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2022年02月18日23:39

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好きな人










寒くて風が強いと徒歩でも涙が出る。乾燥と異物から眼球をまもる本来の機能。では感動したり悲しんだりした時にも涙が出るのはなぜだろう。精神のホメオスタシスからすれば過剰な精神の高揚や低下は余剰であって、まさに異物なのか。ついでに涙も一種の排泄であって快感が伴う。異物の排除と排泄の機能をとてもうまく流用したものだ。




昨日の通勤時に涙を垂れ流しながら思いついたことを言語化。




本日は、時間(過去)の垣根を外してみたら、「あの時」のことのようなモニュメント(物)はなく、精神世界にはあまりに余りあるもので満ちていて、ここの個々に色とか重みみたいな質感を持たせていたら「いま」を生きていられないから切り離すのだろうなと考えながらの出勤。




仕事。昨日の先輩が越境について礼を言ってくれる。この人には何やら運動があるような。女性上司から業務上の連絡事項があり、話を聞きながら眺めていると、お化粧をきちんとしている(ように見える)ことと、爪の桜色が目に入る。良いですねって言えないのは若干もどかしい。




よく言うところで、あくまで自分の為にしているのだから、知らない人から見てくれを見てくれる必要はないという言があるが、どう身繕うかってどう見えるかが付着しているから、良い風にだけ見ろとか見ないようにしろというのは何か違うような。僕は当人の中でここに意識(時間)が通っているのだなという味わいで見ているだけで、視角が違うのかもしれない。




週末の夕方のスーパーは賑わっていて、スーパーの人も忙しいのだろうな、お刺身のパッケージに「イカ入り」と書かれているが、ちゃう、これ「カイ」や。面白かったから、買い。




お風呂。時間的には2日前にそういえば、「耳」って意識的に洗わないよなという意識が起こる。では、何で洗うのか論争が1瞬起こる。「頭」とすればシャンプーで、「体」とすると牛乳石鹸、「顔」になると洗顔料。たしかに部位としては頭だが、シャンプーは主に毛が生えた頭皮を洗うものであって、耳には産毛くらいしか生えていないから却下。では体はどうか。たしかに皮膚ではあるし牛乳石鹸は優しいし、これでも良いかもしれない。ただ、皮膚の中で顔だけ別に洗うことになっているし、体としての皮膚と顔としての皮膚のどちらと近いのかというと、薄さで言って顔に軍配が上がる。




ということで、洗顔料で洗うことにし化粧水と乳液のケアもセットにした。




ただの雑考だが、物事をどう区分けするかによって現実的な扱いが左右にふらふらするのが認識の力だということ。とすると、認識は知覚というよりは判断とか決断の領分の方が近そうだとなる。




キリンの一番搾りの6缶パックを買ったら付いていたグラスに最初に注がれたのは金のエビスだった。




さておき。




好きな作家を語るブームなのか、何人かがそういうことを書いている。僕も流行に乗って書こうかと思ったのだが、なかなか難しい。真面目に書こうとすれば何万文字にもなりそうで睡眠時間が削られる。




単純にその作家の作品の網羅率を好きと評する判断もある。これは好きだからその人の作品を網羅していると鶏と卵だし。これで言えば村上春樹さんは筆頭になり森見登美彦さんとか森晶麿さんとか森博嗣さん(森ばかりだな)、米澤さん、中山七里さん、他にも何人か浮かぶ。




確かに好きの定義の一般論から言えば、ここで良いはず。読んでいる量とか冊数で換算する。ただ、これって、僕が嫌なこととしている、自分がしていることによって相手を決めるものさしと変わらないから、これは好きと違う。




では、自分に対して響く作者というものさしだとどうか。量とも繋がるが、1冊だけも良いし、ここになると作者ではなく作品になる。この標準で言えば、もっと増える。西尾維新さんとか夢野久作さんとか、作者を意識せずにいっぱい読んで収納されている群。




僕の素朴だと、書いた人まで馳せることができるのが好きな作家。筆頭が1人居るのだがまだ不純物が混合しているから、現実的な関係の可能性が無くなるか現実的になるかのどちかで表現できるようになる。個人的には文章の師匠。漢字とひらがなのバランスが絶妙で視覚的にも綺麗。




この文脈だと、その作者と飲み交わしたいかとなれるかという話になる。夏目さんとか太宰さんと坂口安吾さんとか、カントさんは微妙、エーリッヒフロムさんにはちょっと聞きたいことがある。ベルグソンさんとかハイデガーさんとかウィトゲンシュタインさんは微妙。あんまり馴れてない。




結局は、好きな作家という切り分けは、何をもって「好き」とするかの認識・定義による。




僕の好きは人ではなく味だから、あんまり作者は関係ないのかも。

外国の小説は省略したが、味わいが違って良き。「夏への扉」とか、「ロボットインザガーデン」とか。文豪とされている人達は言い回しが大げさな感だが生々しい。




どうでも良いが、好きな人の涙って美味しい(変態)。




読書とはなんぞやは言葉とはなんぞやということでまんま当人の世界観になる。




読書とは狩りだという本を立ち読んで、ここは近い。読んで自分に何が咀嚼されるか。本は物ではないから、物体的な本は大事に扱わない。扱えない。




そうしてノルウェイの森。




僕はこういう閉じた世界に近いと思って居た節があったから、村上さんに同期してしまった。




卒業の為の読み返しなのだなという感じ。







性質上誰とでも近いところで居られる。




短いけどここまで。




おやすみなさい。




良い夢を。



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