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日記一覧

つぎの「実に非(あら)ず、虚(こ)に非ず、如に非ず、異に非ず」というのも、これまた非常にむずかしいことがらです。実・虚「実」というのは、「実際にそこにあると見える」ことです。「虚」というのは、「そこにないと思える」ことです。形に現われているもの

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生(しょう)・死(じ) 退(たい)・出(しゅつ)ところで、如来は、この三界のほんとうのすがたをそのまま見通すことのできるお方です。「生死」というのは、変化ということです。「退」というのは、ものごとが消え去ること、「出」というのは、ものごとが現われる

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つぎに、世尊はこうお説きになります。所以(ゆえ)は何(いか)ん、如来は如実に三界(さんがい)の相を知見(ちけん)す。生死(しょうじ)の若(も)しは退、若しは出あることなく、亦(また)在世及び滅度の者なし。実に非(あら)ず、虚(こ)に非ず、如に非ず、異に非ず、

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それでは、日蓮上人が「念仏無間(ねんぶつむけん)、禅天魔(ぜんてんま)、真言亡国(しんごんぼうこく)、律国賊(りつこくぞく)」と叫ばれたことは、仏意に反するのではないかという疑問が、当然おこることと思います。しかし、これはこれでりっぱに理由のあるこ

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このことは、本仏と迹仏のちがいがしっかり解れば、かならずひとりでに解ってくることと思います。仏の教えというものは、こんなに広大無辺なものですから、迹仏である釈尊も、他の教えを排斥するようなことはなさいませんでした。当時インドでいちばん勢力の

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卑近(ひきん)な例をとりますと、「栄養」というものと、「米」「パン」「豆」「牛乳」「魚」「塩」といった個々のたべものとは、別々に存在するものではありません。米も身の養いになり、牛乳も身の養いになり、野菜も身の養いになります。これらのように正し

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 これはなにもわたしが仏教徒であるから、そう解釈するのではなく、仏というものが宇宙の大真理であり、大生命であるかぎり、それに包容されない真理があるはずがなく、それより外に「法」があるはずがないからです。したがって、仏教だからほんものだ、キリ

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 さて、こうして、あるいは己身を説き、あるいは他身を説き、あるいは己身を示し、あるいは他身を示し、あるいは己事を示し、あるいは他事を示して教化されるのは、すべて真実の教えであって、虚しいもの(人間を向上させ、ほんとうの悟りに至らしめるという

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 このように、痛みとか苦しみというようなものは、いやな、歓迎されないことがらのようですけれども、じつはそれを通じ、それを仲立ちとしなければ、身体に恐ろしい不調和が起こりつつあることが解らないのです。 肉体のことだけではありません。「三車火宅

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己事(こじ) たとえば、失恋や事業の失敗や家庭の不和などにうちひしがれたり、いらだったりして、心が真理のレールを踏みはずし、調和を失っている状態にあるとしましょう。そういうときに、仏の教えによってほんとうの心の持ちかたを悟ることができれば、心

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己身(こしん) 他身(たしん)ここのところは、たいへんむずかしいのですが、じつに大切なところでもあります。 はじめの「己身」というのは「己の身」すなわち仏の本体ということで、本仏をさしています。また「他身」というのは、その本体が然燈仏とか阿弥陀

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 さて、世尊はさらに仏の方便について詳しくお説きあかしになります。諸の善男子、如来の演(の)ぶる所の経典は、皆衆生を解脱(げだつ)せんが為なり。或(あるい)は己身(こしん)を説き、或は他身(たしん)を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事(こ

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「小法(しょうほう)を楽(ねが)える」ものというのは、声聞や縁覚程度の悟りで充分だと考えている人びとです。そういう人びとに対しては、迹仏であるご自身の経歴をお語りになって、わたしもこうなったのであるから、みんなもなれるはずだ、さあ一心に励みなさ

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 さて、世尊は説法をおつづけになります。諸の善男子、如来諸の衆生の小法を楽(ねが)える徳薄垢重(とくはくくじゅう)の者を見ては、是の人の為に我少(わか)くして出家し阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得たりと説く。然(しか)るに我実

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法眼「法眼」というのは、芸術的なものの見かたです。普通の人には、山はただ山と見え、雲はただ雲と見えましょうが、心の澄みきった詩人にとっては、その山があることを話しかけ、雲があることを教えているように感じるのです。花のよそおい、木々のそよぎ、流

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天眼「天眼」というのは、理づめに追求していって、その物の本質を見分ける見かたです。いわば科学的な見かたです。こういう見かたで見ると、目の前にある水という液体も、酸素と水素という気体が集まって出来たものだということもわかるし、何年何月何日何時

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 仏は、衆生の一人一人について、こういう「信・精進・念・定・慧」の五根がどの程度であるかを仏眼をもって見分けられ、それによっていろいろな導きかたをなさるというのです。「仏眼(ぶつげん)」というのは、慈悲の眼という意味です。このものを救ってやろ

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定根「定根」というのは、その字のとおり「決定」した心です。いったんこの信仰にはいったら、どういうことがあっても、心をグラグラさせることはない。迫害があろうと、誘惑があろうと、じっとそれに耐え抜き、この教えひとつにつらぬいていこう・・・という

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念根「念根」というのは、「つねに念じていること」です。仏さまのことを、いつも心の中に思っていることです。 もちろん、実際問題として、一刻も仏さまを忘れずにいるということは不可能です。学生が勉強に熱中しているとき、あるいは社会人が自分の仕事に

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