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2021年12月31日13:06

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なぜ勉強しなくてはならないのか?

今年読んだ本の中で、最も刺さったのは「大学授業がやってきた!知の冒険 桐光学園特別授業」の講義録シリーズ。

「学ぶって愉しい!」を テーマに、各分野の第一人者が学びの喜びを語る。
偶然にも講師は縁のある方々や私の好きな人物が多く、立花隆と建築家妹島和世は高校の大先輩、現代美術の宮島達男は同じ県内居住。
敬愛する音楽家の坂本龍一、それに岡田暁生・小沼純一は大好きな音楽評論家。
他にも、音楽関係だけでもピアニストにして文筆家の青柳いづみこ、高橋悠治
作曲家の一柳慧、菊地成孔。
その他、詩人の谷川俊太郎など、名だたるその道の第一人者たちの講義、決して中高生向けの「分かりやすく面白い」話題ではなく、生徒を一人一人の人間、一人前の聴衆として語りかける。
その専門性ゆえ、真実探求に至る姿勢の厳しさをひしひしと感じると同時に、学ぶこと、知ることの楽しさに思わず引きずり込まれる。

「13歳からの大学授業」「大学授業がやってきた!知の冒険 桐光学園特別授業」「高校生と考える日本の問題点―桐光学園大学訪問授業」と、出版社を変えながら、毎回の講義録が出版されている。

今年最後の日記は、このスタイルを借りて、「なぜ勉強しなければならないのか?」と言う問いを、若者向けに語る形で考えてみたいと思う。

「なぜ勉強しなければならないのか?」を考える前に、別な質問を考えてみよう。

子どもは、突拍子もない質問で大人を困らせる。
子どもの「空ってなに?」「空気ってなに?」という質問に対し、勉強することで知識を身につけたつもりの自分たちは、その質問に十分に答えられるだけの、子どもが納得するだけの答えを思いつくことができるだろうか?
学校で学ぶ「勉強」は、それだけの「知恵」に結実しているだろうか?

例えば理科を学べば
「空気は窒素がほとんどを占め、他には酸素や二酸化炭素で構成されている」
「空気の酸素とオゾンは、地上に降り注ぐ有害な紫外線を遮っている」
といった答えが出そうだ。
歴史を学べば、
古代ギリシャでは空気は4つの元素(四大元素:水、地、火、空気)の1つとされていた、など。

また、文学を学べば
「智恵子は、阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」(高村光太郎「智恵子抄」)
「空はその後ろに夜を隠している。そして、空の下で暮らす人々をその向こうにある暗い虚無から守ってくれる」(ポール・ボウルズ「シェルタリング・スカイ」)
といった答えも出てきそうだ。
どれも「正解」であろう、
しかし、その答えで、子どもは納得してくれるだろうか?
どれも、当初の子どもの素朴な問いには満足に答え切れていない。
学校の勉強は、この部分部分の問いには答えられたとしても、そもそもの大きな問い、「空ってなに? 空気ってなに?」という根本的にして本質的な問いには答え切れていない。
その意味では、どれも「正解」にして「不正解」なのだと思う。

盲人の象の故事がある。
象の足を触った者は「象とは柱のようだ」と答え,尾を触った者は「ひものよう」と答える。
同様に,鼻を触った者は「柔らかい管」,耳を触った者は「扇」に,そして腹を触った者は「壁」,牙を触った者は「大根」として,それぞれの印象を喩えた。

「木を見て森を見ず」という言葉にも通じる,ものごとを捉えるのは多面的,複眼的な視点が必要とする喩えだ。

しかし,彼らの情報全てを統合したとしても,象という生物の「形」だけをとらえるに過ぎない。
「象」は動物の象であると同時に,印象,抽象,形象,現象,気象といったように姿形,様子,有様を表す語でもある。
されど,象の「形」のみが決して象の「本質」を現すものではないのだ。
形を捉えたからといって,象の全体像を理解したことにはならない。

「ワインに酔ったからと言って,ワインの本質を理解したことにはならない」〜ハンスリック(19世紀の音楽学者)

