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2011年05月16日09:09

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『 ファイトクラブ 』。

 日、親友に薦められて、『 イングロリアス・バスターズ 』をDVDで観たが、実に酷かった。真っ当な戦争映画ファンやドイツ軍フリークには許し難い「 悪趣味の極み 」だった。劇場で予告編を目にした時から嫌な予感はしていたが、予想をはるかに超えた暴走に、しばらく不快感が消えなかった。そのことを映像仲間に話したら、同じタランティーノ監督の『 デス・プルーフ 』を貸してくれた。これがなんと輪をかけて酷かった。『 デス・プルーフ 』に比べれば、『 ・・・バスターズ 』がいかに映画として完成されているか、痛感したほどである。この2つのタランティーノ映画については、いずれ日記に書き残したい。いや、書かずにはおれない、というのが本音である。

 その映像仲間が、「 今度は絶対間違いありません! 」と自信をもって貸してくれたのが、『 ・・・バスターズ 』で主演をしていたブラピの『 ファイト・クラブ 』(1999年公開)である。どんな内容か尋ねる私に対し、彼が言ったのは、「 とにかく黙って観てください 」「 ジャケットも読まないでください 」とのアドバイス。あまり長く借りているのも失礼なので、仕事の合間に観てみた。これがどうだ。あまりの面白さに、2回続けて観てしまった・・・・。何の予備知識もなかったからこそ、この映画を心底楽しむことができた。彼のアドバイスは、実に的確だったと言える。

 物語の主人公(エドワード・ノートン)は、大手自動車メーカーの査定係として全米各地を飛び回って、事故原因の調査に奔走しているサラリーマンだ。あまりの激務にストレスが溜まって、彼はひどい不眠症に悩まされていた。ある時、病院の医師に薬の処方を訴えるが、医師は適度の運動で生活を改善することを薦めた。それでも、なお眠れぬ苦痛を「 不幸だ 」と主張する彼に、医師は「 睾丸ガンの患者の会に参加してみると良い。本当の不幸を知ることができるだろう 」と突き放すように告げる。アドバイスに従った彼は、患者の会に参加し、患者たちと共に泣くということで心の平安を取り戻し、熟睡できるようになる。病み付きになった彼は、次々に難病患者の会に参加し、熟睡を手に入れたが、ある晩、睾丸ガンの会にマーラ・シンガー(ヘレナ・ボナム・カーター)という女性が参加して来たことから、何もかもが台無しになった。マーラが偽患者であるのは明白だったが、マーラに見つめられると、彼は自分が「 偽者! 」と責められている気がして集中できず、患者たちと泣くことができなくなってしまったのだ。再び、不眠に悩まされるようになった彼は、出張帰りの飛行機の中で、石鹸の製造販売をしているという奇妙な男、タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)と知り合う。何から何まで自分とは正反対のタイラーとの出会い。それは彼の人生を根底から変えることになる、運命の出会いだった・・・。

フォト


 この先、ネタバレを含むので、未見の方はご遠慮願いたい。




















 『 ファイトクラブ 』の監督がデヴィッド・フィンチャーだということを知らなかったのは幸運だった。彼が監督しているとなると、かなり先入観が入り込んでしまい、素直に映像を観ることができなかっただろう。ブラピとフィンチャーの組み合わせと言えば『 セブン 』を思い出し、何かどんでん返しが仕組まれているはずだと「 裏読み 」してしまうからだ。物語の構成は、実は『 セブン 』ではなく、シャマランの『 シックス・センス 』の方によく似ている。びっくりするほど「 大きな秘密 」が隠されていて、そのヒントが観客に数多く提示されている点はそっくりだ。観客は目の前のヒントに全く気づかない。一度観て、謎に驚いた後でも、観るたびにヒントが巧妙に配置されていることに感心させられてしまう。主人公が知り合ったタイラー・ダーデンを「 奇妙な友人 」と捉える限り、ヒントが「 主人公とタイラーが同一人物だと教えるものだ 」とは決して見抜くことができない。特に、主人公とマーラの会話は見事だ。マーラとの会話がかみ合わず、毎回、彼女がおかしな反応を示すのは彼女に問題があるのではなく、主人公の人格が入れ替わってしまうことに起因するのだが、観客(視聴者)には「 やっぱりマーラは異常だ 」としか観えない。最後に全ての秘密が暴露された後、あまりの見事さにまんまと騙されたことが爽快に感じてしまうほどである。いやぁ〜、やられた・・・・。

