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2021年10月08日18:32

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人の心を動かすことができなければ、芸術ではない

「人の心を動かすことができなければ、芸術ではない〜連続講座:芸術は何処へ?」を読む。
芸術はどこへ向かっていくのか。美術評論家、経済学者、哲学者、動物行動学者、音楽学者らといった、芸術と「外部から」向き合う者と、画家、陶芸家、指揮者、演奏家、能楽師ら、芸術に「自己の内部から」向き合う者同士が、これからの時代の芸術、そして芸術はどこへ向かうのかを考えるパネルディスカッションの記録。

日々の暮らしに不可欠な、たとえばよりお米が美味しく炊ける多機能の炊飯器、新型の自動車、ハイスペックのパソコンといった日用家電。
そして必ずしも不可欠なものではないかもしれないが、より趣味性の高い、例えば一流バリスタの抽出技法をコピーし、再現可能なコーヒーメーカーといった耐久消費財の購入。
これら耐久消費財の購入欲求は、広告、宣伝によって、自分の「外部」から触発・喚起される。
今や芸術も、外部から購入動機を触発される、消費財と変わらないものになっていないだろうか?

TVを付ければ、炊飯器やエアコンなど家電、あるいは新作ゲームのCMと並んで放送される、いつの間にか、「アーティスト」と呼ばれる存在になってしまった「アイドル歌手」たちの新作リリースのCM。
そのCMで、「鑑賞」の意欲ではなく「消費」意欲が喚起される。
「アーティスト」の「作品」は「消費されるモノ」でしかない。

心の深い底から私たちを突き動かすエモーショナルな衝動、生気に満ちたいきいきとした情動。
それら、人々の生命活動に深く密接に関わる情動欲求までもが、エンターテイメントという形で、生産=消費活動の中で消費性向を分析、管理され、喚起され、消費活動にかりたてられる。

それは何も今に始まったことではない。
今でこそ格調高い音楽の代名詞である西洋クラシック音楽を見ても、ハイドンやモーツァルトは、王侯貴族の宴席のためだけ、そのためだけに「消費」される音楽を多数「生産」してきた。
それら「消費財」としての音楽が、歴史の評価を経て生きながらえ、今や芸術として「鑑賞」されるのも、どこか滑稽で皮肉な話でもある。

しかし見方を変えれば、それだけ、現実世界の中に私たちを突き動かすエモーショナルな衝動、情動が喚起されるような場面が、リアルな世界の中で不在であることの結果ということも言えそうに思える。
「日常」では得られない機会を「非日常」として、エンターテイメントの享受経験として消費する欲求。

全てが分断された現代において、身近な体験として欠けている機会、私たちを突き動かすエモーショナルな衝動、情動が喚起されるような場面。
それは、近代社会の中では規格に合わないものとして排除されてきたもの。
私の好きな音楽学者の岡田暁生は、この本の文中で「どれだけ洗練されたものであっても、背後にエロティックなもの、動物的な記憶、あるいは近代人というものがいやらしいとして排除してきた衝動というようなものが、完全になくなってしまったら芸術ではない」と言う。

日々,朝起きて,職場や自宅などで働き,その労働の対価で得た食料を摂取し,睡眠する。
人生が死ぬまでその過程の繰り返しに過ぎないものだとしたら,確かに文化・芸術は,耐久消費財としてのモノに比べ,必要不可欠のものとは言えないだろう。
だがしかし,聖書の教えにもあるように「人は,パンのみにて生きるのではあらず」なのだ。

私たちが生きる現実世界,全てのものが分断され,自分の力の及ばぬところに生存がゆだねられているという無力感,喪失感に満ちた現実世界では,私たちはみなすべて、社会システム,秩序を保つための規格的な行動を求められる。
使い古された言葉で言えば「規格化された歯車の一つ」として生きることを求められる。

文化,芸術は、この世界が完全にシステム化されてしまうのを、この世界が,そして私たちの生が,歯車のように単なる物質に化してしまうのを未然に防いでいる。

このような現実世界に生きるということは,その現実世界以外の所に生きる根拠を求めるということになる。
生きづらさと困難に満ちた現実世界は、逆説的ではあるが、芸術にとっての存在の必然性となっていることも否定できない。

