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2018年06月30日18:50

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豆腐を切る音,盛りの付いた猫の酔いをも醒ます

4月からの新しい職場に,どうもなじめず,音楽すらあまり聴く気分になれなかった。
休日,気晴らしに音楽を聴こうとしても,つい仕事のことが頭を離れず,そんな気持ちで聴くことは音楽に対して失礼であるように思え,加えてCD1枚分の長さを通して耳を傾ける気力も集中力もなく,プレイヤーにディスクをかけても,数曲聴いて断念,1枚を通して聴くことができないと,そんな状態が続いていた。
しかし,今日は本当に久しぶりに1枚を通して聴くことが出来た。
その1枚とは,ホロヴィッツの最晩年(81才の演奏!)の録音。
年齢を重ね,ほどよく枯れて好好爺となったホロヴィッツが,本当に自分が好きな弾きたい曲だけを弾き,自分の演奏が好きなリスナーだけに届けたい,そんな思いが伝わってくる演奏だ。
シューマンの「クライスレリアーナ」や,スカルラッティのソナタなどが収録されている。

話は変わるが,古今の書の名筆の最高峰に「蘭亭序:らんていのじょ」という大傑作がある。
書道をたしなんだことがある方なら,一度はその臨書(模写)を経験されたこともあると思う。
中国南北朝時代の名筆家,王羲之(おうぎし)が,3月の好日に「曲水の宴」(水を引いた庭園の流れのふちに歌人が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読むという風雅な遊び)を催した際,親しい仲間達との雅な遊びに,ほろ酔い気分で一筆したためた書である。

書いた時は酔っており、誤字脱字を黒く塗りつぶした痕も多々あり,後に何度も清書しようと試みたが、その草稿以上の出来栄えにならなかったと言い伝えられている。

このエピソードを聴いて思い出すのが,シューマンの「クライスレリアーナ」
といっても,真逆の話だが(^^;)

当時、将来の妻となるクララの父親の反対から、会うことさえ思うようにならなかった未来の妻への情熱と愛をこめて作曲したこの曲。
「こんな音楽ができました。こんな美しいメロディです。あなたを思い,あなたがこれを弾くことを思いながら書いたもので,他の誰でもなくあなたに捧げます。あなたは弾いて見て,きっとあなた自身をこの曲の中に発見してほほえむことでしょう」(結局,後にショパンに献呈(^^;)

これぞドイツロマン派のピアノ曲の権化といった,情熱と思い入れに満ち,ロマンティシズムの熱に浮かされたかのような「クライスレリアーナ」,実はどうにも好きになれなかった。
名演と言われるアルゲリッチ,そしてホロヴィッツ(前述の80才を超えてからの演奏ではなく,まだ60代の演奏)を聴いてみても,どうにもピアニストが酔った勢いに任せて情熱的な演奏を弾き出したいがために,「クライスレリアーナ」を利用しているだけのような気がして。

もちろん,「蘭亭序」に見られるように,酔いに任せた情熱的な演奏が,心を打つ作品に昇華することもあることは分かる。
しかし,「クライスレリアーナ」については,酔いたいがためにワインを飲むような本末転倒さ,あるいは自らの表現力にシューマンの思いを代用するかのようなあざとさが感じられて,あまり好きにはなれなかった。
私の好きなピアニストにして優れた文筆家でもある青柳いずみこ氏は「(ピアニストが)勝手に狂ったり,盛りのついた猫のように迫ってくるだけで,みんな曲を利用しているだけだ」と辛辣な言葉を述べている。
正しく,そんな印象しか持っていなかった。
(注 青柳いずみこ氏は,ピアニストの姿勢に疑問を呈しているだけで,決してこの曲に批判的なのではない。内田光子の演奏は「甘えん坊のシューマンが,内田光子の大きな懐であやされ,寝かしつけられている」と高く評している)

ところが,この80才を過ぎてのホロヴィッツの「クライスレリアーナ」は,そんなあざとさや,わざとらしい作為,無駄な力や情熱(らしきもの)とは全く無縁の,実に素晴らしい演奏であった。

冒頭述べたように,本当に自分が好きな曲だけを弾き,自分の演奏が好きなリスナーだけに届けたい,そんな思いが伝わってくる。

全くの偶然だが,坂本龍一が,同じCDにカップリングで収録されているスカルラッティのソナタを聴き「豆腐を切るような演奏」と評していた。
坂本は「豆腐を切るような演奏」について,詳しい言及は行っていないが,私なりに解釈すると,意図するところは豆腐を「崩す」のではなく「切る」こと。
豆腐を切るのに,力は無用だ。
断面に飾り包丁の細工を入れようなんて,そんな作為もまた無用。
そんな一切の余計な力と邪念なく,対象に臨むとき,さざ波一つ立てない,まるで鏡面のような,全てを反映するかのようなゆがみひとつない水面のように,どこまでも円滑でエッジの立った豆腐の切断面が現れる。
そこには,力も,迷いも,ためらいも,情熱らしきものも,そして邪念も作為もない。
そんな,余計な力や迷い,邪念などが,もし微かでもあったら,たちまち切断面のゆがみ
として現れることだろう。

その「ゆがみ」「歪み」が生みだす,身もだえするような感覚もまた,ロマン派音楽の魅力なのだが。

ホロヴィッツの最晩年の「クライスレリアーナ」は,聴衆を熱狂させる情熱的な演奏を繰り広げるためにワインを飲むような,そんな本末転倒さとは全く無縁の,作曲家がクララにあてた純粋な思いが,その純度を保ったまま,私達リスナーの耳に届くような,言わば,作品を本来の姿に戻すような,大変好ましい演奏に思えたのである。

豆腐を切るような,研ぎ澄まされた音。盛りの付いた猫の,酔いをも醒ます。
冷や奴で酔いをしめるような感じ?

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