 この物語は、暴力や破壊などの外的作用によって個人が精神的な問題を克服し、「 新しい自分 」を生み出すプロセスを描いている。暴力的だが妙に説得力があるのは、他人を傷つけて楽しむ暴力ではなく、自分の精神的な殻を破る自己破壊のための暴力だからだろう。傷跡を作り、血を流すことで「 自分が生きている 」と実感するのは常軌を逸してはいるが、難病で死を目前とした患者たちの会に参加して「 自らの生を確認すること 」のはるか延長線上にあると言える。タイラーと主人公が作るファイトクラブ、タイラーが主人公ぬきで創設する私設軍隊はどちらも過激で面白いエピソードだが、根底にある「 自己破壊 」は同じである。

 主人公の他に重要な人物が二人、存在する。マーラ・シンガーとタイラー・ダーデンだ。会った瞬間からマーラに強く魅かれていながら主人公がそれを決して認めず、かえって彼女を「 腫瘍のような女 」「 舌先が触れると痛む口内炎のような女 」と憎悪するのは、患者の会での楽しみを邪魔されたからだけではない。世をすねたようなマーラの生き方が、嫌になるほど自分によく似ていたからだ。主人公が認めたくない「 自らの嫌いな部分 」を突きつけられたように、彼女の姿は不快だったに違いない。

 反対に、タイラー・ダーデンは「 自らこうありたいと望む、理想像 」だった。軟弱で日和見で常識的なモテない男=「 陰 」の主人公と、筋肉質で野性的、人望が厚く、精力絶倫なモテ男=「 陽 」のタイラー。主人公がイケアで北欧家具を買い集めることに喜びを見出すのと、物欲やスタイルに執着せず、自由に生きることを最善とするタイラーは正に究極の好対照を成している。主人公が成しえなかったことを、理想像タイラーが主人公の部屋を爆破することで、強制的に主人公に新しい人生を歩み始めさせたのは重要だ。人は、自ら大きな転進を選択するのは困難なのだ。
 面白いのは、物語の中で主人公に名前がないことだ。人格は違うが、二人は同一人物=タイラー・ダーデンだからだ。ただし、どういうわけか、主人公は自分の名前がタイラー・ダーデンだと終盤まで気づかない。ここが映画的なトリックだ。観客(視聴者)もその時点で、主人公が名前で呼ばれていなかったことを初めて意識する。やっぱり、この映画はすごい・・・。

 シンガーとタイラーの象徴する意味がわかると、映画冒頭の主人公の唐突な独白が彼らの存在に当てはまることに気づく。

 『 人は愛している相手を傷つけ 傷つける相手を愛する 』

 これは「 愛している相手 = マーラ = 自分の嫌いな部分 」「 傷つける相手 = タイラー = 自分の理想 」と解釈すると映画を読み解く鍵になる。終盤、マーラへの愛を素直に認め、破壊活動に暴走し始めたタイラーと闘って訣別することで、彼はついに「 真の自分 」に到達する。タイラーは消え、マーラと二人手を携えて、窓の外の未来を見つめるエンディングは美しい。主人公はマーラに言う。「 僕たちは最もまずい時に出会ってしまったが、これからは違う 」 主人公の後ろ姿は、なんともいえぬ自信と幸福感に満ち溢れている。
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