この規格化された現実世界の中で、私たちは一時でも現実の憂さを忘れ,「今,ここではないどこか」へと連れて行ってくれる,いっときでも現実を忘れ夢を見せてくれるかのような芸術を求めるのだ。

芸術は,この科学技術に支配された世界で不条理な現代の社会にあって,ひとびとの救いとなり得るもの。決して単なる消費財としてではなく,私たちにとって条理と不条理の生存のバランスをとるうえで必要なものであるように思える。

「私たちが音楽を演奏したり、うっとりするような演奏を聴くとき、一時的に外から刺激が入ってくることから守られる。
そのとき、私たちは世間から隔絶した特殊な世界、秩序が支配していて不調和は閉め出されている世界に入り込むのである。
本来、これは有益なものである。それは現実逃避ではなく、もっと遠くまで跳ぶために後ずさりするための退却であって、外界からの逃げ道を用意するのではなく,適応を助けるものである」〜ストー(精神医学)「音楽する精神」

生きづらさに満ちたつらい現実世界も,そしてその中にあっても,音楽や絵画など心打たれる芸術作品が確かに存在するのも,それもまた同じ世界の中の出来事。
1枚のコインの表と裏。
こんな芸術があるなら,この世界に生きているのも悪くないな。
生きていれば,また更にまだ見たことのない絵画,聞いたことのない音楽と出会える,そう思えば,浮き世の空気もまんざら捨てたものじゃない。
そう思わせてくれるのが,芸術の持つ静かな,そして強い魔力であるように思える。

音楽はそのままでは空気の振動。絵画もそのままでは色彩や形態の配置。文学もそのままでは文字の羅列。そこに様々な「想像力」を働かせ,作者の創造物である作品を,まずは鑑賞し、次いでその振動、配置、羅列の中に、自分にとっての価値を見いだして、自分なりの価値を持つ芸術として認識すること。
この過程において,単なる物理現象や「モノ」は,まず意味ある作品となり,そして次に,それぞれの鑑賞者にとって自分なりの意味と価値を持つ芸術として認識されるに至るのではないか。

その時、われわれは、「消費者」ではなく「鑑賞者」とあり、作品は「消費財としてのモノ」ではなく「芸術作品」となる。
その意味においては、例えばクラシックやジャズ、ロックやポピュラー、映画音楽、民族音楽といった「ジャンル」の違いが「鑑賞される芸術作品」と「消費されるモノ」を分けるのではない。
先に挙げたモーツァルトやハイドンの例のように、消費されるクラシック音楽もあれば、聞く者の心を揺さぶる深い感動を生む、鑑賞される、芸術の名に値するポピュラー音楽もある。

「人の心を動かすことができなければ、芸術ではない」とするなら、
芸術であるか、芸術でないかを定めるのは、「人の心を動かすか、動かさないか」の違いだ。

私たちを突き動かすエモーショナルな衝動、情動は、自らの内部において夏の入道雲のように、内なる熱気をはらみながら、むらむらと立ちのぼるもの。
大海の水は熱をはらんで雲となり、雲は雨をもたらす。
たたえていたものがこらえきれずに涙となって落ちるように。
こうして水は、大気や海の水蒸気から雲、そして雨となり、清流のしずくの一滴から大河の流れとなり、そしてまた海へと注ぎ込んだり、大気に蒸発するといった具合に、その態様を常に変えながら循環していく。

人の心を動かす芸術作品と、それを鑑賞することで揺り動かされる心。
その心の動きが、時を超えて作品に新たな息吹を吹き込み、新たな価値をもったものとして、鑑賞者の心によって、あたかも今産まれたてのように新たな命を持ってよみがえる。
大気の対流、大海の海流のように、互いに交流し、循環する。

消費される情動では、この水のような潤いに満ちた、様々に態様を変える豊かでしなやかな循環は起こらない。
循環せずに、ただいっとき消費されるだけだ。


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