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2015年03月07日23:42

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オルガンとピアノ,そして生命と音楽

今日聴いた音楽。「20世紀最大のオルガン音楽の作曲家」と言われるジュアン・アラン「ドリア旋法のコラール」の坂本龍一によるピアノ編曲版。

オルガンの原曲は,息の長い荘重な節回しから,敬虔で静謐な祈りが聞こえてくるような音楽で,ちょうど映画「惑星ソラリス」のテーマである,バッハのBWV639コラール前奏曲「主よ,我,汝を呼ぶ」と共通したものを感じる。



オルガンは音を奏でた後,音量が一定量持続する「持続音」の楽器だが,ピアノは音を出したら最後,ペダルで伸ばす以外に自分ではその音をどうすることもできず,ただ消え去るのみの「減衰音」。音を出した後も,ある程度自由に音量や音程に変化をつけられる弦・管楽器とは根本的に異なる。いわば打楽器的とも言える。
そんな減衰音の楽器であるピアノで,持続音のオルガン曲を編曲するとなると,空間を音で満たすようにアルペジオの符割を細かくしたりして常に音が鳴っているようにしないと, オルガン譜をそのままピアノで弾いたのでは,スカスカに間延びした音楽になってしまう。

ところが「ドリア旋法のコラール」では,編曲者の坂本は減衰するピアノの音を,あたかもそのまま音が命絶えるかのように消え去るがままにするとともに,1小節の中で拍ごとに繊細な和音が移りゆくように編曲している。誤解を恐れずに言うと「音楽」というより「音に満たされた空間」という感じ。ちょうど,ドビュッシーの「沈める寺」のようだ。

ピアノの打鍵の瞬間に,音はこの世界に,はつらつとしたエネルギーを持って生まれ,やがて精気を失い減衰し,残響となりながら消えていく。消えていくまでに,先に打鍵して生まれてきた音と和音となって響き合い,あるいは旋律線を構成し,老いて自らの音が消えゆく最中も,その後に打鍵し生まれてきた新しい音と共鳴し,共生していく。それは,私たちの日々の生活での,他人との関わりや,生命の営みそのもののようにも思える。

音と生命は似ている。楽器を弾いて音をこの世に放つということは,音に命を吹き込むと言うことにつながるのではないか。
そして,ひとつの曲は構成される音の数だけ,自らの指先から放たれた無数の生命とも言える音から成り立っているのではないか。

そう考えると,一音一音をおろそかに弾くことはできないように思えるのだ。

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