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2021年12月28日00:51

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ないない










遊んでいるのか、遊ばれているのか。いずれにしても変わりはない。




noteのアプリ、フォローしている人の更新が通知されて良きな。検索して読むのも並行している。はてなブログは語句検索しにくいのがなんとも。ジャンルで読みたい訳ではないのだよな。




さておき。







寒いと汗をかかないから全力で歩ける。もはや仕事帰りのサラリーマンの歩行速度ではなくなっている。次の革靴はもっと歩きやすいのにしよう。心拍数が上がるくらいの運動を週2ですれば良いというのを何処かで見た。行き帰りでそれができたら重畳。




昨日のあの瞬間は心拍数上がった、のか。血流が向上したような気はする。

存在としての暖。




仕事は特にない。言葉は正確にという話はあった。確かに共通項を問題としているときには定義付けられた言葉が大事だが、広くすると共通項としての言葉に正確性とか要求できるものだろうか。僕はこのニッキで語る言葉に自分との一致は要求しているが、それが外から読んで一致するという正確性は知ったことではない。ここまで要求できるものではなかろうという立場。




そういえば、昨日の双三角錐、映像を再現すると双四角錐だったかもしれない。いや底面は正方形ではなくて、ひし形だったのではという気もする。正確な表現は難しい。




どうでも良いが、固定された記事なるものを使って、現時点での自己紹介のような記事を書くという発想が起こった。年末年始は概念に潜る合宿をしようと目論んでいるのだが、合間の息抜きに。自己紹介はもともとめちゃくちゃ苦手なのだが、言葉によって解釈された人物像を言語化するということでしかないのなら、やっても良いかなと。書いたとしても事務情報はあんまり書かないと思う。こういう情報ってあんまり関係ないよなと。読む分にはともかく、僕のそんな情報読みたい人が僕の文章を読んでいるとは思わない。




知らんけど。




小説選び。




恋愛小説が続くと胃がもたれるから、別の味にしようと物色する。新刊でない方が良いかと古典棚から。「1984年」も重たそうで気になる。AIの話との繋がりで当時のディストピア観はどうなっているのだろうと。ただ、もっと良さげのが見つかったからそちらにした。ヘッセの「デミアン」。




冒頭が良かった。作家は物語の人物を神の視線で語るが、そんなことはできない。とか、人は個人個人で固有の物語があるのだとか。こちらはまさに昨日のニッキのよう。「車輪の下」も持っているのだがまだ読めてないヘッセさん。文体は透明な感じ。ただ、するする読めるという訳でもない。濃厚な水。







ともあれ。




時間を区分けせずに総体として捉えるという発想が昨日のニッキからぐるぐるしている。日本史と世界文化史も読んでいるのだが、これは過去に起こったことではなくて今でも起こりうることと捉えるとか、そもそも、なんで時間を分ける必要があるかとか。




そうした方がエコであるというくらいしか思い浮かばないのだが、まぁ区分けは人それぞれ。どこまでが今でどこまで過去かって厳密に統計を取ったら境界線は微妙だと思われる。昨日は過去として言語化されるが、当人の感覚としてはとか。




ややこしいことを考えているという意識はない。

あくまで僕のナカでは時間と仲良くしている。




ということで、区分け論。




恋愛感情は、脳内ホルモンのバグであるという言説を読んだとき、個人的に、そのバグによって人生が楽しいのであればそれで良いのではと思った。人に対するホルモン分泌だろうが物によっての分泌だろうが自家分泌だろうが、ホルモンはホルモン。




恋愛感情が一過性であるというのは一般的には間違いないのだろうが、一過性であることが無意味だとすると、イベント事に対する楽しみとかゲームの楽しみとかも全部同じくなるような。




ただ、たしかに快楽を司るホルモンに依存するのはいかがとは思う(酒浸りながら)。




僕がこの辺りでもっとも重要だと思うのは、快とか安心ではなく、心理的安全の確保。区分けから越境できるようになるエネルギーは、自分が自分であることが安全であるという場とか人とか精神状態。自分を偽らなくても良い、かつ偽らなくても相手を想えるところ。




ここは序章。




もっと根本的に、現実/非現実を区分けする意味。

読書に浸ることを非現実に心酔していると評されるのがありがちだが、そもそも現実とはなんぞやということを考えた。




このテーマはずっと頭にあって、都度書いている気がする。




素朴としては境界も曖昧だし特に区別して捉える必要もなかろうという感じ。

幸せと同じく、当人が「現実」としている領域が現実だという区分けでしかない。




たしかに、「動かしがたい」物理的条件はある。身体能力とか持病とか。ただ、厳密にここだけを現実としている人はきっと居ない。社会的な条件とか、なんなら精神作用も含めて現実としているはず。




あくまで当人の物語としての現実。

ほんとうに動かしがたい現実はほとんどないような。




虚構としての物語に傾くことが非現実かというとそうも思えない。

例えば、自分を現実的存在として、存在の定義を記憶とか人格の一貫性としてみても3年前の今日の朝ごはんを覚えていないのに、現実的存在とできるのは一種の虚構が働いている。




自分が自分であることを常に物語ることで一貫性を保持しているというだけなのでは。

外からの物語を求めない人であっても自分という物語は構築せざるを得ない。




僕は物語をぶっ壊されるのが好きだから、越境求むみたいな。




要は、誰かが現実を語ったとしても、物理現象さえ科学で解明されていないのだからそれを現実としなくて良い。し、現実として区分けするのであれば、自分の現実は他人の現実ではないというだけ。




もちろん最低限の社会のルールはしかるべくだが、最低限もあいまい。







僕が現実としている部分があるとすれば、外からの出来事ではなく、自分の行動。

動きを変えさせるものが現実的な存在であって、他はただの現実的な非現実。




何かをしたいと思ってできていない自分は、非現実的な存在。

無条件である自分が本当の現実。




知らんけど。




行動という外化で見たとき、やっと自分になってきたなと感じるだけ。

言語化に虚飾はなくて、別に書かなくても物語をきちんと生きている。




あくまでお裾分け。




次のタスクは、きちんとフラれることか。




僕は恋しているが、もう4年目になっているらしい。

ホルモン仕事しろ。笑







どうも、序列をつけることが苦手らしい。







はい、おやすみなさい。




良い現実を。









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