こちらは新緑の美しい爽やかな季節になりました。
住まいの周りの筍などを頂くのに楽しくも忙しい毎日です。けれど、
政治や各種組織、個人の異様な問題などの報道も連日届いてしまいます。
非難されて当然と思われるような非常識や隠し切れない不正も目に付きます。
不正を摘発して改善に繋げる行動は、基本的に必要あり正しいことでしょう。
それを追究する立場の方達のご心労はきっと、それぞれ大変なことでしょう。
ただ、話題の事件や人物を批判する方達、本人の生き方はどうなのでしょうか。
自分の事を棚に上げて、と言われて当然のような人達もおられるかと思います。
また、自身のエネルギー管理的な意味での懸念はやはり湧いてまいります。
何事においても思索分析するには当然エネルギーを消費します。特に、
正義感や使命感を持って非を正そうとする場合は余計に大変です。そして、
自己の理念や実績が無いと、単なる思い付きや愚痴にもなりまねません。
例えば、政治は元々神聖な「まつりごと」だったと謂われます。
大相撲の最初の試合目的は奉納という神事の一種であったようです。
そういう純粋な意味は確かに薄らぎ曲がっていると言わざるを得ません。
神事というのは、本当は一般常識で測り知れない大変な事だと思います。
一瞬一瞬「かむながら」が理想で、でき得る限りそれに近い状態を目指し、
洗顔も食事も何から何まで清潔を心掛けて神霊と共にあるという生き方です。
地球の現代人が全員そういう生き方をする事は無理中の無理でしょう。私も、
現実の心身を少しでも改善するための実行可能な方法の提案しかできません。
けれど、少しずつでも自分自身が進歩する、向上する、成長するというような、
工夫努力を日々続ける生き方は非常に大事かつ必要ではないでしょうか。
そして、たとえ正当な理由があろうと、理路整然とした意見であろうと、
他者のことをとやかく批判する前に、先ず自分自身を省みて非を正す。
そういう行為は、他者に発表しない陰徳なら尚善いでしょうが、
大多数が認める美徳、品の良い行為ではないでしょうか。
新緑のような清々しい気持ちで過ごしたいものです。
「己の非を鎮せずして、なんぞ人の非を鎮す」
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