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2018年10月30日19:31

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ハリマオの真実

現在ほぼ忘れられつつある人物の1人に谷豊という人がいる。

戦時中ハリマオと呼ばれた人物と言えば、知っている人は知っているだろう。

彼は後に義賊として当時のマレーで絶大な人気をとった人物である。

谷豊は明治の終わり、理髪師としてマレーに越してきた日本人一家の子供だった。

「教育は日本人として受けさせたい」という父の意向で、日本の学校で学ぶため、幼い頃その故郷九州に戻ったこともあったらしい、しかし不自由な日本語からいじめにあったようで、またしばらくしてマレーに戻った。

しかし日本に対する憧憬は捨てきれず、20才を期に帰国し徴兵検査を受けた。

だが結果は丙種合格。

これはほぼ不合格と言われたに等しい。当時の日本では丙種は第二国民兵といわれ、軍には採用されなかった。

表向きには身長が足りなかったといわれるが、マレーで育つうち、敬虔なイスラム教徒となっていた谷豊にとって、天皇という絶対な存在は微妙な存在であったらしい。

検査官がそういう谷豊の資質を見逃すはずもなく、事実は後者であるだろう。

故郷でのいじめ、徴兵の実質不合格、谷豊には鬱々たる気持ちがあったはずで

「・・自分はマレー人として生きていく」

こう思ったとしても不思議ではないだろう。

この時点で、谷豊の人生に決定的なことがおこる。

不穏な時代である。生まれ育ったマレーのマラヤで満州事変に対して在マレーの華僑たちが排日暴動を起こた。

ガラスを砕く音や悲鳴の轟く中、

「逃げろ!」

というかけ声も虚しく、妹のシヅコが就寝中襲われ、暴動中国人によって惨殺。

その首は暴徒の手によって晒された。

事後、谷家の知り合いがなんとかこれを奪還、遺体の胴とつなぎ合わせたものの、家族の慟哭は止むことが無かった。

家族は日本に帰国するしか無かったが、その報を母から受けるや谷豊は激怒する。

マレーにかえった谷豊は後に単独で犯人を捜し当てるが、その行動は虚しく犯人は無罪放免となった。

つてを頼り、日本政府関係者に懇願して見るも、結果はかわらなかったらしい。

あきらめず統治者であるイギリス人に訴えかけ何度も懇願するが、イギリス官憲は逆に谷を不審者と見なしてなんと投獄する。

獄中の谷は血涙を呑む心境であっただろう。

釈放後の谷はその人生を一変させる。

「・・・ならば頼れるのは我が身のみ」

彼は盗賊となってイギリス人富豪の邸宅を襲い、同じく富豪の華僑を襲撃した。

それに呼応したのが谷の友人であるマレー人たちだった。

もともと正義感の強く、仲間思いの人柄だっただろう、谷の元には最盛期何百人とも言われるマレー人が集まり、谷はマレー人から

「ハリマオ」

として怖れられた。

その首には莫大な懸賞金までかけられる。

しかしマレー人達はこのハリマオ一味を恨む物は誰1人としていなかった。

それよりもマレーでは後に伝説になるほどの人気を博した。

なぜか

ハリマオは決して貧しいマレー人を襲うことはしなかった。

人も殺さなかった。

それどころか貧しいマレー人には奪った財貨さえ与えた。

マレー人の多く感激し、ハリマオを褒め称えた。ハリマオはマレー人であると思っていたらしい。

一方同族であった日本人からは白眼視された。

人気をうらやむ者もいたらしい。

谷にとって辛かったのは実家に勘当されたことだろう。

この期を境に、家族とはほぼ音信不通となっていく。

そんな中、太平洋戦争が勃発。

南下をすすめる日本軍にとって現地に溶け込んでいるハリマオ一味は絶対に味方に欲しい勢力であった。

日本陸軍参謀本部は諜報員である神本利男をタイに派遣する。当時谷はタイの刑務所に収監されていたのだ。

莫大な金をタイ警察に払って釈放させたが、どうやら谷は感謝もせず気乗りしなかったらしい。

「何を今さら」

谷としては尋常ならざる気持ちがあったのだろう。

言葉の不自由さから来る福岡でのいじめ、兵役不合格、そのどれもの思い出に灰色がかかったようだった。

谷を人間として扱い、仲間として迎えてくれたのは、誰であるだろう。

マレーであり、故郷マラヤの友人達ではないか。

「・・自分はマレー人としていきるつもりです!」

谷は絶叫に近い叫びで説得に来た神本に言い放った。

しかし神本は根気強く説得を続けた。

「・・いまだに谷は日本人であるに違いない」

神本はどこか確信をもっていたのだろう。
根気強く、そして誠実に谷を説得し続けた。

「君を愛してくれたマレーの人達が、このまま白人に蹂躙されていいのか?」

神本は谷の利に転ばない性格を見抜いてか、マレー人の為に、マレー解放のために、どうかその力を日本に貸してくれと、谷に懇願したらしい。

当時実際マレーの経済・政治はイギリス人および華僑によって握られており、妹が殺されても誰1人裁かれない苦渋を舐めていたのは谷自身であった。

やっと谷は決心した。

それからの谷は日本軍の南下に陰に日向にハリマオとして力を尽くすことになる。

後に日本軍の参謀と面会しても、その人柄は

「これが盗賊の親玉か」

と思わせるほど謙虚な青年そのままだったらしい。

丁寧な言葉、そして初めてあった人にお辞儀を崩さない姿勢、彼はどこから見ても日本人であった。

しかし反面ことを起こすや大胆不敵な男であった。

攻略不可能と呼び声高いイギリス軍防御陣地ジットラ・ライン、そこで構築を手伝っているマレー人にサボタージュ工作をして、日本軍の進撃に間に合わせ容易に陥落させた。

その他日本軍の南下を阻止しようと、橋にしかけた爆弾を解除するなど、盗賊として破壊工作をするハリマオにとって餅は餅屋の仕事らしく、苦労しながらでもイギリス人の爆弾を取り除いていった。

一報、運命は谷の命を病魔で奪うことになる。

谷はマラリアに深く冒されていた。

昭和17年3月、いまだ破竹の進撃を続ける日本軍を尻目に、谷はその人生の幕を閉じる。

日本軍の藤原参謀が、その死の前、それまでの谷の姿にあまりにもいじらしさを覚え、谷の身分を正式に軍属とし、病床の谷に伝えたところ、谷は目に涙をためて感激したらしい。

「私が!谷が!日本の官吏さんになれますんですか。官吏さんに!」

死に際して、谷は最初から最後まで行動を共にしていた神本と硬く手を握り言葉もなく見つめ続けていたらしい。

その胸中にあったのは一体何だったのか。

30才の人生だった。

開戦前、谷は故郷の母親に手紙を送っている。

長文ながら、最後に掲載しておく。

「お母さん。
豊の長い間の不幸をお許し下さい。豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配しております。

お母さん!
日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。豊は日本軍参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くこととなりました。

お母さん喜んで下さい。
豊は真の日本男児として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。

豊は近いうちに単身英軍の中に入って行ってマレイ人を味方に思う存分働きます。生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。

お母さん!
豊が死ぬ前にたった一言!いままでの親不幸を許す、お国のためにしっかり働け、とお励まし下さい。

お母さん!
どうか豊のこの願いを聞き届けて下さい。そうしてお母さん!長く長くお達者にお暮らし下さい」
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