の5選がほぼ確実に決まる中、3月18日にクリミア自治共和国併合から10年の式典が首都モスクワで開かれた。クリミア半島のロシア連邦へ回帰したことについて、投票所で賛成票を投じた住民たちに祝意を表した。新たにウクライナから併合した東部4州を手に入れ、領土を拡大する。「祖国への道は困難で悲劇的なものとなったが、それを成し遂げた」と戦果を誇った。
 プーチン氏はまた、露南部ロストフ州からウクライナ東部へ続く鉄道を、クリミアの軍港都市セバストポリまで延伸する計画を明らかにした。クリミアと露南部を結ぶクリミア大橋の予備ルートにする。

 プーチン氏は、西暦2000年に大統領に就任すると、帝政回帰を掲げ、強いリーダーとして振舞う。大統領に権力を集中させ、反対者を厳しく取り締まる。自ら領土拡張をすることにより、国民に帝国復権の正当性をアピールした。メディアを自由に操り、国民に偽情報まで流す。特別軍事作戦の意義について、ロシア人を脅かすウクライナの「ネオナチ」からの解放と訴えた。ネオナチとは極右民主主義集団のことをさす。外国人排除、純血主義者のことを意味するネオナチを放置すれば、ウクライナに在住するロシア人が迫害される。実際2014年のクリミア併合に伴い、ドネツク州とルガンスク州では、親ロ派勢力と、ウクライナ人の間で争いが起きていた。軍事衝突は、2024年2月24日に始まったわけではない。広義的には、2014年から10年続いていることになる。ロシアとウクライナの軍事衝突は、西欧的な視点でいえば、民主主義 対 専制主義にうつる。一方互いの間では、ソ連崩壊に伴う、領土問題の側面を持つ。ロシア軍が、圧倒的な兵力により、有利な展開に変わっている。

第5章 スウェーデンがNATO入り

 関連日記 トルコ共和国建国100年 2023年10月29日付 第3章にスウェーデンのNATO入りについて記載 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986234427&owner_id=32437106

 一方西側諸国では、新たに動きがあった。2月26日に、2年間NATOの加盟申請の審理手続きに入っていたスウェーデンが、大きな障害になっていたトルコに続き、ハンガリー議会からも批准され、32カ国目の正式メンバー入りが決まった。1814年にフランスのナポレオンから共同防衛を掲げた第7次対仏同盟軍に加わって以降、210年に渡って、軍事的に中立を貫いた。2014年にロシア軍による一方的なクリミア併合により、危機意識が高まった。2010年に109年の歴史を持ちながら廃止した徴兵制を2017年に復活させ、軍事力を一段と強化していた。



 以下 スウェーデンの徴兵制について swelog 2024年1月19日付https://swelog.miraioffice.com/entry/2024/01/19/144223

徴兵制の対象は健康的な18歳以上の男性である。防衛能力評価庁から徴兵と入隊の要件に関する情報が書かれた手紙が送付される。
2023年、防衛能力評価庁からの手紙を受け取るのは2006年に生まれた若者たち10万9966人、そのうち2万8000人が兵役検査に呼ばれた。さらに基礎訓練を受けるのは、8000人まで絞り込まれる。スウェーデンで防衛に参加することは国民の義務であり、本人が望むと望まざるに関わらず、国は召集できる。
                                <引用終わり>

 写真=2023年7月10日、リトアニアの首都ビリニュスで握手するトルコのエルドアン大統領(左)とスウェーデンのクリステション首相。中央はNATOのストルテンベルグ事務総長=AP
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 ロシア軍のウクライナへの侵攻により、フィンランドに続き、スウェーデンまでNATO入りに入り、バルト海を挟んで、対峙することになる。帝国復権を掲げるプーチン大統領から、民主主義を守るべく、西欧諸国の間で共同防衛の意識が高まった。軍事に国家予算や人員を割くことにより、福祉に手が回らなくなる。物流網が滞ることによる、インフレが加速する。世界は、軍拡競争により、人々の暮らしが脅かされるようになった。

第6章 サッカーの試合レポート 3月25日(月)

 サッカー界では、午後7時から福岡県北九州市にて、西暦2001年以降に生まれた選手を対象にしたU-23日本代表 対 U-23ウクライナ代表のテストマッチが行われる。U-23ウクライナ代表は、7月下旬から8月上旬にかけて行われるパリ・オリンピックにて、同国サッカー史上初出場を果たした。対して1996年のアトランタ(アメリカ)大会から2021年の東京五輪まで7大会連続本戦に勝ちあがっている日本代表は、4月下旬から5月初旬にカタールで行われるU-23アジアカップを戦う。アジアからの五輪の出場枠は3,5である。4位チームは、アフリカ4位のギニアとのプレーオフに回る。

