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2016年12月09日00:01

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果たせなかった「今一便」  

https://www.youtube.com/watch?v=r51bwKtmi7

 最近は、TBSの『プレバト!!』等での夏井いつき先生の容赦ない毒舌が好評で、すっかり俳句というものが身近になりましたが、明治時代にこの俳句の一大改革を成し遂げたのが、夏井先生と同郷で、結核に倒れた正岡子規でした。「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句で有名なあの人です。 
 この句は、「鐘つけば 銀杏ちるなり 建長寺」という句への返礼の句と云われています。こちらの句の詠み人は、夏目漱石です。 
 東大予備門で知り合った子規と漱石は本当に仲が良かったらしく、数多くの逸話が遺っています。早稲田界隈をしばしば一緒に散歩していた話(後年、子規は「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と書き遺しています)とか、松山に漱石が居た時に、子規が鰻丼を奢ると言いながら、その代金を漱石に払わせた話とか、等々。 
 そもそも「漱石」というペンネームからして、元々数多い子規の俳号の一つであったものを漱石が譲り受けたものでした。「漱石」というのは、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えであるということです。 
 
 でも、漱石が、どんなに負け惜しみが強い変わり者であったとしても、異郷の地での孤独な一人暮らしはこたえたらしく、単身留学したロンドンで彼は神経衰弱になってしまいます。 
 にもかかわらず、この時期に漱石が書いて遺した『倫敦消息』には、明るい面白さが感じられます。 
 『倫敦消息』は、留学中に漱石が子規に送った手紙を基にしたものです。 
 実は、留学のため日本を離れる際、漱石はすでに病床にあった子規と生きて再び会える機会はないかもしれないと覚悟していました。それだけに、子規に残された時間を少しでも笑いの多い豊かなものにしてやりたいという思いが強く働いたようです。 
 漱石自身のロンドン生活のエピソードを諧謔を交えて綴ったこの手紙は、病床の子規を大変に喜ばせ、子規はこの手紙を『倫敦消息』と題して、自分の創刊した俳句雑誌『ホトトギス』に掲載しました(『ホトトギス』第4巻8号及び第4巻第9号)。 
 子規は、余程嬉しかったのでしょう、明治34年(1901)11月6日付の手紙で漱石に、「モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ」と書き送っています。 
 が、残念ながらこれが子規から送られた漱石宛の最後の手紙となってしまいました。 
 この手紙を受け取った漱石のほうも、神経衰弱が悪化し下宿に閉じ籠るほどになったこともあって、子規に宛てて、さらなる「倫敦消息」を書き送る元気は残っていませんでした。子規の願いを聞き届けることができなかったという思いは、漱石に深い後悔をもたらしたに違いありません。 
 多分、そのためでしょう、漱石は、帰国後、ロンドンでの自転車稽古の顛末を記した『自転車日記』を執筆しています(『ホトトギス』第6巻第10号)。これは、『倫敦消息』にも勝る面白さで、私も読んでるときは、アハアハと他愛無く笑っていたのですが、あとがき等で上述のような執筆の経緯を知り、ここには亡き友への篤い想いが溢れていたのだと感じ入ったものでした。 
 それは、果たすことのできなかった子規への「今一便」であったと言っていいと思われます。 
 漱石が小説家として本格的にデビューする前には、こんなことがあったのですね。 
 
 今日は、夏目漱石の100回目の命日です。 
 
参考:http://kosukemiyata.com/ja/notes/(4番目の記事) 

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