象というものを理解するには,例えば自然科学的な見地からは,ほ乳類としての進化の系譜,あるいは生物的な知能の進化,高さといった観点から考えてみることができる。

人文科学的な見地からは,信仰の対象としての象や,美術品としての象牙の取引の歴史,あるいは労働力としての象など,人間との深い関わりといった観点から考えてみることができる。

そして,自然科学と人文科学を融合した見地からは,生物としての知能の高さと社会性(象は母系家族を中心とする強い絆で結ばれた社会生活を営む),といった観点からも考えていくことができそうだ。

ざっと思いつくだけ挙げてみても,「象」というものを捉えるのに,これだけの観点,切り口が思いつく。
それら,あるいは,私の思いつかない切り口も含めて,多面的な観点から考察することで,はじめて「象」というものの全体の姿を捉えることが可能となる。

私がいま構想を進めている音楽論もまた,この話と共通する。

「音楽とは何か?」との問いを考えるのに,言葉は悪いが「専門バカ」的な視点,単に音楽史や楽典楽理,音楽美学の視点から語るのではなく,例えば政治経済や宗教と音楽との関係,文化人類学や社会全般と音楽との関係といった人文科学,生物の進化と音声コミュニケートの関係,認知心理学や人類史,脳科学と言った自然科学との関係,そして文学や絵画,映画や漫画など,他芸術文化との関係といった,幅広い視点から音楽を語ることのできる人間になりたいと思っている。

音楽は,端的に言えば空気の振動という物理現象。
絵画は,紙などに描かれた色彩と形態。
その現象がなぜ人の心を響かせるのか。
「音楽とは一体何だ?」その,根本的にして本質的な疑問にとりつかれてしまった若いひとたちに,問いの答えにはならないまでも,考えるべき方向や視座といったものを提供できればいいと願う。

対象の本質をとらえ,見誤ることのないよう,物事の表と裏,その両面から見てみること。つまり複眼的な視点とアプローチが必要なのだと思う。

とらえ方次第で世界は光にも影にもなる。そして光と影は,常に同じ一つのものから浮かび上がってくるものだ。
光と影,その両面から見ることで,対象のより正確な姿をとらえることができる。

音楽,それ自体を言葉で語りきることは,おそらくできない。
言葉で表現しきれないものを表現するのが,それが音楽はじめ絵画,文芸など芸術の本質であり,役割だから。
しかし,言葉で語りきれないとしても,音楽の特徴や特性なら,言葉としてとらえ,そして自分にも他者にも伝えるように言葉として書き記せると思う。
そのためには,姿形にとどまらず,先に挙げたような多面的な切り口が多ければ多いほど真の姿に近づくことが出来るのだろう。

「なにかがわかったということは、別なことが同じくらいに、わからなくなったということである」〜NHK BS「まいにち養老先生、ときどき…2021秋」より

子どもの純粋で、突拍子もない素朴な、されど根源的な問いに、様々な視点からの答えを考えていくこと。
そのことで、世界の点と点が結びつく。

水は常に一定の形態と態様をとどめ得ない。
地表に降り注いだ雨のひとしずくは,山腹に浸みわたり、ほとばしる急峻な清流となり,やがて人々に命の恵みもたらす大河、あるいは池や湖ともなり、大海に注ぎ込む。
そして大海から蒸散し、また再び地表に降り注ぐ。

いずれも同じ「水」だが、その形態と態様は、川の上流と中流、下流そして河口では全く異なる。
学ぶことで、その様々な、バラバラな形態と態様をひとすじの川の流れのように、一連のものとして結びつけ、理解することができる。

学ぶこと。それはバラバラのもの同志がつながる(つなげる)こと。
新しい経験や体験などによって脳が活性化すること、それはやはり人間にとって快の刺激をもたらすものなのだ。
そして子どものような、素朴にして本質的・根本的な疑問をいつまでも持ち続けること。

私は、勉強とは、そのためにするのだと思う。

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