 サッカー界で、日本とウクライナの交流試合は、昨2023年12月19日(月)に一度あった。首都東京の国立霞ヶ丘競技場にて、ウクライナ復興チャリティーマッチと銘を打って、同国の強豪クラブであるシャフタール・ドネツクを招待し、同2023年Jリーグカップの王者であるアビスパ福岡と対戦した。試合は2対2の引き分けだった。2024年は、パリ五輪を目指す23歳以下代表チーム同士の戦いになる。

 日本時間3月27日、ウクライナA代表チームは、一つの大きな目標を達成した。EURO2024ドイツ大会の出場権をかけたプレーオフ Pass B FINAL、アイスランド戦にて、2対1で逆転勝利し、3大会連続4回目の出場を果たした。現地ポーランドのブロツワフには、2万9000人の観衆が詰め掛け、勝利を祝った。同国のゼレンスキー大統領は、自身のXのアカウントにて、喜びを表した。「ウクライナ人が困難に直面しても、諦めずに戦い続けることで、ウクライナ人は必ず勝利する」
代表チームに向って「勝利をありがとう!ウクライナに栄光あれ!」と称えた。

 写真=アイスランド戦勝利後のウクライナの選手達 真ん中ムドリク 右側ジンチェンコ 出展:ESPNより
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 試合の写真掲載元 Nikkan sports https://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/202403240002103.html

 さて3月25日(月)北九州市にて行われたU-23日本代表 対 U-23ウクライナ代表戦、前半45分は0対0で終えた。後半右エンドにウクライナ、左エンドに日本が入り、ウクライナボールで始まった。立ち上がり1分、ウクライナ陣内で、佐藤が相手からボールを奪い、右横の荒木にパスをする。荒木は右足でシュートを打った。右ネットに向うボールは、瞬時に左手伸ばしたGKフェシュンの指に辛うじて当たり、ゴールラインを割った。チャンスメイクした佐藤は、フィジカルの強さとドリブル力を持ち味とする。2023年に杭州アジア大会で、一躍ブレイクを果たした。続く2分、右サイドからのコーナーキックを荒木がけると、ゴールから反対方向ににボールはカーブしていく。GKフェシュンは前に飛び出しながら、パンチングのタイミングを失った。関根がヘディングでボールを合わせると、大きく浮き上がって、ファーサイドに落ちる。ポストに阻まれたボールは、佐藤の右肩に当たって、落ちる。GKフェシュンは、右手でボールを押し出したものの、既にゴールラインを割っていた。1対0.佐藤は、ボールの軌道を見失っていたとはいえ、偶然にもポストに跳ね返ったボールが、肩に当たったことにより、ゴールに入ったのである。

 写真=関根のヘディングシュート
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失点したウクライナはGKフェシュンの判断ミスにより、ゴールマウスを空けてしまっていた。先制した日本は、引いて守りながらブロックを築く。9分、ウクライナのシチのドリブルに対して、左サイドバックの大畑が体を入れる。肘を曲げながらブロックし、意図的にシチのファウルを誘うかのように倒れた。主審は笛を吹き、日本ボールを告げた。30分、日本に追加点が入った。ウクライナ陣内でこぼれたボールを、田中が中央やや左から、左足でシュートした。代わって入ったGKイェルマコフの左手はボールに届かず、右ネットを揺らした。2対0.ウクライナは、濡れたピッチに苦戦し、ルーズボールの処理が遅れていた。

 写真=2点目を決めた佐藤のゴールシーンとその後のガッツポーズする様子
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雨でのプレー経験を積む日本代表は、丁寧にパスをつなぎ、リズムを大きく引き寄せた。試合は、日本が2対0でウクライナを下した。無失点に抑えたことにより、2024年4月のU−23アジアカップに向けて、弾みがつく勝利だった。立役者は、GK小久保だった。彼の真骨頂はは前半終了間際のプレーにある。中盤のシチがエリアの手前の右から浮き球のクロスを送った。直接ゴールへ向っていくボールを、小久保は下がりながら球の軌道を見極めた。ゴールマウスの手前で、ジャンプしながら右手でボールを外に出した。冷静にクロスかシュートか、見極めたことにより、失点を免れた。

 写真=小久保のセーブシーン
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ウクライナは、チーム全体運動量が少なく、後手に回っていた。ゲーム内容でも、ハイプレスをかける日本は確実に相手を上回っていた。両チームの選手達は、平和を願う横断幕を掲げながら、記念撮影をすると、ジャケットを着込み、ピッチを後にした。

 
 
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