新・美の巨人たち〜「草間彌生 わが永遠の魂」を見る。
草間彌生のイメージと言えば,彼女の代表作であるカボチャの連作に見られる,水玉模様のモチーフが真っ先に挙げられる。
しかし私は、水玉模様という愛らしいデザインとは裏腹に,その模様は不気味な「目」を表しているように思う。
幼少期より幻視,幻覚に悩まされた彼女は,彼女を悩ませる幻視を作品に描くことで,その強迫観念から逃れ,困難を乗り越えようとした。
常に、相手の分からない視線にさらされているということは,私たちには計り知れないほどの耐えがたい恐怖であっただろう。
そしてニューヨークに活動の場を移してからも,前衛芸術家としての奇抜なパフォーマンスで,今度は具体的な人々からの非難という視線にさらされることとなる。
視線に心の内まで射貫かれている。
生きる,とは,彼女にとって、他者からの視線に耐えるということであった。
その視線を描くことで,「まなざしの恐怖」と向き合い,対峙し,乗り越え,克服しようとしたのだ。
水玉模様の「丸」とは,彼女を追い詰めるまなざし,視線を生む眼球の「丸」の形そのものである。
しかし近年のライフワーク「わが永遠の魂」では,その水玉模様の造形は変化しつつある。
水玉模様を思わせる真円から,より強く「目」を連想させる楕円の中に瞳を描いた丸の造形が,作品のモチーフの中心となっている。
その「目」は,もはや他人からの,自らの心の中までも射貫くような鋭い視線を放つのものではなく,むしろ彼女自身が,この世界へ向けるまなざしのように思えた。
不特定の得体の知れない誰かのまなざしの目ではなく,彼女自身の世界を映す目,そして彼女自身の世界に向けたまなざしを放つ目であるように思えたのだ。
「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である」〜シモーヌ・ヴェイユ(哲学者)
物事を見つめるということは,対象となるものごとを正視し,対峙し客体化し,自分の意識下において客観視できるということだ。
目を合わせられないということは,やましさ,あるいは相手のまぶしさなど,何かしらの目を背けたい理由があって,対象を正視できないということ。
水玉模様の丸い造形は,幼少期には,得体の知れない誰かからの,そして若き日には観客からの,容赦なく槍のように突きつけられ,浴びせかけられる外界からの視線を生む目。
今は,彼女自身が,純粋さも不純さも,美しいものも汚れたものも一緒くたになった,この世界を見る目。
「見返してやる」とは,よく言ったものである。
彼女の作品を見ると,そのエネルギーの一端に触れたような気持ちになる。
ルイ・ヴィトンのバッグやユニクロの衣類で,草間彌生のヴィヴィッドで生命力に満ちたデザインワークがコラボレートされている。
そのデザインを身にまとうということは,まるで古代の初期人類が,獰猛な野獣の皮をはいで身につけることで,その野獣のパワーを身にまとう感覚と似ているような気がする。
他者からの槍のように突き刺さってくる見えざる視線に恐れおののくのではなく,また立ち向かうのでもなく,それすらも「じっと見つめうる」,純粋という名のパワーを。
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